第二章:壊れたブレーキ⑥
「何を物思いにふけってるん」
ベランダで空を見上げながら過去に思いを馳せていると、後ろから琥白の声がした。振り返ると、琥白が窓を閉じて隣に並んでくる。琥白は僕と同じように空を見上げた後、街を見下ろした。琥白はパンツスーツのポケットから煙草を取り出す。「火」と短く言ってくるので、僕はライターに火をつけて琥白の口元に差し出した。琥白がハイライトメンソールを吸い込み、ふぅっと吐き出す。肌寒い空にハイライトメンソールの煙が浮かび上がるのを、僕は黙って見ていた。
「あの子、もしかして陽鈴さんの妹さん?」
琥白が小さな声で聞いた。僕はピースに火をつけて一服する。甘い香りがベランダを包み込み、僕の肺を満たした。
「声を聞く限りじゃ、僕がお世話になった雨夜さんのお父さんだった」
「それならやっぱり」
「多分、陽鈴の妹なんやろなあ」
「知ってたん?」
「いや、まったく」
「知ってたから親身になってるのかと思ったよ」
救急車のサイレンがどこかで鳴っている。マンションの下で吐いている人がいた。琥白はただそれらを眺めてハイライトメンソールを吸っている。確かに、出会ってすぐの人間を養って夢を追う応援をするというのは変なのかもしれない。それ相応の理由があると思って当然だ。だけど、僕は朝陽さんが陽鈴の妹じゃなくても面倒をみるだけの理由が、ある。
「ただまあ、もし本当に朝陽さんが陽鈴の妹なら……余計に放っておけんなあ」
「だろうね」
そう言って、琥白が僕に手を伸ばす。僕は室外機の上に置いていた灰皿を琥白に差し出した。琥白は火を消すと、すぐにまたハイライトメンソールを口にくわえる。僕は灰皿をまた室外機の上に置き、琥白の目の前にライターを差し出した。
「君はほんまにアホだね」
「はは。今、陽鈴のこと思い出してたわ。中学の頃のこと」
僕を何度となく救ってくれた女の子。僕に家族をくれると言って死んでいった女の子。
マンションの下で吐いていた酔っ払いが倒れて、救急車に連れていかれている。一緒にいた人が救急の人に頭を下げていた。街が少しずつ静かになっていく。先端にたまったピースの灰を灰皿に落とす。
「まだ吹っ切れてないんだ」
琥白がぽつりと呟いた。その声色はなんだか悲しげで、青色のように感じられた。
「吹っ切れる日なんてたぶんこないよ」
「こんなに女性に囲まれてるのにね」
琥白が僕の足を蹴る。
「関係ないよ」
「そんなんだから千夜の周りには女性が多いんやろね」
「どういう意味やねん」
「恋愛関係になることはないという安心感?」
琥白は笑いながらそう言って、僕に吸いかけのハイライトメンソールを渡してくる。僕はそれを灰皿にこすりつけた。何か言葉を返そうとすると、琥白はベランダから出る。僕はピースをゆっくりと吸うと、火を消した。
「さてと」
僕はさっきメモした電話番号をダイヤルする。街には仕事終わりのお姉さんたちがコンビニ袋をぶら下げて歩いていた。風俗店が閉まる時間帯。代わりに中国人やフィリピン人のお姉さんがちらほらと街に出てきている。
僕は深く息を吸って、通話ボタンを押した。呼び出し音が鳴る。こんな時間に不躾だということはわかっているが、僕には雨夜さんに失礼をするだけの権利がある。それにしても寒いなあ。夜の喧騒が静まってくると、寒さは余計に骨身にしみるようになる。静かなのは嫌いだ。耳元で待機音が鳴っている。
待機音が止んだ。
「雨夜です」
「お久しぶりです、南森千夜です」
心臓がバクバクと強く脈打つのを感じる。喉の奥がヒリヒリとする。耳元から驚いたような吐息が聞こえてきた。
「久しぶりだな……この番号をどこで」
「先ほど朝陽さんがあなたに電話をかけたとき、一緒にいたんです」
「どうして」
「偶然知り合いまして。先ほど雨夜さんが電話に出られたときは心臓が飛び出るかと思いましたよ」
ははは、と歯切れの悪い笑いが出た。電話越しにため息が聞こえる。改めて聞く電話越しの雨夜さんの声は、会わない間に随分と老けたように感じる。
「どうしてです?」
「何がだ」
声が裏返りそうになる。深く息を吸って、吐いて、立ちんぼをしているお姉さんたちを眺めた。
「どうして今更、朝陽さんの人生に口を出すんですか」
僕が雨夜家にいたとき、既に朝陽さんは近所の親戚の家にいた。完全に預けられているというわけではなく、金銭の面倒などは雨夜さんがみていたらしい。体面上は「朝陽本人が親戚の家が好きで、よく出入りしているだけ」になっていた。だからこそ、僕を養子に出来たんだと思う。苗字は書類上は僕も雨夜だが、僕はあくまでも南森を通称している。中学でも高校でも意図的にそれを通してきた。
雨夜さんはずっと、子どもたちを自分から遠ざけてきていたように感じたからだ。
雨夜さんは言葉に詰まっているのか、何も言わない。僕はまた右手の爪を手のひらに食い込ませていたらしく、右手が痛んだ。ベランダにまで「お兄さんマッサージどう?」というカタコトの声が聞こえてくる。
「君には関係のないことだ」
その言葉に、僕は後頭部を強く殴打されたような錯覚を覚えた。腹の奥の奥から、底の底から冷たいものが満ち溢れてくる。街中ではマッサージのお姉さんを冷たくあしらうサラリーマン風の男性が見えた。
