第二章:壊れたブレーキ ⑤
中学校で変人南森の名を欲しいままにしていると、友人もそれなりにできる。いつも悪友みたいにつるんで馬鹿やっていた。よく一緒に馬鹿やっていたのは、西野と狩谷というお調子者二人。
中学二年の夏の日、西野と狩谷とコンビニに行った。僕が「アイス食いたい」と言ったからだ。僕がアイスを選んでいると、西野と狩谷が小声で囁く。
「万引きしてみようぜ」
悪戯な笑みを浮かべる二人に、僕は「は? 犯罪やから」と冷や水をぶっかけた。それでも二人は止まらず、盗るものを見定めている。僕は始終「それはあかん」「洒落にならん」「やめろや」とわざと関西弁を丸だしにして止めた。だけど、二人は結局十円のガムをひとつずつ万引きして堂々とコンビニを出た。僕は「ああもう!」と怒りをあらわにしながら二人を追いかける。途中、店員さんと目があった。
店員さんは追っては来なかった。
翌日、学校から帰ると雨夜夫妻が怖い顔をして玄関に立っていた。二人に連れられて先日のコンビニに行くと、従業員しか入れない場所に連れていかれた。そこで監視カメラの映像を見る。西野と狩谷、そして僕の姿がバッチリと映っている。背中がぞわっとする。店員さんがデスクをボールペンでトン、トンと叩く。雨夜夫妻がじっと僕を見ている。「いらっしゃいませ」という声が耳を素通りした。
「盗ったよね?」
「盗ってません」
僕は食い気味に、堂々と答えた。店員さんが机をたたく速度が増していく。目の奥のほうから全身にかけて冷気が伝わるような感覚がした。
「嘘ついたらだめだよ。君、目が合ったよね。罪悪感があったから俺を見たんじゃないの?」
鳥肌が立った。雨夜夫妻の顔を見る。二人は僕の肩を叩き「本当のことを言いなさい」と優しく言った。違う。そうじゃないんだよ雨夜さん。血の気が引いていく。後頭部からじんわりとした痛みが全身ににじんでいく。
「あの二人は盗りましたが、僕は盗ってません。僕の制止を振り切って、二人が盗ったんです」
僕は本当のことしか話していなかった。それなのに、店員さんの顔はますますこわばっていく。ますますデスクを叩く音が早く、強くなっていく。雨夜夫妻の顔が悲しみに満ちていく。
「友達に罪をなすりつけたらダメだよ」
「実際に二つしか盗まれていないはずです。それくらいわかりますよね?」
「君が二つ盗っただけでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、僕の口から思わず大きなため息が漏れた。
「反省してないね」
「反省するべきことがありませんからね」
「泥棒は犯罪だよ」
「それはあの二人に言ってください」
手足が震える。空気が鋭くとがっている。凍り付いている。この場の時間が止まっているんじゃないかと思うほどに。店員さんがボールペンで机をたたくのをピタッと止めた。本当に時間が止まったんだろうか。
「あのなあ……!」
店員さんが怒鳴って、ボールペンを僕の額に投げた。鋭い痛みと衝撃が額に走る。同時に、心臓が熱くなるのを感じた。お腹のほうからマグマのようなドロドロとした熱いものがこみあげてくる。僕は拳を握り、立ち上がり、僕の額に当たって落ちたボールペンを拾い上げた。
「目に刺さったらどうすんねん! あ? 大体なんで僕が盗った前提なんや? 頭悪いんか自分」
デスクにボールペンを力強く置いた。時間が止まったような静かな空間に、僕の裏返った怒声とドンッという音が響く。
「二人がお前が主犯だと言ってんだよ!」
店員も負けじと怒鳴り返してくる。
「なんでそいつらの言葉は信じて僕の言葉は信じひんねん! 証拠あんのか?」
