第5話 スパイは元部下と出会う
「んっふんふ~ん♪」
エリスの家――白い屋根の広々とした一軒家。
ぼんやりと外を眺めていた俺に、鼻唄交じりのエリスが珈琲を差し出した。
「はい、どうぞ♪」
「ありがとう。……やけに上機嫌だな」
「それはもちろん、アンバーがうちにいるからだよ」
エリスは本当に嬉しそうだった。
一緒に暮らし始めてから数週間。
俺の次の仕事は、まだ見つかっていない。
だがエリスはといえば、むしろの今の時間が永遠に続けばいいと思っているような態度だ。
「ねぇねぇアンバー、今日は何が食べたい? あ、この前新しく覚えた料理があったんだけど――」
上機嫌のエリスが前のめりで聞いてきたとき、ふと玄関の扉がノックされた。
どうやら来客らしい。
「はーい♪」
エリスが玄関の扉を開ける。
そして、その姿勢のまま固まった。
まるで、俺が帰ってきた日のときのように。
嫌な予感がした俺は、エリスの後ろから近づき、扉の前に立つひとりの少女を視界に収めた。
スパイの手引き・その9
スパイの勘はよく当たる。
「お前、どうして……」
そこにいたのは、14、15歳頃の小柄な少女。
古めかしいワンピース型の軍服姿。
スカートとはいえ、厳つさは否めない。
腰のホルスターには軍用の制式拳銃。
そして、片目を覆う眼帯。
愛らしい顔立ちと、それに不釣り合いな物々しいいで立ち。
「アンバー様。お迎えに来ました」
コードネーム『夜桜』。
かつての俺の部下のひとりであり――特務諜報機関 《幽》のスパイだ。
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「ど、どうぞ……」
ダイニングで俺の前に座った少女に、エリスが恐々と珈琲を差し出す。
「ありがとうございます」
夜桜はロボットのように答えた。
「……それで、何をしにきたんだ」
俺は頭を抱えながら、夜桜に質問した。
「先ほど申し上げました通りです。夜桜は『特課』の代表として、そのリーダーたるアンバー様の帰還を依頼するために来ました。用件は以上です」
「あ、アンバー、こちらの子は一体……」
「申し遅れました。私は共和国特務諜報機関《幽》特別調査課――通称『特課』のシリアルNo.4――【夜桜】です」
「…………………………。
えっとごめんなさい、もう一度いいかな?」
「はい、私は共和国特務諜報機関――」
「もういい」
俺は夜桜の言葉を遮った。
まるでエリスの妹のような年頃の少女を、じっと見つめる。
かつて自分が鍛え上げ、一流にした少女を。
「帰れ。俺はもうスパイじゃない」
「いいえ。帰りません」
「なぜだ。俺はもう組織に必要ないだろう」
「いいえ、それはあり得ません。なぜなら『特課』そのものがすなわち、アンバー様であり、アンバー様がいなくては成立しません」
「……」
複雑な心境だった。
夜桜を含めて、特課には俺に付き従ってくれた有能なスパイが何人もいる。
彼女たちを置いてきてしまったのは事実だからだ。
しかし、それでも俺は考えを変える気はなかった。
「もう時代が変わったんだ」
「例えどれほど時代が代わろうとも、アンバー様の代わりはおりません。
――共和国最強の戦力と呼ばれた、伝説のスパイの代わりなど」
夜桜は表情ひとつ変えず淡々と語る。
エリスが不安そうに、事の成り行きを見守っていた。
俺はエリスを安心させるため、言った。
「悪いが、今はここが俺の帰るべき場所だ」
「アンバー……」
エリスがほっと胸に手を当てる。
それをじっと見つめていた夜桜は、
「わかりました」
「そうか。よかった」
「では、私もここに住まわせてもらいます」
「なに?」
「アンバー様の説得には時間を要すると判断しました。
作戦を変更し、長期戦に持ち込みます」
「えぇっ!? そそ、それは――」
エリスが慌てふためく。
そんなエリスに夜桜は、
「安心してください。この家は政府が買い取ります。
貴女様には多額の報酬が支払われることでしょう」
まったくあさっての方向からフォローを入れた。
俺は大きくため息をし、再び頭を抱えた。
スパイの手引き・その10。
有能なスパイには、変人が多い。