第二章:壊れたブレーキ⑧
ドアが開いた。僕より少し身長が高い、恐らく四十代くらいの男性があたりをキョロキョロとしている。スーツを着ていた。この人が田中さんだろう。田中さんは僕を見て「おっ」と言い、僕の前に座る。
「千夜くん、だよね?」
田中さんはとてもにこやかだ。
「はい」
「いやあ! 面影あるなあ!」
田中さんが笑いながらメニューを広げた。
「え、お会いしたことありましたっけ」
「君が高校生くらいの頃かなあ。まあ、君は覚えてないというか認識すらしてなかったかもね。君は大人を避けていたようだったから」
田中さんが片手を挙げて店員を呼び、二人分のビールと豚玉を頼んだ。田中さんは注文した後で「ビールと豚玉でよかった?」と確認してくる。僕は「この店ではベストチョイスです」と返した。田中さんが「よかった」と笑っている。
すぐにビールが運ばれてきて、厨房では調理が始まったのか包丁の音が聞こえてきた。
「あー! うまい!」
田中さんが大げさに言った。
「さてと、大人どころか他人を避けてきた君が今日はどういうわけかな?」
大げさに「うまい」と叫んだかと思うと、今度は目を細めて淡々と小さな声で聴いてきた。僕はその眼光に射すくめられ、動けなくなった。表情筋がこわばるのを感じる。口の端がピクピクとしている。
「君が雨夜を名乗ってまで訊きたいことは何かな」
「え、ええと。父のことです」
田中さんはビールを飲み干し、おかわりを頼む。そして、苦笑した。
「父だなんて心にもないことは言わなくていい」
「じゃあ……雨夜さんのことでお聞きしたいことがあります」
「事前にいくつか考えているんだろう? それを順にぶつけてくれ」
おかわりのビールが届くと、田中さんはすぐそれに口を付けた。手のひらを僕の方に向ける。これは遠慮せずに飲めということだろう。遠慮するなというのなら、その威圧的ともとれる態度は止めてほしい。僕はビールを一口飲む。喉から胃液が逆流しようとしているのを感じた。
僕はさっきメモした内容を再確認する。
「まず、雨夜さんの仕事ぶりを田中さんの主観で構いませんのでお聞かせ願えませんか?」
僕はジョッキをくるくると傾けながら、目の前の鉄板を見続ける。田中さんは「仕事ぶりかあ」と呟いてビールを眺めた。厨房からお好み焼きを焼いている音が聞こえてくる。ふと先ほどの女性二人を見ると、またカーディガンの女性と目があった。どこかで見覚えがある気がするけど、思い出せない。
「とにかく仕事ができる人かなあ。仕事にはすごく厳しい。特に会社を興してからは人に喜ばれるイベントを、と躍起になってるよ。音響も演出も凄く凝っててね。クライアントにかなりのリテイクを出して現場はてんやわんや。やめてくれー! とよく叫んでる。だけど、ゲネプロや当日になるとやっぱりリテイク後のほうが圧倒的によくてねえ」
典型的な職業人……職人という感じか。特に会社を興してからというところが気になる。前の職場ではそこまで職人気質ではなかったのだろうか。それは単に自分が本当はこだわりたい人間だったが、サラリーマンだからこだわれなかっただけかもしれない。ただ、会社を興したのは僕が高校二年のときの二月だ。陽鈴が死んでからそんなに経っていないというところが、少し気になる。
考え込んでいると店員のお姉さんが鉄板に火を点けに来た。
「会社を興す前はどんな仕事ぶりでしたか?」
