お話をしよう
帰ってきてまずは昼食を食べることになった。
せっかく買ったワンピースを汚すわけにはいかないので、私は2階の部屋で自分用のシャツとズボンに着替える。
ダイニングに戻ればホットドッグに似たパンとさっき買ってきた牛乳を出される。
今まで牛乳の違いを気にしたことがなかったけれど、この世界で初めて口にした牛乳は濃厚だった。
口に入れた瞬間に味が広がり、飲み込む時も液体なのだけれどサラッとし過ぎない。
ごっくんとしっかり喉に流し込む感覚は少し食べ物に似ているような……とにかく美味しかった。
パンも挟まれたレタスがシャキシャキしていてお肉と一緒に食べると食感が楽しい。
「サヨは食べてる時の表情が豊かだねぇ」とシュラフに言われてしまった。
お腹の虫の音が賑やかだったこともそうだが、私は意外と食いしん坊なのかもしれない。
食べ過ぎがないよう気を付けようと思いながら昼食を済ませた。
午後一番に私は使っていないから好きにしてと渡された30センチほどの木箱を2階の部屋に運んだ。
中には服をかけるためのハンガーと少し古そうな櫛が一本。
木箱を下ろして中身を出し、櫛は机に、ハンガーは先ほどのワンピースを通して壁にかけておいた。
空になった木箱には新しい服を入れ、整理を済ます。
1階に戻るとシュラフの姿がなかった。
家の外に出れば小屋の方向で物音が聞こえた。
朝のような犬たちの姿はなく、時々猫の姿を見るものの進路を塞がれることなく小屋まで歩く。
フルルルッ。
朝より落ち着いた鳴き声が私を呼び止める。
馬の柵を見れば白馬のパフォスが真っ直ぐこちらを見つめていた。
少々迷ったが、呼ばれたからにはとパフォスに近寄っていく。
そうすればパフォスはすっと頭を下げた。
「…………よしよし」
昨日よりも迷いなく私はその額を撫でる。
パフォスの瞳が少しだけ細くなったように見える。
そういえば動物は撫でる場所によって機嫌が違うというのを思い出す。
馬が喜ぶのはどこだろう?
私の身長ではそんなに遠くまでは撫でられないな、そう思いながら顔を順番に撫でていく。
すると視界の隅にそろりと動く人を見つける。
「……? しゅ、」
声をかけようとした瞬間、真剣な眼差しでシュラフは口元に指をぴっと当てる。
静かにして!というハンドサイン。
開いていた口を静かに閉じて再びパフォスに向き直る。
白馬は小さく上下に頭を動かしながら熱い眼差しでこちらを見る。
どうしようか迷っていると、視界の隅でシュラフがパクパクと口を動かしながら先ほどとは違うハンドサインを送ってくる。
撫でろ。
多分ではあるけどそう伝えようとしている気がする。
指示に従って?再びパフォスを撫で始めると白馬は途端に大人しくなる。
その背後でシュラフは長い棒を構えた。
2メートルくらいはある柄の先には木製の小さな三叉になった櫛のような物が付いていた。
ゆっくりゆっくり刃の先がパフォスの背中に近づき、そっと触れた。
ピクンと白馬の全身が揺れ、少年はさっと顔を青くする。
「わ、ぱ、パフォスの撫でて欲しいところはどこかな〜?ここかな〜?」
咄嗟に私は自分でも分かるような猫撫で声でパフォスに語りかける。
そうして先ほどまでより念入りに顔中を撫でた。
その間にシュラフが謎の道具でパフォスの背をさっさっと撫でる。
そうして二人の全身撫で回しは実に数分かかった。
「いや〜助かったよ、ありがとう!定期的に体を掻いてあげるんだけどパフォスはあれが嫌いでさぁ。
いつも苦労するんだけどサヨのお陰でスムーズに終わったよ〜」
夕飯のポテトサラダを口に運びながら昼の苦労を話す。
あの後も小屋の掃除や畑の水撒きを見せてもらい、少し手伝ったが、それでもパフォスの事が一番神経を使った。
