表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
飢えた文字書きの夢追い自殺  作者: 朝飯怪獣めだまやき
第一部:朝に見る夢
1/9

第一章:初恋との対面

第一章:Blues Drive Monster


 彼女は言った。

「君に家族をあげる」

 彼女は陽鈴。

文字通り、僕にとって陽鈴は希望の光そのものだった。陽鈴のくれる言葉すべてが僕の道標になっていく。これからの人生もずっとそうして、陽鈴が照らした道を行くものだと確信していた。

 だけど、陽鈴は死んだ。

夕方六時ごろ。

微妙に肌寒くなってきた九月の空を見ながら煙草を吸っていると、陽鈴のことを思い出してしまう。妙に懐かしい。紫煙のように淡く、消えそうな思い出だ。

 空が光を落とそうとしているこの時間は、センチメンタルになっても仕方がないと思う。仕事も終わって、今日はもう過去に思いを馳せるくらいしかやることがない。仕方がない。

「クソやな」

 煙草を消す。

ピース缶のふたを開けると、両切り煙草が十本刺さっていた。デスクの脇に置かれていたはずのストックは、もうない。

「買いに行かなあかんやんけ」

 ため息をつきながら立ち上がり、レザージャケットを手に取る。バイクには乗らないのにライダースを着て、ポケットに財布を入れる。

スマホもライダースのポケットに入れよう。デスクに置かれているスマホを手に取った。


 その瞬間、電話が鳴る。

 応答。

「もしもし南森です」

「知っとる」

 スマホから呆れた声が聞こえる。

「なんや千里か」

「なんや言うな」

「なんよ?」

 仕事仲間からの電話に、僕は面倒ごとの気配を察知した。「今度の案件代わって!」とか、「儲け話あんねんけど!」とかそんなところだろう。そのときは即答で断ってやる。

「飲まへん?」

「ハイよろこんで!」

 思わぬ誘いだった。即答でOKしてしまったじゃないか。

「よかったー」

「梅田?」

「梅田やな」

「二人?」

「三人」

「三人?」


 誰だろう。僕には親友が二人いるが、あの二人と千里とは面識がないはずだ。それどころか、共通の知り合いなんてほとんどいない。少なくとも、今は連絡を取り合っていない。

「あんな? 専門学校時代の同期が相談あんねんて。作家志望でさ。ついでやからライター仲間も呼ぶかーてなってん」

 随分ふわっとした話だが、千里の声は結構まじめだった。

「なるほどな! 女子?」

「両手に華やで」

「え。片手やろ」

 スマホを手に持ったまま、事務所の鍵を持って片手で靴を履く。

「もう知らんわ」

「ごめんて」

「ええけど。これからすぐいつもの居酒屋来て。これから二人で入るから」

「待たんのかい!」

「待たん。じゃな!」

 切れた。


 千里が言う『いつもの居酒屋』は、僕の事務所から徒歩五分程度のところにある。五分くらい待てよと思うけど、五分程度なら先に入られててもいいかという気もする。

 いつもの居酒屋に行くと、一番奥のテーブルから千里が手を振ってきた。千里の隣には、黒髪ボブの女性が座っている。内巻きの髪の毛が妙に色っぽいが、顔はよく見えない。千里の目の前の席に座り、連れの女性を見る。


「は……?」


 やや上向きの目尻。妙に筋の通った細い鼻。薄い唇。全体から漂う雰囲気。彼女のルックスを構成する全ての要素に、僕は息をのんだ。全身の毛穴がざわついて落ち着かない。息が喉を通り過ぎていくのを実感する。居酒屋の喧騒が耳を素通りしていく。グラス同士がぶつかる音。千里の締まりのない顔。その横にいる黒髪ボブの女性。

