気持ちについて考えよう
小屋に戻ってきた青年は大変な姿になっていた。
艶のある髪はボサボサに乱れ、纏う衣服はくたびれている。
何より全身犬と猫の毛だらけだ。
この牧場にいる犬や猫は元がスライムという生き物で、犬や猫に見えているのはシュラフが魔法で見せている幻影のようなものだと思っていたけれど。
ちゃんと毛が抜けるんだ、なんてどうでもいい事を考えてしまう。
「もうっ☆酷い物だね☆ここの低知能生物達ときたらぼくが端正に手入れしている立て髪を遊び道具にしてっ☆
この程度でぼくの美貌は翳ったりしないけれど?お陰で帰ったら入念にケアしないといけないね☆」
「そっか、じゃあ今すぐ巣に帰れ」
「さあお嬢さん、僕の手を取って?一緒に夜が明けるまで愛を囁き合おうね☆」
「オマエだけで帰れって言ったの!理解力がない馬だなぁ!」
「もうっ☆邪魔しないで欲しいねカミサマ☆彼女を幸せにしたいんでしょ?だったらぼくがい〜っぱい与えてあげるね☆」
「怒っていいよパフォス」
ヒイイイイン!!!!と大きくいなないてパフォスが立ち上がり、私の前に立ちはだかる。
それを見た青年はさっと顔を青くした。
「ちょちょちょ……ちょっとぉ☆?今このケダモノはどこに頭を乗せていたんだい☆?☆?お嬢さんの膝が汚れるねっ☆☆」
「いやぁ穏やかな光景だったよね……サヨが膝の上に頭を乗せたパフォスを撫でてあげて」
「ひいいいっ☆☆☆寒気がしたね☆☆嘘でもそんな冗談やめてよねカミサマ☆」
「事実だけど?」
「お嬢さんの真っ白な身体がケダモノに嬲られてしまったね☆☆」
「言い方が最悪なんだよ」
いつの間にか隣に来ていたシュラフも私を彼から隠すように前に出る。
相変わらず二人の会話はよく分からない単語が多くて理解できないが、何となく分からない方が良いのではないかと思うようになってきた。
「そもそもっ☆お嬢さんを追放しようとしたんだからカミサマにぼくの妨害をする権利はないと思うんだよね☆」
「追放した、ならともかく、してないんだから彼女を守る権利は持ち合わせてるよ」
「聞いたかいお嬢さん☆してないって言った☆しようとしたってことだよ☆」
「そ……それについては、ちゃんと説明してもらったし……そうじゃなくても此処にいようと思ったのは私の意思なので……」
「ガーン☆☆なんてこと……カミサマのイヤらしい手腕の餌食になっているねぇ☆☆」
「だから言い方が最悪なんだよ」
シクシクと大袈裟な演技で青年は泣き真似を始める。
手を顔で覆っているが時折その指の隙間からチラチラとこちらを見てくる。
まるで同情してほしいと訴えられているようだ。
はぁ〜と大きいため息を吐いて、シュラフがくるりと向きを変えた。
「埒が明かないから強行手段を使うか……ちょっと手伝ってねサヨ」
「手伝い……?」
「えーい」
「え?」 「え゛☆☆☆☆☆」
こちらを向いたシュラフに対して何をすればいいかと思っていたら、彼の体が突然こちらに倒れてきた。
慌てて私は倒れてくるシュラフを受け止める。
全力で倒れてきたわけではないので当たった体に痛みはない。
すると、なぜかそのままシュラフは背中に腕を回して抱きついてきた。
「ねぇサヨ、昨日みたいにギュッてして?」
それは聞いた事がないくらい甘えた声だった。
どうしてもしてほしいというお願いと、ちょっと切なそうな雰囲気もある、幼い男の子を彷彿とさせる声。
考えるよりも先に体が動いて、私は頼りなさそうにも見えてしまうシュラフの体をぎゅっと抱きしめた。
「はう゛っ☆☆☆」
それからパフォスにしてあげたみたいにヨシヨシと頭を撫でてしまう。ほとんど無意識に。
「うう゛っ☆☆☆」
弱々しくシュラフが身を寄せてくる。
彼が自分を保護してくれている存在だと分かっているのに、その仕草が、声音が、私の脳を混乱させる。
いま腕の中にいるのは私よりも年下の男の子だと、錯覚してしまう。
そう思ってしまえば胸がきゅうと締められて頭の中がこの子を甘やかしたいという衝動でいっぱいになる。
口にできない気持ちを込めて頭を撫で続ける。
シュラフの後頭部って丸いなぁと思い始めたあたりで。
「び、びえ゛ええええ゛ええええ゛えんっ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆」
ユニコーンの青年は悲鳴のような泣き声を上げてその場から逃げ去っていった。