拳に力が入る。切り忘れて長くなっていた爪が手のひらに食い込んでいく。雨夜夫妻は呆けた顔で僕を見る。僕は雨夜夫妻のその顔にどうしようもなく苛立って、夫妻を睨んだ。怒声が表まで響いたのか、バイトと思しき女の子が少し覗きに来た。
「これ以上言うと警察呼ぶぞ」
店員がニヤッとした顔で言った。
僕は思わず左手で店員の首をしめていた。右拳は握りしめたまま開かない。食い込んだ爪が痛い。手のひらが熱い。雨夜夫妻が僕を店員から引きはがそうとする。僕も左手の力を弱めようとするが、逆に力が入ってしまって焦る。店員が苦しそうな顔で睨む。雨夜夫妻がやっとの想いで引きはがすと、店員はゲホゴホとせき込む。僕は自分の右手を見た。血が出ていた。右拳を左手で無理やり開かせる。息が切れる。せき込んでデスクに突っ伏している店員を、僕は冷めた目で見ていた。「何やってんだ」と鬼の形相で僕を叱る雨夜夫妻を、冷めた目で見ていた。
店員は落ち着くと僕を帰らせた。
店内に戻ると、僕は何を思ったのか積まれていた買い物かごを思いきりなぎ倒して外に出た。ガッシャーン! という音が背中ごしに聞こえる。それでも気持ちは晴れない。むしろ余計にむしゃくしゃした。
コンビニから出ると、セミの鳴き声が聞こえる。青い空から痛いほど太陽の光が降り注ぐ。うるさい。黙れ。うっとうしい。手から血を流す僕を見て通行人が心配そうに見てくる。失せろ。見るんじゃない。
雨夜家に帰ると、陽鈴がドアの前で待っていた。いつものようにバットを吸っている陽鈴の顔を見た瞬間、僕は泣き崩れて陽鈴の胸に飛び込んだ。自分の泣き声と陽鈴の「おーしおしおし」という変な声しか聞こえなくなる。血の付いた手で陽鈴のTシャツを掴んでいるのに陽鈴は文句も言わず、ただ僕が泣き止むまで「おーしおしおし」と変な声で慰め続けてくれた。
落ち着いて陽鈴の部屋で事情を説明した。
陽鈴は「は?」と短く言って僕を見る。その目はこれまでに見たことがないほどに鋭かった。ただでさえ鋭い陽鈴の目つきが、さらに鋭くなる。陽鈴は僕の手のひらを手当てしたあと、その手のひらを撫でた。それから僕の手を引くと、西野の家に行ってチャイムを鳴らした。西野が出てきた瞬間、陽鈴は西野の顔を無言で殴り続ける。西野は顔中から血を流し、僕の前で額を地面にこすりつける。「ごめん」と言ったような気がするが、その言葉は僕には届かなかった。陽鈴は「お前も来い」と言って西野を引きずり、そのまま狩谷の家に行き、狩谷も同じように殴り続けた。例によって、狩谷も僕の前で額を地面にこすりつける。
陽鈴は僕ら三人を連れて、例のコンビニに行った。そこでは、雨夜夫妻と店員がまだ話し込んでいた。夫妻と店員は僕らを見て口を大きく開ける。陽鈴が西野と狩谷を店員の前に突き出し、「やったのはこいつら」と短く言う。西野と狩谷は血と涙をだらだら流しながら、みっともなく喚き散らした。
店員と雨夜夫妻は流石に僕がやっていないことを理解したようで、口々に僕にこう言った。
「どうして最初から言わなかったんだ」
僕は最初から言っていたんだ。それを信じなかったのはお前らじゃないか。なんで僕が責められているんだ。右手に不器用に貼られた絆創膏に血がにじむ。じりじりと火があたっているような痛みを感じる。
批難の目を浴びせる店員と雨夜夫妻の顔を陽鈴が鋭く睨む。
そして、雨夜夫妻の顔をそれぞれ一発ずつ、殴った。
「お前らはつくづく……! 恥を知れ!」
そのとき、陽鈴が声を荒げて涙を流しているのを僕は初めて見た。陽鈴は二人に侮蔑を感じるような鋭くとがった視線を投げつけて、僕の手を引いてコンビニを出た。絆創膏が陽鈴の涙でふやけていく。陽鈴は「くそ、くそ」と何度も言いながら僕を連れて足早に歩く。
二人はそのまま何も言わず電車に乗り、東京に行き、それからしばらく帰らなかった。