悪役令嬢、悪霊さえも虐げてしまう。
「う、う、う、う、う、うえぇぇ!?」
奏は言葉なのか嗚咽なのかよくわからない声を出した。
夏目ちゃんは天井に広がる黒いシミをじっと見つめた。
ナディア様は……うん、見上げるなんてしませんよね。悪霊め、ナディア様より高い位置にいるんじゃない、全く。
「屋上に、何がある?」
夏目ちゃんは奏に視線をやった。
「使われなくなった連結机と……貯水槽」
奏の喉がごくりと鳴った。胸の前でぎゅっと結ばれた手は微かに震えている。
「貯水槽……」
「かくれんぼさん、死んだ女子高生は、貯水槽で、溺死だって……昔の新聞に書いてた」
言葉を吐き出すたびに、色白の奏の顔がみるみる青くなっていく。
「ひっ!」
「どうした奏っ」
放送室に出来た黒い水溜りが、そこだけが無重力かのように天井に向かって引きよせられていく。あり得ない光景に足が竦む。
夏目ちゃんは俺を振り返り、無表情で言った。
「呼んでる」
「詠唱魔法、浮遊、透過」
ナディア様がそう唱えると、足元に風が起こり俺たち四人の身体が浮いた。
「う、浮いてる! やだ、やだ! 下ろしてくださぁーい!」
「お黙りなさい。強制的に口を塞いでもよくってよ?」
「!!!!」
俺たちの身体はそのまま天井を透過し、あっという間に屋上へ出た。
どすっ。
俺、奏、夏目ちゃんは屋上の床へと落とされた。
ナディア様だけが貯水槽よりも上の位置で浮いている。そして汚物を見るような目でその大きなタンクを見下ろした。
「人を呼んでおいて挨拶もしないとは、どのような教育を受けているのかしら」
刺々しく放たれた言葉に反応するように、周囲から黒い霧が集まり始める。
そしてかろうじて人の形らしきものが形成される。しかしそれはひどく不安定で、千切れたり、またくっついたり、見ているこっちが苦しくなるような光景だった。
「ゆるさない」
黒い靄はふらふらと屋上を徘徊する。焦点が定まっていないのか、何も見えていないのか、ただあたりをぐるぐる回っていた。
「何が許せないのかしら?」
「私と、私の子どもを捨てた、あの男」
「あら、お前も男に捨てられたの。奇遇ね、私もつい先ほど捨てられたところよ」
「え……」
黒い靄はぴたりと止まると、徐々に輪郭を取り戻す。
やがて長い黒髪がぐっしょりと濡れた女が現れた。どこか懐かしい、昭和を感じさせる学生服を身にまとっていた。
「お前はその許せない男のために命を絶ったの?」
「だって、生きてなんて、いけない」
「どうして? 死刑でも言い渡されたのかしら?」
「ち、違う、けど」
「では国外追放? 確かにあれはなかなか大変なものがあるわね」
「そ、そんなことは、ない」
「あら、ではどうして? まさか悲嘆にくれたという理由ごときで命を絶ったのかしら?」
「あなたに、何がわかるの!」
パチン!
ナディア様が金の房のついた扇を鳴らした。
「えぇ、ちっともわからないわね。ずぶ濡れになって呪い続ける根性があるのなら、泥臭くても無様に生きればよかったものを。愚かにも程があるわ」
「っ!」
「だいたいお前をこんな悪霊にした男にまだ未練が?」
「ない! あるわけない!」
「ならもういいではないの」
つんとした顔でナディア様が言った。悪霊は明らかに動揺を見せる。
「あ、あの。少し、いいですか」
奏がおずおずと手を挙げた。
「百合さん、ですよね? 図書館で昔の新聞で見ました」
悪霊の目に弱い光が灯る。
「百合さん、赤ちゃんに会ったことありますか?」
「あるわけない……私が死んで、一緒にお腹の子どもだって……」
「ずっと、探してましたよ。ママのこと」
奏はポケットから小さな赤いビー玉を取り出すと、びくびくしながら「百合さん」の目の前に差し出した。
「赤ちゃんは諸事情があって先に空に帰ったんですけど……」
ナディア様が燃やしたよな。全部灰になったはず。
「これだけ手の中に残りました。温かくて、心臓みたいじゃないですか?」
びしょ濡れの手が赤いビー玉を手に取り、その小さな赤をぎゅっと抱きしめた。
「追うのなら特別に手伝ってあげるわ」
「っ! そんなの、出来るの?」
「私の魔力を以ってすれば造作もない」
「お願いっ! 私をあの子のところへ」
「構わないけれど、その前にすることがあるんじゃなくって?」
「え?」
「平伏して、救いを乞いなさい」
「え……?」
悪霊でさえポカーンである。