突然の行動に呆気に取られていれば、胸元からべっと声がして、視線を向ければ青年が去っていった方に向かって舌を出すシュラフがいた。
「はぁ〜ぁ、最初からあのくらい潔く帰ってくれたら楽なんだけどさ」
「……? じゃあ初めからこうしていたら良かったんじゃないの?」
「いや、流石にそれは……僕にも男型のプライドっていうのがあって……」
むうと渋面になったシュラフがゆっくり離れていく。
撫でていた手の中が寂しい気がして思わず自分の手を見つめる。
でも、そこにあるのは見慣れた頼りげのない手のひらだけだった。
「そこまで名残惜しくされちゃうとこっちも複雑なんだけど……。
その辺はまたの埋め合わせということで」
小さな声で申し訳なさそうにシュラフが言う。
手のひらから彼へと視線を移せば、いつの間にか彼は黒衣ではなく仕事がしやすい普段着に戻っていた。
その後方で小屋にあるニワトリ用の柵の中から沢山の瞳がじっとこちらを見つめているのに気づく。
正確にはシュラフの背中を凝視しているのだろう。
「あんなイレギュラーが来たからね。対処に使った分だけ他のみんなも急いで構ってあげないと。
まあ、アレのおかげでスライム達は楽しそうだったけどね……。
あ、サヨはもう少しパフォスの相手をしてあげてよ」
そう言うとシュラフはいつの間にか握りしめていたホークを構え、ニワトリの柵へ入る。
そのまま作業のために小屋から出ていく。
柵の中のニワトリ達もみんなシュラフの後を追っていく。
ものの数秒で小屋の中は私とパフォス、そして気ままに動き回る犬や猫が数匹に減った。
フルルルッ。
鼻を鳴らしてパフォスが頭をこちらに近づけてくる。
そっと撫でればパフォスの瞳がまた穏やかに細められる。
ただ撫でているだけ、それだけのことなのにパフォスには気持ち良くて幸せなこと。
「……撫でてもらうって、そんなに心地の良いものなのかな?」
パフォスを撫でていない方の手で自分の頭を触ってみる。
誰かを撫でる時のように動かしてみるけど、撫でられているというより毎日の髪のお手入れをしているような気分にしかなれない。
フンッ?と鼻息を出しながらパフォスが首を傾げる。
その頭を撫でながら、思考がゆっくり過去へ、死ぬ前の自分を思い出す。
頭を撫でてもらった記憶は、ない。
伯父の家に引き取られてから頭どころか触れ合うようなスキンシップはひとつも無かった。
友人と呼べるまで親しい人もいなかったから、当たり前だけど手を握ることすらした事がない。
思い出せるだけの記憶を辿って、そんなに私は独りだったのかと思い知る。
パフォスを撫でる手のひら越しに少しひんやりとしたパフォスの体温を感じる。
その冷たさが、自分とは違う生き物の温度が急にとても有難いものだと思う。
「……独りじゃないって、こういう事なんだね」
しっとりとしたパフォスの毛感触を感じながら、私はそれからもしばらくパフォスを撫で続けた。
「そういえば、さっきの……えっと、ユニコーン?はどこに住んでいるの?」
昼食のサンドイッチを手に正面のシュラフに尋ねる。
いまは外に置いた木箱の上にそれぞれ腰掛けながら向かい合っている状態だ。
シュラフは口に入った分をごくんと飲み込むと口を開いた。
「ここから森の方へしばらく歩いた先にある湖の周辺だよ。
アイツ以外にも何頭かいて……そいつらはここに来ることはないかな。大人しいよ」
あの色ボケだけ変わっているんだよと付け足してサンドイッチを口に運ぶ。
この近くに湖があるのかと驚きつつ、私は先日シュラフが見せてくれた地図を頭に思い浮かべる。
確かこのエウイオン牧場は一番右端、最東端に記されていた。
そうすると彼の説明通りなら歩き続ければ地図でいう最南端にぐるっと回ることになる。
地図の一番左に街の名前は確か。
「ウジヨンテには行けないよ」
シュラフの声に思考を中断すれば、いつの間にか彼がじっと私を見ていた。
「あそこはこの世界で生まれた命だけが住める場所だから、
サヨや僕のようにこの世界の外からやってきた者は入れないようになっているんだ。
まあ、それだと物資が足りなくなるからイカウヨキとイカサで許可をもらった行商人は出入りしているらしいけど。
でも特別に作られた場所っていうことには変わりない。
その証拠にあの都市は四方八方壁に囲まれてて、飛んでいる鳥ですら中に入れないようにされているからね」
「え……?鳥なら、上から入れない……の?」
「上までご丁寧に覆っている壁だから。
確か内部からだと壁の外が透き通って見えるんだったかな?
