第二章:壊れたブレーキ ②
扉を開けるとピザの箱をふたつ持った男・九条ココロと、コンビニの袋を持った女・明石琥白が微妙にニヤニヤして立っていた。二人とも僕の無二の親友だ。
「ピザーラお届け!」
「あと酒ね」
九条はピザ屋の制服を着ている。
「相変わらず愉快やねえ君らは」
「愉快なのはココロだけ」
「いやこれバイト先のやから」
「持ち出したらあかんやろ」
「ええねんええねん。細かいことはええのんよ」
「細かいかね?」
「とりあえず入ろうよ。寒いしさ」
琥白が酒の入ったコンビニ袋を僕に押し付けた。僕の隣をすり抜けて、琥白が中に入っていく。九条が「ピザは俺が運ぶわ」と言って同じく中に入っていく。家主をほったらかしにして、二人が扉を開けた。「まじか!」という二人の声が聞こえた。玄関扉を閉めて、僕も生活スペースに入った。
ソファに座っていると思っていた朝陽さんは、なぜか僕のデスクに座って偉そうにふんぞり返っている。何をやっているんだ。そんな朝陽さんを見た二人は、興味津々な顔で僕を見ている。ふざけている朝陽さんを放置して、僕は二人に事の経緯を細かく説明した。
「事情はわかったけど、『ヒモにならないか』は引くわあ」
「ピザのチーズも糸引いてるぞ!」
「千夜さん引くわあ」
「朝陽さん」
「おう」
朝陽さんがデスクから立ち上がる。
「こっちのピザ屋が九条ココロな。僕らより二つ歳下。留年確定ダメ大学生や」
「ダメ言うな! 留年は学生の嗜みやぞ」
ココロが肩を小突いてくる。
「こっちの髪長いのが明石琥珀。一番長い付き合い」
「どーもー。明石です」
琥珀がゆっくりとお辞儀をした。朝陽さんも二人に向かってお辞儀をする。そして「よろしくお願いします」と言い、ピザが置かれたローテーブルの前のソファに座った。琥珀がその隣に座り、僕とココロは地面に座る。
「話したいことがあるんやけど、食いながら話すか」
「折角配達したピザが冷めるしな」
「お酒もぬるくなるしね」
コンビニ袋の中から酒を全部出し、ローテーブルに置いた。ハイネケンは僕に買ってきたんだろう。三本くらい入っている。ありがてえ。ワンカップは琥珀か。ほろよいは、ココロ。その他適当なチューハイは、おかわり用だな。僕は酒をそれぞれに配った。朝陽には僕のハイネケンを一本くれてやる。
「ほいじゃおつかれさーん!」
「おつかれー」
「おつ」
「おつかれさまです」
ぬるい。けどうまい。ハイネケンはこの世で一番うまいビールだと思う。酒を飲むみんなの顔を見ていると、疲れが吹き飛ぶ。ココロは甘い酒をちびちびと飲んでいる。結構筋肉隆々なのに一番女子力が高い。琥珀はワンカップを豪快に開け、浴びるように飲んでいる。見た目は清楚系女子なのに一番おっさんくさい。朝陽さんはハイネケンを初めて飲んだのか、ラベルをじっと読んでいる。
「あちゃー。ピザ冷めとるやん!」
「そらそうよ」
ひとつは、輪切りのトマトがたっぷり載ったマルゲリータ。バジルオイルの香りが箱を開けた瞬間から漂っている。もうひとつは、ウインナーとカルビがどっさりと載ったスタミナ系のピザ。どちらもうまそうだが、冷めている。マルゲリータは琥珀のチョイスで、スタミナはココロのチョイスだろう。琥珀は食べ物に関してはシンプルイズベストの信条を貫き通している。ココロはややお子様舌だ。
朝陽さんがマルゲリータを手に取り、縦に折って食べている。
「そういう食べ方するものかな」
「え? ピザってこう食べない?」
「クリスピー生地ならね。ビッグトップやで、これ」
「ビッグでもいけますよ」
朝陽さんと琥珀はもう既に馴染んでいるように見える。ココロはやや警戒されているようだ。恐らく、チャラそうな人が苦手なんだろう。最初の僕もそういう印象だったのかもしれない。この人の前ではお調子者は損をしそうだ。
「そういえば千夜。話ってなに」
琥白が二本目のワンカップを開けながら淡々とした声で聞いてきた。朝陽さんは僕からあからさまに目を逸らしている。
「朝陽さんが自分で納得できるくらい努力できるように、協力してほしい」
琥白はワンカップをローテーブルに置くと、「まあそういうことやろうね」と僕の目を見た。ココロは「俺に出来ることならなんでもする」と自分の胸を叩き、むせている。朝陽さんはまだ目を逸らしたままだ。
「具体的にはどうするん」
「とりあえず、朝陽さんに親と喧嘩してもらおうと思う」
