目を覚まそう
「わたしと一緒になってください」
その言葉を信じたかった。
この人とならきっと、こんな私でも幸せになる未来があるんじゃないかと。
だけど、聞いてしまった。
婚約を祝う宴会。
場の空気が息苦しくて少し席を外したその扉越しに聞こえた声。
「あんな陰気な娘でもいなくなるだけで大きな遺産が入ってくるんでしょう?羨ましいですなぁ」
冗談には聞こえない下卑た声。
誰の声だったろう、記憶を辿ろうと思ったのと同時にあの人の声が聞こえた。
「確かに、それもそうですね」
嘘だと思いたかった。
でも、現実だ。だって知っている。
本当の意味で私という人間を愛してくれる人なんていない事を。
みんな、私の向こうにあるお父さんの遺産しか見ていない。
義父も義母も義兄も親戚も、私に近づいてくる誰も私という個人をその目に映そうとはしてくれなかった。
私の中でぽとりと何かが落ちたような音がした。
それはずっと付けていた我慢の仮面なのか、信じたいと願い続けていた心そのものか、その両方か。
体が突然軽くなって、振り返ることもなく私はこの建物の屋上へ走った。
高い場所から見えた人々の営みの灯り。
それが意識を失う前に私が見た最期の風景だった。
さわさわさわ……。
風の音が鼓膜を震わす。
優しい音にゆっくり意識を揺り動かされる。
最初に抱いたのは疑問だった。
だって私はもう生きていないはずなのに、どうして。
そんなことを思っていると風の音に混じって誰かの声が聞こえてくる。
肩のあたりを揺さぶられる感覚。
開けたくない。
もう何も見たくない。
もう何も聞きたくない。
叫ぶ心の声を聞きながら、だけど私はゆっくりと瞼を上げた。
始めに飛び込んでくるのは眩しい光。
思わず目を細める。少しずつ目が慣れていって映る世界が輪郭を持つ。
私は空を見上げていた。
抜けるような青い空。その端々に木々の葉が風に揺れている。
生まれて初めて見る景色だった。
ひどく静かでとても穏やか、そんな印象を抱いた。
「あ、目が覚めた?」
頭の上の方から不意に声がした。
あどけない幼児のように無邪気でだけど少し落ち着いた声色。
子どもの声。
そう思い至ったのと同じタイミングで視界にひょっこりと彼は顔を覗かせた。
秋の紅葉のように朱い髪に黒い暗い夜色の大きな瞳。
男の子。だけど随分と派手な髪色に私は目を奪われる。
「だいじょーぶ?こんな所で寝てたら風邪引くよ?」
「…………っ?」
何か私は喋ろうとした。
けれど喉から声が出ない。
それどころか小さく痙攣をし始めて思わず両手で喉元を押さえる。
手のひらの下でヒクヒクと強張り言うことを聞いてくれない。
「どうしたの?喉が変なの?」
「…………っ、ぁ……」
「息は……出来てるみたいだから、声が出ない感じかな?」
不思議そうにこちらを見ていた少年が少し目を細めた。
そして喉を押さえる手の上に何か温かいものが重なる。
それが少年の手の体温だと、理解するまで時間がかかった。
軽く力が込められて、手を握られているのだと数秒遅れて気づく。
「だいじょうぶ。焦らないで、落ち着いて」
さっき初めて聞いた声だというのに不思議と安心する。
気持ちが落ち着けば呼吸も落ち着く。
それに続くように喉の震えも収まってくる。
ほっと息を吐けばこちらを覗き込んでいる少年がにこりと笑った。
「よかった。落ち着いたみたいだね。
喋るのは後でいいからとりあえず体を起こした方がいいと思うよ」
そう言って重ねていた手を離すと私の前に差し出してくる。
恐る恐るその手を握る。
強すぎない力で引かれるままに上半身を起こす。
自然と視界に入ってきたのは少年の背中越しに広がる木々。
そこで初めてキョロキョロとあたりを見回せば、どうやら林の間に出来た道の真ん中に自分は寝ていたようだった。
改めて、初めて見る景色だ。
私が住んでいたのは緑もまばらな都会のビルの中だった。
旅行に行くような機会もなかった私には舗装されていない道を見るのは初めてだ。
しばらく珍しい景色を観察していれば、少年が気を利かせて髪や背中についた土をさっさと払ってくれる。
「ぁ……ご……ぇ……」
「ん?無理に喋らなくっていいってば。僕が勝手にやることはあんまり気にしないで」
少年は恩を着せる様子もなくニコニコと笑っている。
呑気に景色を眺めていた数秒前の自分を怒りたいと共に恥ずかしさが込み上げてくる。
明らかに年下であろう少年に先ほどから助けられてばかりで情けない。
せめて、お礼ぐらい言わなければ。
深呼吸をしながらあ、あ、と声を出す。
どうやら全く声が出ないわけではないようだ。
ただいつものように話そうとすると喉が苦しそうに震え出す。
ゆっくり声を出せば、おそらく話せるはずだ。
