夏の匂い、その先へ
「よう、久しぶりだな」
俺は出来るだけ自然に話しかける。
何せ数年ぶりの再会だ。緊張もする。
「元気にしてたか? この時期はやっぱり暑いよな」
久しぶりに会った彼女は返事をくれなかった。
会ったら何を話そうかと悩んでいた俺の努力は無駄骨だったようだ。
まあ、確かに。10年も会っていなかったのだから、いきなり軽いノリじゃ反応もし辛いよな。
ただ彼女からは怒った様子もなく、黙って俺の話を聞いているようだった。
今でも彼女は俺を信頼してくれているように思えて、それだけで顔が綻ぶのが分かった。
「そういえばお土産買ってきたぞ」
そう言ってカバンからキーホルダーを取り出す。
仕事を選ばないことで有名な白い猫のデザインだ。
「これ東京限定なんだぜ。お前好きだったろ? スカイツリーを見に行った時に買ったんだ。
まあ、こういうのって自分が訪れた地域のだからこそ意味があるのかもしれないけどさ。
--そのうちさ、色々と落ち着いたら東京こいよ。満足するまで俺が案内するからさ」
キーホルダーを彼女に手渡す。
「おばさんに見つかったら『また余計なもの買ってきて……』って怒られそうだよな。これは俺とお前の秘密ってことで」
蝉の声が響き渡る。
数年ぶりに帰省した田舎も悪くはない。
雲ひとつない青空に、白く光る太陽。時々吹き込む風が夏の匂いを運んでくる。
「それにしても暑いな」
ポケットからハンカチを取り出して汗を拭う。
彼女から貰ったこの紺色のハンカチは数年経った今でも皺一つない。
モノにこだわりのない俺だが、このハンカチだけはお守り代わりとして大事にしてきた。
「お前もこの暑さじゃ辛いだろう」
手にしていたハンカチで彼女を拭いてやる。
こうして触れていると昔を思い出す。
楽しかった日々も、苦しかった時期も。
時間の流れは残酷で、形あるものはもちろん、目に見えぬ関係とか感情をも変えていく。
決意とか約束ってのもいつかは風化して忘れ去られていく。
汗ばむ陽気とは裏腹に、雪のように白い彼女は少しだけ冷んやりしていた。
「なあ」
触れていた手を離し、俺は面と向かって彼女に話かける。
黙りこける彼女は言葉を返さない。それでも俺は続ける。
「覚えてるか? お前と俺が初めて会った日のこと。高校で隣の席になってさ、初日からシャーペンを忘れた俺にお前は笑いながら貸してくれたよな。
2年の文化祭でお前に告白した時に『入学式の日に一目惚れした』って言ったんだけど、実はあれ嘘なんだ。……今更でごめん。
恥ずかしくて言えなかったんだけど、実はさ、俺とお前が同じ中学だってことは覚えてるか?
クラスが被ったこともなければ、お互い話したこともないって何度か話題に出たけど、実は一度だけ話したことがあるんだ。
俺たちが中学三年の時、運動会の練習で全クラスがグラウンドに集まった日があったろ。開会式から閉会式までを通してやるとか言ってな。
その時にクラス対抗リレーの練習もさせられてさ、練習なんだから手抜いて走ればいいのに、みんな本気出しちゃってさ。アンカーだった俺は盛大に転けて最下位だったよ。練習だったからみんな笑ってたけど、あれが本番だったら絶対トラウマになってたよな……。
そんな転げた俺に「大丈夫? 保健室行く?」って手を差し伸べてくれた女の子がいたんだ。話したこともない他クラスの男子にさ。
--たぶん、一目惚れだった。
あの日からお前を目で追うようになってた。
と言っても、クラスは別だからすれ違う回数なんてたかが知れてる。
それでも、通学路とか廊下で見かけると胸の鼓動が早くなって、好きだって叫びたくなる衝動をなんとか我慢していたんだ。
まあ、その気持ちも卒業したら全部忘れようって思ってた。
まさか一緒の高校の同じクラスで、しかも席が隣になるとは思ってもみなかったけどな」
真上にあった太陽も少し傾き、それでも俺たちを照らし続けている。
鞄に入れていたペットボトルを一気に飲み干し、ぐしゃりと潰した。
こんな思い出話をするつもりはなかった。
だけど、いざ彼女を前にすると、忘れようとしてきた思い出たちが鮮明に蘇っては、言葉となって喉の奥から湧き出ていく。
一度ポケットにしまったハンカチを取り出し、再び汗を拭う。
--なあ、お前は今何を考えているんだ?
依然として返事をしない彼女を、俺はまだ受け入れられていなかった。
時の流れは絶えず進み、俺たちの歩幅なんて関係なしに過ぎていく。
今この瞬間のことも、数年経てばきっと曖昧な思い出になって、それらも徐々に忘れていくだろう。
年齢を重ねるにつれ、後悔という名の負債が増えていく。人生はきっと誰しもそういう風に出来ていると思っていた。
だけど俺の心は10年前から止まったままなんだ。
動かなくなった時計は直せばいい。
それでも動かないのなら新しいものに買い換えればいい。
じゃあ俺の心はどうすればいい?
きっとそれは--
「あのさ」
今言わなければ絶対後悔する。
いや、後悔だけならまだいい。
きっとそれすらも感じなくなってしまう。
そんなのは嫌だ。
これは俺の心だ。
止まった針はまた巻いてやればいい。
心だって、また俺が動かせばいい。
これは、そのための一歩だから。
「俺さ、あの日から……お前が死んでしまった日からどうすればいいのか分からなかった。
お前の笑い声も、白い肌も、その温もりさえも、全てを失った現実を受け入れることができなかった。
墓参りも今更になって、きっと怒ってるよな。本当にごめん。
ただ、怖かったんだ。
時間が経って、お前を忘れることがさ。
だけどさ、ここに来て、お前のいない世界を突きつけられて、はいそうですかって納得することなんて、俺にはやっぱりできない。
好きだ。
今でもお前が大好きだ。
出来ることなら今すぐにでも会いたい。
だけどそれは都合のいい我儘だよな。
それでも少しは期待しちゃうんだ。また会えるんじゃないかって。
なあ、結衣。
俺もお前のところに行っても--」
『--アホなこと言わないで。あんたがこっちに来るのなんて50年は早いんだから』
突然聞こえてきた声に驚き顔をあげる。
オレンジ色に輝く夕陽が差し込み、綺麗に並べられた墓石には影が落ちる。
握っていたハンカチで目元を拭い周りを見渡したが、そこには俺以外誰もいなかった。
それでも、確かに聞こえたその声を俺は知っている。
どこか懐かしさすら感じられたその声を、しっかりと覚えている。
「結衣……」
俺の呼びかけに返事はなく、蝉の声が聞こえなくなった山村に自分の声だけが残っていた--
街灯のない田舎なんて今時珍しいのかもしれない。
別れの挨拶を済ませた俺は、すっかり暗くなった農道をまっすぐ歩く。
空に瞬く星々は、俺の知ってる10年前と変わることなく光り輝いていた。
星座や星の名前に疎い俺には、どれが夏の大三角形なのか分からない。
「そういや、あいつは詳しかったな」
そうだ、来年は彼女に星の話でもしてやろう。絶対に驚くぞ。
東京に帰ったら星の勉強でもするか。望遠鏡を買うのもいいかもしれない。
線香の匂いを運ぶ夜風が鼻腔をくすぐる。
ポケットにしまっていたハンカチを取り出し、左手で強く握った。
そして、俺は止まることなく一歩ずつ前に進んだ--