「喧嘩? 物騒やな」
「二十五歳までというタイムリミットを外さないかんからな」
「まあ。作家を目指すんやったら、別に定職に就いててもできるしなあ」
「定職に就くことを条件に夢を追うことは自由にさせるのが、落としどころになるやろ」
目を逸らしていた朝陽さんが、目を細めて僕を見た。
「働きながら夢を追えるなら、私はなんでヒモしてるの?」
ポツリとつぶやくような小さい声だった。ココロが「確かに」と爆笑する。琥白はなんとなく意図が分かっているのか何も言わない。朝陽さんは爆笑するココロを見ながら満足気にハイネケンを飲んでいる。
「本気になれば働きながらでも問題ないけどなあ」
「本気になれてないから今は働くべきじゃないと言いたいんよ千夜は」
「ああ! そういう。そういうね」
朝陽さんが膝を叩いた。笑い終わったココロがスタミナピザを頬張り、「ああうめえ」と半笑いで舌鼓を打っている。
「朝陽さんは夢を追いたい気持ちは本気やけど、姿勢が本気になれとらんからな」
「本気になれるまでは俺のヒモになれと千夜はそう言いたいわけやな! この変態め!」
「そうやけどな。そうやないで?」
「変態やなくても変態的ではあるね」
「琥白まで言うか」
ため息をつきながらピザを食べ、二本目のハイネケンを開ける。朝陽さんはお代わり用のストロングチューハイを開けた。琥白は勝手に人の日本酒をキッチンから持ってきて、ワンカップの空き瓶に入れている。
「もう親に伝えた?」
気持ちよさそうにチューハイを飲んでいた朝陽さんが、わざとらしく顔を背けた。琥白が隣から顔を覗き込んでいる。そして、「伝えとらんねこれは」と淡々と言った。ココロも勝手に人の酒を漁り、勝手に人のシェイカーを使ってカクテルを作っている。
「よし……この場で電話やな! あとお前らは勝手しすぎや」
「この場で電話には賛成! 周囲に人がおるほうが気が大きくて話しやすいからな」
「勝手はやめんよ」
「この場でかあ……」
朝陽さんが顎に手を当てて考え込むような仕草をしている。僕はこの三日間で、朝陽さんが顎に手を当てるときは大して考え込んでいないときだと学んだ。少しして朝陽さんは顎から手を外す。チューハイを一気に飲んで、「よし!」と自分の頬を叩く。ペチンッと、いい音がした。
「やるぞー!」
「よっしゃ朝陽ちゃんその意気や!」
「じゃあもっと酔わんとね」
「気合を入れるため、こんな酒を用意しております」
デスクの下から「獺祭」と書かれた箱を出すと、「おぉ!」という歓声があがった。獺祭純米大吟醸磨き三割九部遠心分離。グラスに注いだ瞬間に感じるほのかな米の香り。一口含んだ瞬間に鼻から爽やかに抜けていく華やかな香りが癖になる一本だ。爽やかだけど華やかだというのは、僕が思うに日本酒に対する最上級の褒め言葉だ。これぞ本物の純米大吟醸酒と言えるだろう。
日本酒大好きな琥白が目を輝かせている。
「お、おいくら万円?」
朝陽さんが恐る恐る聞いてきた。
「1800mlで7800円くらい」
「俺の休日のバイト代くらいある……」
「むしろそんなに働いてんのかよお前」
「休日は八時間な」
話しながら、全員分の酒を注ぐ。ローテーブルの上のピザを床におろし、ローテーブルを囲んで座る。中心に朝陽さんの電話と獺祭の瓶を置いた。それを取り囲むように全員分のグラスを置く。
「朝陽さんのー健闘を祈ってー」
わざとらしく伸ばしてみせる。朝陽さんが「要らない」と言い、琥白が「早く飲みたい」と言う。琥白は膝をゆすっているのか、グラスを持つ手まで震えている。ココロは黙ってグラスを持っている。
「かんぱい!」
全員が「乾杯」と言い、一気に飲み干した。その後は黙って全員同じペースで獺祭を飲み続けた。黙っていたのは単に獺祭がうまかったためだろう。知らない人がこの光景を見れば何かの儀式かと思うかもしれない。
琥白は飲むたびに目をとじて旨みと香りを噛みしめている。朝陽さんは飲むたびに気持ちよさそうなため息をつく。ココロは日本酒が苦手なはずなのに、黙々と飲んでいる。顔をしかめてはいないので、これは飲めるらしい。
獺祭を全員で飲み干した頃には、もう全員出来上がっていた。最後の一杯を飲み干すと同時に、朝陽さんは静かなる喜びのポーズをした。その次の瞬間に琥白に抱き着く。琥白は最後の一杯を飲み干すと同時に、抱き着いてきた琥白をくすぐり始めた。ココロはそれを見て爆笑しながら最後の一杯には手を出さず、地面に転がっている。僕はそんなみんなを見ながら、ココロの分まで獺祭を飲んだ。
