第二章:壊れたブレーキ ①
ヒモにならないかと朝陽さんに提案してから、三日が過ぎた。朝陽さんはあれから、僕の事務所で生活している。僕が座っているデスクの背後。はじめて朝陽さんを事務所に連れてきたときに座らせたソファに、朝陽さんは今も座っている。そして、仕事をしている僕の背後で意味の分からない言葉で唸っている。
それにしても、ヒモという提案はちょっと唐突過ぎだったかもしれない。しかも荒唐無稽だ。僕が提案された側なら、冗談として笑い飛ばす。それでも朝陽さんが今もこうしてここにいるのは、僕の真意をしっかり見抜いたからだろうか。僕は、朝陽さんが今すべきことは親と喧嘩をすることだと思っている。そして、夢を追うタイムリミットを消し去ること。同時に、執筆に専念する環境を整えることだ。文章のアドバイスができる人間がそばにいれば、もっといい。
だからこそのヒモ。
幸い、朝陽さん一人を養えるくらいの報酬は稼いでいる。
まあ……ヘビースモーカー二人なのは少しきついが。
ふと、仕事に疲れて指を鳴らす。ポキッポキッ。
再びカタカタと文章を書きはじめるが、僕の背後からはカタカタという音がしない。唸り声も止んでいる。
「朝陽さんさあ」
「なんでしょう」
「書いとらんやろ」
僕は振り返らずに言った。朝陽さんが自分のノートパソコンから音楽を鳴らし始める。the pillowsの『Swanky Street』だ。僕も好きな曲だけど、「書いてないだろ」と指摘されてすぐに音楽を流すのはどういう神経なんだろうか。
「書いてるよ。書いてる書いてる」
「キーボードの音聞こえんけどなあ」
「ピロウズにかき消されてるんだよ」
「流し始めたばかりやろ。言い訳しない」
「アイデアに詰まることってない?」
「ウェブのライティングだと、あまりない」
「え、なんでさ」
僕は「ふう」と一息ついて、朝陽さんのほうを振り返る。朝陽さんの手はキーボードの上に置かれてすらいなかった。行儀よく膝の上に置かれている。
「僕の場合、ターゲット設定をして、ターゲットの知りたいことを想像すれば自ずと必要なコンテンツが割り出せるからなあ」
「何それいいな」
朝陽さんが頬を少し膨らませた。少し可愛いと思ってしまった自分が憎い。それにしても、話せば話すほどに陽鈴と似ているという印象が薄くなっていく。顔だけ見ればドッペルゲンガーなのに。
「小説にも応用できひんかな?」
「たとえばどんなですか千夜先生」
「作品のターゲットを決める。ターゲットに何を伝えたいのかを決める。そうしたら、自ずとどういうエピソードが必要か、どんな登場人物が必要かが出てこんかなあと」
そう言うと、朝陽さんは「やってみるね」と再び執筆に向かい始めた。今はまだ設定やプロットの段階らしく、画面には資料などが表示されている。僕はピースに火をつけて、自分の仕事に向き合うことにした。
目の前で踊る文字列を見ていると、たまに文字がお金に見えることがある。一文字二円。一日一万文字は書いているから、一日二万円だ。今は推敲をしている段階だが、正直なところ推敲が一番つまらない。逆に一番楽しいのは記事を書くための情報集めと、論理を補足するためのソース集め。新しいことを知るのにワクワクするし、自分の論理が組みあがっていくのには快感を感じる。
背後からもカタカタという音が聞こえ始めた。ターゲット分析の作業を始められたのだろう。
二人ともが黙々と作業を進めていると、窓の外は暗くなっていた。パソコンの右下に表示されている時刻を見る。午後六時三十分。窓を少し開けると、兎我野町を歩く人々の声が部屋に飛び込んできた。ガヤガヤと楽しそうに、どう遊ぶべきかを考えているのだろう。今日は華金。一番街が華やぐ曜日だ。僕はこのガヤガヤとした喧騒に、少しのノスタルジーを感じる。
ふと気づけば、すぐ右隣りに朝陽さんがいた。朝陽さんの顔は窓の外をじっと眺めている。しばらくは、この綺麗な顔を眺めていよう。僕の初恋の人にそっくりな彼女の顔。顔だけはドストライクなタイプだと思ってしまうのは、かなりクズだろうか。
朝陽さんは視線に気づいたのか、僕を見た。
「ご飯食べようよ」
「仕事一息ついたしな」
「腹減った。外食? 自炊?」
「自炊て。作るん僕やけどな」
窓を閉めて、思いきり伸びをする。指をパキポキと鳴らして台所に向かった。朝陽さんはヒモになって以来、日増しに態度が大きくなっている。まあ、素を出し始めていると考えれば嬉しいか。
冷蔵庫にはもう食材が無かった。思えば最後に買い出しをしたのは、一週間前だ。やべえ。酒しかねえ。朝陽さんに「外食や」と告げると、朝陽さんは両手を挙げた。ヒモ生活一日目の夜に初めて見せたこの行動を、僕は『静かなる喜びのポーズ』と呼んでいる。
ため息を吐きながらライダースを羽織る。ライダースは飲み会の翌日、千里から返してもらった。そのとき、千里には僕らの状況を伝えてある。
「外食行くから、とっとと着替えーや」
「はーい」
朝陽さんが自分の服を持ってキッチンに行き、生活スペースとの間の扉を閉めた。
「覗くなよー」
かすかに聞こえてくる朝陽さんのからかう声。僕は財布をライダースのポケットに入れながら、「覗くなと言われるとなあ」と冗談を返す。冗談でこういうことを言いはするが、決して覗くつもりはない。特に興味もなかった。
扉越しに衣擦れの音が聞こえる。朝陽さんの「うんしょ」という声も聞こえる。しかし、決して良からぬことを考えないのが南森千夜という人間だ。そう思いたい。
僕は扉に背を向けて、デスクに置いてあるピース缶の蓋を開けた。一本一本シガレットケースに入れる。ケースには十本しか入らない。だけど缶ピースをそのまま鞄に入れて持ち歩くというのは、少し無粋な気がしている。そもそも僕は鞄が好きではない。
扉が開く音がした。
振り返ると、朝陽さんがはじめて会ったときと同じ服を着ていた。服は一人暮らしの家から持ってこさせたのだが、朝陽さんはそもそもあまり服を持っていないようだ。持っているのも無地のパーカーにジーパンだったり、ウルトラ怪獣の刺繍が施されたスカジャンだったりする。今着ているのは一番お洒落な服だ。
ワインレッドのカーディガンに、淡い紺のデニムパンツ。今は履いていないが、この服装のときよく履くのは黒いスニーカーだ。秋の色をしっかり採り入れ、それでいて派手過ぎない。足元にもっと気を使ったほうがいいとは思うが。
「何じろじろ見てんの? 笑うんだけど」
「そういうとこ、千里の友達って感じがするわ」
「自分でもわかる」
「それじゃ行くか!」
「おう!」
ピンポーン。
「え、このタイミング?」
来客なんて珍しい。インターホンの受話器を取り、「はい」と応える。受話器から、聞き馴染のある声が聞こえてきた。「飲みに来たでー!」「飯も持ってきたでー!」と二人して喚いている。ここが歓楽街の中で良かった。騒音問題にならなくて。
「僕の親友二人や」
「え」
「ちょうどええから開ける」
「いいの?」
「たぶん食い物持ってきとるよ」
「やったね」
とりあえず朝陽さんをソファに座らせて、黙っているように言い聞かせた。間仕切りの扉を閉めて一息つく。
玄関の扉を開けた。