「あ……あ、り、が……と、う……ご……ざ、い、ま、す」
「あはっ、おねえさんったら無茶をしてまでお礼を伝えてくれるなんて良い人だね。
どういたしまして。家に帰る途中ぐーぜん見つけたってだけなんだけど助けた甲斐があったや。
ふふっ、でも、やっぱり笑っちゃうや。あははは!」
けらけらと笑い出す少年を私は見つめる。
相当可笑しかったのかお腹を抱えて笑う姿は、今まで私が生きてきた世界から見れば下品なものだろう。
だけど今の私にはなんだかそんな姿が眩しく見えた。
どこまでも自然体な表情、仕草、なぜだか尊いとまで思えてしまって目が離せない。
そんな不躾な視線に気づいたのか、なんとか笑いを止めた少年は何かと言いたげな瞳で私を見つめ返す。
もしかして、気を悪くさせてしまったかもしれない。
慌てて私は少年に対して土下座の姿勢になった。
「ご、めん、な、さ、い!」
「え?え?何急に?というかそんな風にしたら余計体が汚れちゃうよおねえさん?」
「………………」
「えっと?もしかしてどこかよその謝り方とかなのかな?え〜っとえ〜っと……とりあえず顔を上げてよ〜」
少年の困った声に恐る恐る顔を上げる。
さっきまであんなに明るい表情だった顔は眉根を下げ不安げなものに変わっている。
また申し訳なくなって顔を下げようとすれば「ストップ!」という声と共にぐっと顔を掴まれた。
「もー!ただでさえおねえさんが何者かわからないのに、これ以上訳わかんなくさせないでよ!」
むに、むに、少年の手が両頬を包み込みながら遊んでくる。
むにむにむにむにむにむに。
しつこいくらい揉み込まれて段々くすぐったくなってくる。
思わずフッと息が漏れれば少年がまたにこりと笑った。
「おねえさん、やっと笑ってくれたね」
「…………?」
「何でそこで分かりませんみたいな顔になるの?」
「わ……た、し、わらって、た……?」
「うん!まあ僕が無理矢理笑わせたようなものだったけどね!」
少年の手が離れていくのを見つめてからそっと自分の手で口元に触れる。
鏡で何度も見た引き結ばれた形の唇をなぞる。
人前でよくしていた作り笑いをしようと試みたが、どうしてかあんなにしていたのにやり方を忘れたように上手く動かせない。
そんな口が自然と笑みを溢していたなんて、なんだか信じられない。
じっと少年を見ればこてりと首を傾げられる。
「なに?もう一回笑わせて欲しい?」
ぶんぶんと首を振ってお断りする。
なーんだと言って少年はちょっと不満そうな顔をしたがすぐに表情を切り替えて尋ねてきた。
「さて、やっと本題に入るけど……おねえさん何でこんなところで寝ていたの?」
ハッとして私は自分の胸を押さえる。
手のひらにトクン、トクンと、心臓が脈打つ振動が伝わってきた。
ぎゅっと唇を噛んで目を閉じ、自分の記憶を思い出す。
眼前に広がる夜景。
その景色を脳裏に焼き付けてから、目を閉じて一歩踏み出した。
全身に押し寄せてくる空気の壁に飛び込むような感覚。
覚えているのはそこまでだ。
けれど、それだけでも十分な確信を持てる。
私は、死んだ。
目を開いて再び辺りを見回す。
暖かい日差しが差し込む林道。
そして見知らぬ派手な髪色の少年。
体の内側では心臓が私は生きているという事実を伝えてくる。
不幸にも一命を取り留めたにしては今の状況はあまりにもおかしい。
「おねえさん、顔色が悪いけど……僕、嫌なこと聞いちゃった?」
「いい、え……そ、の……わ、た、しも、よく、わ、か、ら、な、くて……」
「ここで寝てたのが?」
こくりと首を縦に振って肯定する。
少年はうーんと唇に指を当て考えるような仕草をする。
そして林道の道の先を指差して口を開いた。
「おねえさん、テハイサ村の人?」
聞いたことのない単語に首を横に振って応える。
「じゃあ、ヨコト町?それとも王都に住んでる人?」
重ねられる問いに再度首を横に振る。
少年がこちらをからかっていなければ聞いたことのない単語……そもそも日本語のようには聞こえない。
王都というのも日本では聞く機会のない呼び名だ。
胸の内にじわじわと不安のようなものが広がってくる。
そんな様子を知ってか知らずか少年はふんふんと数回頷くとすっと目を細めた。
「つまり〜……おねえさんは迷子だね?」
何と答えれば良いのだろうか。
目が覚めたら知らない場所に寝ていた状況を果たして迷子と言っていいんだろうか。
でも、自分がどこにいるのか分からないという意味では迷子とも言えるような気も、するのだろうか。
そんな私の逡巡をどう受け取ったのか少年は一人で納得したように頷いている。
「そっか〜変だと思ったんだよね、こんな誰も使わない道に人が倒れてるだなんて。
迷って歩いてたら行き倒れちゃったって感じなのかな?