「あまり情熱とこだわりを持ったタイプではなかったな。冷たく淡々と与えられた仕事をこなす。だから出世した」
回答を最初から用意していたかのように、田中さんは即答した。答えるとまたすぐビールに口をつけている。顔色は全く変わらない。居心地が悪い。尻にじんわりと汗がにじんでいるのを感じる。鉄板から熱気が伝わってきた。
情熱とこだわりを全く持たなかった雨夜父が、どういうわけか情熱とこだわりを強く持ち、会社を興す。この筋書きには「陽鈴の死」という過程が間に挟まっているのだろう。だとすれば、雨夜父が陽鈴のことを自分の娘ではないとは考えていないはずだ。あの人の態度は一貫しておかしい。会社を興した理由……正しくは雨夜父が仕事に情熱とこだわりを持つようになった理由は、陽鈴の死にあるように感じる。
「次の質問です。雨夜父が会社を起ち上げた理由わかりますか?」
僕は質問をひとつ飛ばした。
鉄板に二人分の豚玉が運ばれてきた。普通のマヨネーズと辛いマヨネーズも一緒にテーブルに置かれる。田中さんがまたビールをおかわりした。「うまそー! いただきます!」とまた大げさに言い、豚玉をピザ型に切り分ける。僕は四角く切り分けて辛いマヨネーズをかけた。
二人して無言で一切れ食べる。ふわふわとした生地にカリカリとした豚肉、そして火が通ってもなおシャキシャキしているキャベツ。この三つの異なる食感が見事に融合していて楽しくもおいしい。やさしいダシの風味が強調されているが、そこにニラのほのかな辛みと甘みが追加されている。
「これまじでうまいね」
「梅田で五本の指に入ります」
田中さんのビールが届く。田中さんはもうひと切れ食べてすぐビールで追いかけた。また大げさに「うまい」と唸っている。見た目の年齢とはかけ離れて言動や行動はかなり若い。かと思えば急に相応の威圧感を出してくる。この人はいったいどういう人なんだ。
「社長が会社を起ち上げた理由を話す前に、君は社名の『D×D』が何の略かわかるかい?」
田中さんがジョッキも箸もすべてを置いてまっすぐ僕を見ている。英単語の略なのだろうが、Dの付く英単語なんてたくさんある。イベント会社に付けられそうなものと考えるとある程度限られそうだが、どんな英単語がそれに該当するのかは僕の主観でしかない。
ただ、少し考えてみよう。まずは「Dream」夢だ。ベタ中のベタだな。次に……と考えてみたものの、Dから始まる英単語でイベント会社っぽいものは「Dream」しか浮かばなかった。
「ドリーム・ドリーム……?」
あまりに稚拙な響きに少し耳が熱くなる。田中さんが笑っている。鉄板から聞こえるジューッという音が強く耳に響いた。
「ドーターズ・ドリームだよ」
僕はハッとして田中さんを睨んだ。鉄板の音が遠のいていく。店員さんが働いている様子が視界の端に映った。女性二人組の会話が遠くに聞こえる。ドーターズ・ドリーム。「Daughter×Dream」の×を「ズ」と読ませているのだろう。
Dauhter's Dream……娘の夢。
「どうしてそんな」
感情任せに「どうして」と言ってしまったものの、これでわかった。雨夜父は娘の夢のために会社を設立したのだろう。この場合の娘というのは朝陽のことかもしれないが、朝陽が親戚の家にいたころだから陽鈴のほうが正しいのかもしれない。陽鈴の夢のため。陽鈴の夢のため……?