酔っ払った勢いで親への電話という関門を突破しようということだったけど、これは酔い過ぎだ。冷静な大人同士の話し合いどころではない。
「よぉーし! 電話するぞー! やっちゃるでー」
朝陽さんが琥白のくすぐりから逃れて、大声をあげる。関西弁がかなりわざとらしい。それなりに長い間大阪にいるだろうに、未だに言葉は馴染まないのか。琥白は宣言した朝陽にスマホを渡している。ココロは地面に寝転がりながら「がんばれー」とやる気のない声援を送った。
僕はピースに火をつける。
「電話するならスピーカーにせーよ」
「あと、私らは黙っとかんといかんね」
朝陽さんは番号を唱えながら電話をかけようとしている。親の番号を登録していないらしい。親との確執は僕が思っているよりも大きいのかもしれない。僕はスマホに朝陽さんの親の番号をメモした。琥白がウインクをしている。これは「今のうちにメモしてな」という意味だろう。残念、もうした。
「よーし、かけるぞー! 今かけるぞー。朝陽カケマース!」
何度も「かける」と言う割に、朝陽さんは電話をかけようとしない。その様子を琥白が見て、肩を震わせている。眉がピクッと動いた。
「ああもう、じれったいな!」
今日一番大きな声を出して、琥白が朝陽さんのスマホを奪う。同時に通話ボタンを押し、スピーカーにしてローテーブルの真ん中に置いた。呆ける朝陽さんをソファに座らせて、琥白は朝陽さんの肩を黙って抱いている。なんだこのイケメンは。トゥル、トゥル、と待機音が鳴り響く。それをみんながぐだぐだになりながら黙って見守っている。ココロはカピカピになったピザを寝転びながら食べている。神経が太すぎる。待機音が続く。心臓が早くなる。額から汗が流れ、頬を伝い、足元に落ちた。ピースの火を消すと同時に、新しく火をつける。待機音が続く。朝陽さんはバットに火をつける。待機音が、途絶えた。
「はい、雨夜」
満を持してスマホから聞こえたその声は、僕のよく知る声だった。そして、その声が告げた苗字は僕がよく知っている苗字だった。もしもドッペルゲンガーではなく、電話特有の声の変化によるものでなければ、この声の主は僕を十歳から高校卒業まで育ててくれた人だ。朝陽さんを凝視する。朝陽さんは深呼吸をして、スマホをじっと見ている。額から汗が大量に流れ、靴下を濡らした。
「あ、朝陽です」
呼吸が早くなる。琥白がこっちを見ている。
「朝陽? ああ、ああ朝陽か。なんだこんな時間に」
僕の両親は僕が十歳の頃に死んだ。その後、両親の親友だという雨夜さんの家で面倒をみてもらうことになった。その家には五歳年上の長女、陽鈴がいた。朝陽さんが雨夜さんの娘というのはどういうことだ。陽鈴の妹ということになる。
「二十五歳を過ぎても私は作家目指すから!」
朝陽さんの精一杯の叫び声が遠くに聞こえる。二十五歳を過ぎても私は作家を目指す。朝陽さんはそう言うと、電話を切ろうとして止めた。
昔、陽鈴に聞いたことがある。近くの親戚の家で暮らしている妹がいると。実際に会ったことがなかったが、朝陽さんがそうなのか?
「は? そんなことは許さんぞ。お前が自由にするとロクでもないことが……」
「お姉ちゃんとの約束だから! そういうことだから」
朝陽さんが雨夜さんの言葉を遮って叫び、電話を切った。朝陽さんは一息つき、地面に転がってるチューハイを開けて一気飲みした。ココロは黙って拍手をしている。琥白は朝陽の肩をポンッと叩きながら、僕の顔を見ている。スピーカーから流れる雨夜さんの言葉はほんの少しだけだったけど、毒親だろうと想像するには十分だ。
そういえば、僕もあの人は少し苦手だったっけな……。
「朝陽さん、よう頑張ったな」
僕はそれだけ言うと、灰皿と缶ピースを持ってベランダに出た。酔っ払って赤くなった顔に夜風が当たって気持ちがいい。同時に、少しだけ混乱していた頭が、スッキリとしてきた。空を見上げると少しだけ星が見える。チカチカと鬱陶しくきらめている。下を見ると楽し気にきらめいている夜の街があった。道行く人が酔っ払っていて冷静じゃない。楽しそうだ。
はは。
人生はよくわからないな。
あなたの妹がなぜか今、僕のヒモをしている。
僕は笑いながら、昔のことを思い出していた。