サヨの知識だと……マジックミラーに似ているね。
外から中は見えないのに、中からは外が見える魔法が施されているんだよ」
「でも、壁に全部囲まれているんだよね……?なんだか、それって……」
「うん。悪い言い方をすれば都市に住む人を閉じ込めているね。
でも多分あの都市に住んでいる命にとって世界は都市の内部で完結してる。
サヨに例えれば内部の人にとって都市は「地球」なんだ。
宇宙っていう外側も行くことができるけれど、そこには生きて住み着ける場所はない。
だから一部を除いてみんな地球から出て行こうとは思わない。
サヨは「地球」に自分たち人間は「閉じ込められている」って思ったこともないでしょう?
つまり、ウジヨンテの人にとってはそういうことなんだよ。
たまたま外の世界を知っているサヨから見たらそう感じるというだけであってね。
……なーんて、また難しい話をしちゃった」
淡々とした声色が一変しシュラフがテヘと誤魔化すような仕草をする。
「ごめんね、説明の度に……こうやって言葉で色々聞かれて説明するなんてサヨが初めてだから……。
なんだろう、つい饒舌になっちゃうっていうか、口が達者になっちゃう」
「そうなんだ? ……さっきのユニコーンの人とかと話はしてないの?」
「まさか……アイツと口を聞いたのなんてもう何十年ぶりだし、ああいう生き物は神様から知識は与えられているからわざわざ僕に聞くこともないでしょ」
「……何十年ぶり?あのユニコーンの人、何歳……?」
「さあ……?でも百は超えていたはずだよ。そろそろ落ち着いたらいいのにね」
「…………」
種族が違うとはいえ、何十年も年の差がある相手に自分が迫られていたという事実に少しだけ寒気がした。
またあの人?は来るのだろうか……ちょっと話すのが怖い気もする。
「アハハ!やっぱりサヨみたいな大人しい女性だとああいう軟派で五月蝿いタイプは苦手?」
「苦手……なの……かな?」
「僕からしたらそう見えるけど、サヨの中ではまだそういう区分けのための前例が少ないのかな?
まあゆっくり考えればいいんじゃない?好き嫌いはどうしても自分が決めるしかないしね」
「自分で、決める……」
「うん。どんな形でも理由でもいいんだよ。直感でもいいし、たくさんの条件から決定してもいい。
どういう結論でもそれは君だけのものだから」
私だけのもの。
そう思うと、些細だろう事が少しだけ特別なもののように思えるのが不思議だ。
目を閉じて思い馳せる。
今の自分の環境を、そして過去の私がいた環境を。
あの頃の私は、今にして思うと全ての事柄に対してただ壁を作るしかできなかった。
そうしなければ耐えていけなかったから。
でも、遠く離れたここでなら私はやっと過去の私の気持ちを整理する事ができるのかもしれない。
大きく見れば泣いてしまうほど悲しい事だけど、きっとその一つ一つの大きさや形に名前をつければ分かるかもしれない。
私にとっての嫌な事が。私にとっての嬉しい事が。
そうすれば、いつか私にも理解できるかもしれない。
今は分からない私にとっての“幸せ”が。
「サヨ?どうしたの?疲れちゃった?」
目を開けばシュラフがじっと私の顔を覗き込んできている。
不思議そうな表情に見える彼に小さく首を振ってから答える。
「大丈夫。ちょっと考えていただけだから。
……うん。焦らないでゆっくり考えてみる。いろんな事を」
「そっか。でも疲れたらちゃんと休んでね。
頭を使うって思っている以上に疲れちゃうし、そういう時は一緒に甘いものでも食べようよ」
「ありがとう」
シュラフの優しい言葉に胸の中がぽかぽかと温かくなる。
この気持ちに私が名前をつけていいのなら、嬉しいにしたいなんて事を思った。
「さてと、午後は畑の方で作業しようかな。サヨはどうする?」
「私は……シュラフのお手伝いができそうなら一緒に行きたい、な……」
私に出来ることなんてまだまだ少ないからどうしても自信のない言葉になってしまう。
だけど、そんな言葉なのに彼は笑って頷く。
そして笑顔のまま手を差し出してくれた。
その手に私は、遠慮がちに手を重ねる。
「じゃあ行こうか」
彼の笑顔を、私の目には純粋に嬉しそうな表情に、心からの笑顔を見てまた胸が温かくなる。
ああ、この温かさがずっとずっと続いて欲しい。
一瞬シュラフが目を見開いたような気がしたけど、彼はすぐにまた笑うと私の手を引いて歩き出した。