頭では理解できるけど、心は理解を拒んでいる。
困惑している僕を、また田中さんが鋭い眼光で射すくめようとしてきた。右手のひらに汗がにじんでいく。僕はその眼光から逃れたくなり、お好み焼きを一切れ食べてビールで追いかけた。僕もまたビールをおかわりする。
「どうして、か」
田中さんがポツリとつぶやいた。
「どうしてかは俺も知らない。ただ、社長から何度か陽鈴ちゃんや朝陽ちゃん、それに千夜くんの話を聞かされてたよ。そのときの社長の目は、少し自分を責めているように俺は感じた」
自分を責めていると聞いて、陽鈴のために会社を設立したと聞いて、僕は妙に喉の奥が熱くなった。喉も熱いし胃も熱い。脳のどんどん熱に支配されていくような感覚がした。鉄板の熱さが気にならなくなるほどに。
僕はここに来る前、田中さんに雨夜父の話を訊いて自分がどう思うのかを冷静にシミュレーションしていた。結果は「まあそんなものだろう」とか「まさかそんな人だったとは」とかありきたりなものだった。
だけど、僕は今こう思っている。
ふざけるなよ、と。
「君は怒るだろうなと思ってた」
田中さんが言った。その声はとてつもなく冷たく、ため息交じりだった。ふと気づくと、ビールが既にテーブルに運ばれている。僕はグッと大きくジョッキを傾けると、田中さんを睨んだ。
「君は……たとえば自分をイジメた人間が自分より落ちぶれたとしたら、腹を立てるタイプだと俺は思っている」
「随分限定的かつ的確なプロファイリングですね……その通りなんですが」
「まあ、それと同じだね。自分の娘を蔑ろにしてきた人が、娘の死後にそれを後悔し、娘のためにと考えているのが腹立たしい」
図星をさされてからは何も言えなくなり、聞けなくなり、無言でお好み焼きを食べた。田中さんはそれ以上は何も言わず、ただ笑ってお好み焼きを食べる。支払いは田中さんが持ってくれた。お礼を言って田中さんと別れた後、スマホで時間を見ると午後12時45分。ゆっくりと喫茶ワイズに向かえばちょうどくらいだ。朝陽さんから一件メッセージが着ていた。
”堂山町のタバコ屋さんで待っとく”
堂山町の通りに入る。まだ準備中の店が多く、この時間はトラックの往来も多い。案内所の人はまだあまり出てきていないが、もうすぐ開店のセクキャバがこの通りには数店舗ある。少しずつざわつき始める土曜昼の堂山町。回転寿司栄と煙草屋が見えた。栄の前には黒いスーツを着た男が数名グループでたむろしている。通りのど真ん中をふさいでいるこの集団は、大体いつもいるキャッチだ。
朝陽さんは、煙草屋の前の喫煙スペースでバットを吸っている。僕の存在に気づくと、朝陽さんは煙草を持った手を挙げた。
朝陽さんの顔はいつになく引き締まっている。その目は僕のことをまっすぐに射抜いているように感じる。朝陽さんは煙草をまだ途中で消した。
そんな朝陽さんの様子をみていると、僕の気持ちが少なからず揺らいでいるのを感じる。朝陽さんと雨夜父とを会わせることは、本当に正しいことなのだろうか。そこに僕がいることは、本当に朝陽さんのためになるのだろうか。そんなことを考えてしまう。田中さんの話を整理してみれば、雨夜父が大切にしているのは陽鈴だけだと感じた。
自分のことを大切に思っていない癖に過干渉してくる父親に会って、朝陽さんの心に良い動きが生まれるだろうか。
ただ、それでもやはり、いつかは対決しなければならない問題だ。逃げていても、逃がしていても何にもならないだろう。
「行くか」
僕は無意識に朝陽さんの手を引いていた。朝陽さんは「お、おう」と言ってついてくる。心臓が強く早く脈打つのを感じる。寿命が縮みそうだ。朝陽さんが僕に手を引かれながら「用事どうだった?」と聞いてくる。僕は「それなりに」と答えた。朝陽さんは「そかそか」と相槌を打っている。
梅田東通り商店街を抜け、信号を渡る。阪急メンズ館を横目に見ながら、向かってくる人の群れを避けて歩く。そのまま阪急の中を進み、新梅田食堂街の喫茶ワイズにたどり着いた。朝陽さんの手の震えが、僕の右手に伝わる。僕の手を握る朝陽さんの手がこわばった。僕は強く朝陽さんの手を握る。時間は十三時一分。雨夜父は既に着いているだろう。
喫茶ワイズのドアを開け、階段を上る。暗い照明にアンティークなテーブルとチェア。コーヒーの香りと煙草の煙が充満する煙たい空気。騒がしすぎず静かでもないちょうどいい喧騒。奥に進みながら雨夜父の姿を探していく。奥に、奥に。
一番出入口から遠いテーブル席。そこに、何も頼まずに座っている男性の姿があった。こなれたスーツ。白髪交じりの髪の毛。厳格そうに曲がった口に、吊り上がった眉毛。間違いなく雨夜父だ。僕が家を出てからかなり老けたらしい。皺が増えている。朝陽さんの手を放す直前、朝陽さんの手がこれまで以上に小刻みに震えているのを感じた。
僕と朝陽は雨夜父の正面に座る。
「お久しぶりです」
最初に声を出したのは、僕だった。