仮にも自分の養子に対して、関係ないと言える雨夜さんの神経がつくづく信じられない。本来なら僕と朝陽さんは兄妹みたいなものだったはずだ。そうでなくても、今僕は朝陽と関係を持っている。関係ないわけがない。どうしてこの人は、そんなことが言えてしまうのだろうか。
「関係ありますよ。あるに決まってんじゃないですか」
「ないな」
「どうしてですか。僕はあなたの養子じゃないんですか? 朝陽さんはあなたの娘じゃないんですか? 陽鈴の妹じゃないんですか」
電話越しに、何かを叩くような強い音が聞こえた。思わず肩がびくっとなる。雨夜さんは声を押し殺すようにして、言う。
「私の子供はひとりだけだ」
電話が切れた。
全身の力が抜ける。ベランダに座り込んでしまう。目の前の壁を蹴る。素足だからか、ものすごく痛い。足を抱えてピースを一本吸う。黙って吸い続ける。乱雑に吸ってしまったのか、どうしようもなく辛い。ひとりだけ、とは誰のことを指しているんだろうか。文脈的には朝陽のことだろう。それなら陽鈴はどうなる。陽鈴は死んだんだぞ。陽鈴が死んだのはお前らのせいでもあるんだぞ。
「娘じゃねえのかよ……!」
僕は乱暴にピースを消すと、膝を抱えてしばらくうずくまった。
どれくらいそうしていただろうか。家の中からは楽しげな酔っ払いたちの声が聞こえてくる。冷静になって考えてみると、雨夜さんの言動はあまりにもおかしい。朝陽さんのことをまるで認めていないようなことを言うのに、朝陽さんだけが自分の娘だと言う。存在を認めているようで、朝陽さんという人間や人格のことは何一つとして認めていないように思えた。
僕は立ち上がって一息つくと、家の中に入る。
「遅かったねー」
朝陽さんがデスクに座って僕を見た。琥白がソファで焼酎を飲んでいる。僕が大事にとっておいた山岳だ。僕は琥白の隣に座り、誰のかわからないグラスを手に取り、山岳をなみなみ注ぐ。それを一気に飲み干すと、朝陽さんが「やべえ!」と笑った。朝陽さんは親に自分の行動を否定された後だというのに、屈託なく笑っている。否定されたことのショックよりも、自分の意思を伝えた達成感のほうが大きいのだろう。
ココロは完全に寝てしまっていた。
折角の山岳なのに、味がわからない。
僕はまた山岳をなみなみ注いだ。
「飲みすぎやない?」
琥白が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。そして、目を丸くして目をそむけた後、心配そうに目を細めた。琥白は朝陽さんの方をちらっと見ると、小声で「大丈夫か」と言う。僕は黙って首を横に振り、山岳を飲みほした。朝陽さんは僕のパソコンで何かを夢中に見ている。
頭がくらくらしてくる。流石に何も割らずに、氷も入れずに二杯はやりすぎたか。自分の首がやたらと重く感じ、僕は琥白とは反対方向に倒れこんだ。ソファのひじ掛けに頭を預けて、琥白を見る。琥白は僕の足をげしげしと軽く何度も蹴った。
目をつぶる。
しばらくして目を開けると、朝陽さんが地面で眠りこけていた。知らない間に電気が消えている。琥白はまだ隣で飲んでいた。僕が体を起こすと、琥白はキッチンに行って僕に水を入れてくれた。水を一気に飲み干す。まだ頭がくらくらしているが、少しは気分が楽になった。
「どうしたの」
琥白が僕のすぐ隣に座る。腕がぴったりとくっつく距離。僕と琥白の間では珍しくない距離。僕は重い頭を琥白の肩に乗せ、「雨夜さんと電話した」と小さな声で答えた。琥白は「やっぱりか」と言い、酒か水かわからないが何かを飲んでいる。
「君には関係のないことだ、とさ」
「それくらいは予想してたんやないの」
「雨夜さんの子供はひとりだけだ、とさ」
僕がそう言うと、琥白はグラスを置いて天井を見上げた。
「それで君はどうしたいんよ、千夜」
「朝陽さんと雨夜さんの間に何があったのかを知りたい」
「千夜にも関係あることやしね」
そう言うと、琥白はあくびをしてグラスの中身を飲み干した。僕は琥白の肩から頭をどけて、大きく伸びをする。スマホを見ると、今は午前一時だった。「もう寝るか」と琥白に告げると、琥白はもう目を閉じて眠る体制を整えていた。「座ったまま寝るんかい」と言うと、琥白は「君がいるからね」と笑う。スマホを消そうとしたとき、スマホが震えた。
SMS受信一件あり。
「ん、誰やろ」
「どうしたん」
「SMS着た」
番号を見る。雨夜さんの番号だ。あんな電話のあとで何だろうと不思議に思ってメッセージを開いた瞬間、僕は「へ?」と間の抜けた声を出していた。
”仕事で大阪に来ている。明日の十三時に朝陽を連れて梅田の喫茶ワイズに来なさい”
「明日の十三時、朝陽と一緒に喫茶ワイズに来いってさ」
「新食堂街の?」
「うん。仕事で大阪におるんやと」
琥白は目を閉じたまま「ふーん」と言った。僕はまたひじ掛けに頭を預ける。
「あのさ千夜」
「なんや」
「邪魔なんだけど」
琥白が僕の足をげしげしと蹴っている。そして、僕とは反対方向の肘置きに頭を預けた。僕は「ええのんかーい」と軽いツッコミを入れて、そのまま眠りに落ちた。