終わったあの後シュラフに気づいたパフォスがしばらく彼を追いかけ回した。
その内遊んでいると思ったのか他の2頭もそれに加わり、滅多に見られないかけっこが柵の中で10分ほど続いた。
柵から出てきた途端に地面へ倒れたシュラフと、それを即座に囲む犬たちの容赦ない甘えを私はただ見ていた。
当の本人はけらけらと楽しそうに笑っていたけど、相当疲れたと思う。
これを毎日続けているのだと思うと、目の前の少年がとても逞しく見えた。
「? どうかしたのサヨ?あ、もしかしてご飯が口に合わなかった……?」
「そんな事ない。とっても美味しいよ。ちょっと考え事をしていただけ」
「もしかして疲れた?村まで行ったし手伝いもしてもらったもんね」
「それこそシュラフの方が疲れたのではない?私に付き合ってもらったり、その、色々あったから」
「あははっ!全然って言ったら嘘だけど、そんなにでもないよ。むしろ今日は楽しい事が多かったからね」
ニコニコと笑って話す彼の顔に疲労の色は見えない。
今後のことを考えると私ももう少し逞しくなるべきだなと思わされる。
手伝いとしてしばらく厄介になるからには、ちゃんと役に立ちたい。
「そういえば、サヨに聞きたい事があるんだけど」
「私に?」
最後の一口を飲み込んで、シュラフがじっとこちらを見てくる。
真面目な話のようだ。
音を立てないように食器を置いて姿勢を正す。
シュラフは少し考えるように目を伏せてから口を開いた。
「サヨってここにくる前……ううん。昨日僕が見つける前までどんな生活をしていたの?」
ドクリ、と心臓が嫌な音を立てた。
「僕は田舎者だけど、そんな僕の目から見てもサヨはすごく所作が綺麗っていうか……育ちがよく見える。
少なくともこのあたりに住んでる人じゃあ、あんな礼儀作法を身につける機会はない、はず。
でも……じゃあサヨがどうやってここまで来たかが分からない。
うちに続く道はテハイサから伸びてるあの一本道だけ。
そこに倒れてるのは……やっぱりどうしても不自然だから」
「………………」
「サヨが、話しにくいなら言わなくてもいいけど」
「……でも、それだとシュラフがずっと気になってしまうし……うん、そうだね、
家に置いておくには私はあまりにも素性が不明で、怪しいと思ってしまうものね」
そこまではと返そうとするシュラフに首を振る。
彼はどこまでも優しい。
優しすぎて、私は甘え切ってしまっていた。
ちゃんと話す事が助けてくれる彼への最低限の誠実さだろう。
暴れ出てしまいそうな心臓を深呼吸で落ち着ける。
「……長くなってしまう上に上手に話せないかもしれないけれど……それでもいい?」
「サヨがそれでいいなら、僕はいいよ」
「……ありがとう」
静かに目を閉じる。
昨日の目覚めたあの光景と、最後に見たはずの光景を思い浮かべる。
どちらも確かに存在している私の記憶だと確かめてから、私は目を開いて話し始めた。
「私、自分でもなぜあの道に倒れていたかが分からないの。
それは記憶喪失とかそういう話ではなくて、目が覚めたら、本当に突然あそこにいたの。
直前まで私は……ここには無い“日本”という国にいて、ここには無い高いビルの屋上から身を投げた……。
そこで、私は死んだはず……なのに目が覚めて、今こうして……心臓が動いている」
そっと両手で胸元を押さえる。
トクン。トクン。
手のひらに伝わってくる規則的な鼓動。生きている証。
「サヨは、」
シュラフが私の名を呼ぶ。
だけど躊躇うようにその口を閉じた。
何か聞きづらいことを言おうとしたのだろう。
本当に彼は優しい。
だから私は彼よりも先に口を開く。
「ここにくる前の私がどんな暮らしをしていたか聞きたいって話だったね。