いやはや……でも見つけたのが無害な僕で良かったね!」
「えっと……ち、が………」
くぅう〜…………。
突然鳴り響いた場違いな音に少年と数秒見つめ合う。
ぱちぱちと少年が数回瞬きをし、視線をゆっくり下げていく。
釣られるようにその視線の先を、私のお腹の辺りを見つめた。
くぅう〜…………。
もう一度聞こえる間の抜けた音に私は一気に顔が熱くなった。
慌ててお腹を抑えれば正面からどっと大きな笑い声が響く。
「あははははは!ははははは!あはっあはは、はぁ〜はぁ……そうだね!
行き倒れてたんだから当然、目が覚めたらお腹は空いてるよね!」
「ち、にゃ、に、あっ……こ、れ、は……ひが、くて!」
「あははっ!おねえさん喋り方も変になってる〜。
お腹ぺこぺこだから余計に元気がなかったんだね。うんうん」
恥ずかしさと焦りでただでさえ出ない言葉が呂律まで回らずおかしくなる。
それにもひと笑いして少年は生理的に出た涙を拭う。
そうして今までで一番優しい笑顔を浮かべるとすっと手を差し出してきた。
「僕の家ここからすぐなんだ。
だからおねえさんが良ければ一緒にご飯にしよう?
ちょっと……もしかしたら驚いちゃうかもしれないけど怪我はさせないからさ」
どこか引っかかる言い方に一瞬、手を取るかどうか迷う。
でも、自分でもあっさりと私は少年の手に自分の手を重ねていた。
温い体温が伝わってくることに言葉にし難い安心を覚える。
「決まりだね」
立ち上がると少年はさっき指差した方向とは逆に向かって歩き出す。
ついていこうと一歩踏み出したところで少年はあ、と声を上げ立ち止まった。
「そういえば自己紹介もしてなかったね。
僕はシュラフ。今は人としては一人で暮らしてる。
おねえさんの名前は?」
「わ、たし…………」
少年が、シュラフがじっと期待を込めた眼差しを向けてくる。
対して私は自分から名乗ることに戸惑いを感じていた。
近づいてくる誰もが私の名前を知っているのが当たり前だった。
だからもしかすると、これは私にとって初めての自己紹介なのかもしれない。
朱い髪という目立った部分はあるもののどこにでもいそうな少年だ。
無邪気で、よく笑って、優しい。
そんな人に初めてが言えるのは、もしかして幸運なことではないかとふと思う。
作り笑いはやっぱり出来なかったけど今日一番しっかりとした声で私は名乗る。
「……小夜。そ、れが、わた、しの……名前」
「サヨ……サヨ…………あんまり聞いたことのない響きだけど、綺麗な名前だね!」
ぎゅっと繋いだ手に力を込められる。
「それじゃあ行こうサヨおねえさん!」
彼が歩き出す。
私も歩き出す。
手を繋いで一緒に木漏れ日が揺れる道を歩いていく。
まるでお伽噺の中にいるような、夢でも見られなかった穏やかな道を進んでいく。
彼が心配するだろうから我慢したけど、無性に泣きたい気持ちになった。
私には優しすぎる。
聞こえる音も、感じる風も、繋いだ手の温もりも、全部。
自分が“嬉しい”と感じていることに、この時の私はまだ気付くことは出来なかった。