……どんなと言われて説明しようと思うと難しいけれど、シュラフの送っている毎日とは全く別物。
働く必要もなくて、食事は決まった時間に出してもらえて、掃除も洗濯もしなくてもいい。
決められた服を着て、決められた物を食べて、決められた毎日を過ごす。
そして20歳に……成人をして決められた相手と結婚したら、生きようが死のうがどちらでも……ううん、死んでしまった方が都合は良いと思われていた。
亡くなった父の遺産を手に入れるための邪魔な付属品が私。
喜ぶことも、怒ることも、悲しむことも、楽しむことも必要ない。
ただ他人の機嫌を損ねないように作り笑いをするだけでいい。
不便なく与えられて生きていた……それが、今までの私……こんな回答でいい、かな?」
「…………」
シュラフが真っ直ぐ私を見つめる。
その瞳を見つめ返せば、一瞬、ほんの刹那の間だけ、黒いはずの彼の目の色が赤く光ったような気がした。
明かりの反射だろうか。
じっと見ようとした瞳は、けれどすっと閉じられる。
「…………そう、そっか。
僕には想像もできない話だけど、それがサヨの当たり前だったんだね。
だとすると、昨日から大変だったんじゃない?
サヨの言う通りなら昨日から慣れない事づくしってこと……でしょ?」
「そう、ね……でも、全く違うからきっと平気でいられるところもあると思う。
ここでの時間は縛られてなくて、あったかくて……色んなことを感じられるの。
笑えたり、怒れたり……私にも出来たのだって気づけた」
シュラフがゆっくり目を開ける。
いつも通りの暗い黒い瞳がもう一度私を見つめる。
「ねぇサヨ。君の選んだ結末に僕があれこれ言う資格はない。
でも、どうしてもこれだけは知りたいんだ。
サヨ……君は、今も苦しい?」
「いいえ」
不安げなシュラフの顔を見て、私は答える。
「色々なことを思い出すと、確かに苦しくて悲しくて泣きそうになる。
でも、それはね、シュラフと一緒にいるのが……ここにいるのが温かいから余計そう感じるの。
私ね……私、ここで生きたい。
都合のいい夢を見る事が許されるのなら、今度こそ私は、ちゃんと私として生きたい。
今はね……そう、思うの」
「…………よかった」
ふっとシュラフが表情を弛緩させる。
そして席から立ち上がると私の方へ近づいてきてそのままぎゅっと抱きついてきた。
緩くて温かい締め付けを感じながら私は彼の胸元に顔を寄せる。
耳に届く小さな心音がすごく心地良い。
「生きよう」
彼の言葉にぎゅっと胸が締め付けられる。
泣き叫んでしまいそうな気持ちを抑えるように、私はシュラフの体に抱き付いた。
目頭が熱い。
深呼吸を繰り返して、私はやっとの思いで一言絞り出した。
「……うん」
今なら分かる。
私はずっと苦しかった。
だから救い上げてくれる誰かを欲して、あの言葉を信じた。
私は悲しかった。
作り笑いは私にとって精一杯の我慢で、心を守る盾だった。
それを落としてしまったから、無防備な私は自分を守るために逃げた。
その選択を後悔していないわけではないけれど、そのまま生きている自信はどこを探しても見つからない。
でも、本当は生きたかった。
生きて、誰かを信じて、小さくてもいいから安らげる時間を感じたかった。
今なら分かる。
この世界は夢かもしれない。
都合のいい夢で何かの拍子に全部消えて無くなってしまうかもしれない。
また、苦しくて悲しい気持ちになるかもしれない。
けれど、今はこの奇跡のような時間を生きたい。
生きて、そして私は私を知りたい。
何が嬉しいのか?何が楽しいのか?私の心を揺さぶる経験をしたい。
ああ、なんだか私……やっと人間になったみたいだ。
柔らかい温かさを感じながら悲しみではない涙が一粒だけ、零れて落ちた。