 彼女は、陽鈴に似ている。

 似すぎている。

 世の中には三人くらいそっくりさんがいると言われているが、これはあまりにも……。

「どうしたん?」

 ぼうっとしていただろう僕の目の前で、千里が手を振る。

「いや! なんでもない」

 ふう、と息を吐いた。

「あまりに綺麗やったから見惚れてもうたわあ」

「朝陽かわいいやんなあ。わかるけど見惚れる前に酒頼みな」

 千里が半分くらい中身の減ったジョッキを持って笑う。

「初対面でいきなり綺麗って言う?」

 朝陽さんが僕にメニューを渡してくれた。しゃがれた声だ。彼女の席に灰皿が置かれている。その横にはゴールデンバットが置かれていた。陽鈴が昔、吸っていた銘柄だった。僕が初めて吸った煙草の銘柄でもある。今はもうフィルターが付いて喫味が変わってしまったが、それでも僕の思い出の銘柄であることに変わりはない。

「僕は言う」

 メニューを受け取り、会釈する。

「すいませーん!」

「はーい!」

 遠くから馴染みの店員である弥生さんの声がする。

「生ひとつお願い」

 メニューを見ずに注文した。

「はーい。千夜さん今日は両手に華ですね!」

「両手? 片方見えへんけど」

 ふざけて肩をすくめてみる。千里が「は?」と言ってテーブルの下から足を蹴った。弥生さんがタッチペンを持った手を口元に持っていき、笑う。

「またまたあ。じゃ、生ビール急いでお持ちしまーす」

「食いもんは適当に頼んだで」

「食いもんとか言うんやもんなあ。ま、ありがと


 ポケットからシガーケースとライターをテーブルに出す。シガーケースからショートピースを一本取り、脇に積まれた灰皿をひとつ手に取った。火をつけると、ほんの少し甘い香りが周囲を包む。

「すごく重いタバコ吸うんですね」

 朝陽さんが僕を見た。

「バットも重いやん?」

 そう言うと、朝陽さんは「あ」と言って自分が吸っているゴールデンバットの箱を見る。

「確かにね」

「はい、生ビールお待ちどう。

 男性店員がビールを持ってきた。

「ありがと!」

 左手に煙草を持ち、右手にジョッキを持つ。

「まあとりあえず……お疲れさんでーす!」

 乾杯。

 仕事終わりにビールの炭酸がしみる。テーブルには次々に料理が運ばれてきた。キュウリの一本漬け。たこわさ。タコのから揚げ。冷やしトマト。一度に頼みすぎるのは、千里の癖だ。

「たこわさうめえ」

 小鉢に入れられたたこわさを独占して、千里はたこわさを一気に流し込む。朝陽さんがそれを見て「それ好きだよねえ」と笑った。

「これが華か」

 僕が呟くと、千里はたこわさをもぐもぐと咀嚼しながらまた僕の足を蹴った。

「二人は長いの?」

 朝陽さんが僕と千里をちらちらと見ている。その目は少し鋭かった。

「千夜ー。何年くらいやっけ?」

「高校卒業してからやから、五、六年くらいの付き合いやな」

「私と同じくらいだね」

「二人同い年やしな」

「ということは高校卒業後すぐ専門?」

「普通そうだと思うけど」

「そして、同時に大阪に来たわけかあ」

 高校卒業後、恐らく関東の方から大阪の専門学校に来たと。作家関係の専門学校なら東京にもたくさんあるだろうに。むしろ出版社は東京のほうが多いから、向こうにいたほうが有利なのではないだろうか。

 この子とは、あまり仲良くなれそうにないかもな。


「出身は神奈川だよ」


 神奈川出身という言葉に一瞬ドキッとしたが、すぐに真顔になった。「へえ」と言いながらビールを飲み干し、タコのから揚げを食べる。カリカリの衣の中にプリッとしたタコの弾力と旨みが閉じ込められている。何度食べてもうまい。

「すみませーん!」

 店員を呼んだ。二人のジョッキも空だ。

「二人は何飲む?」

 メニューを渡していたら、馴染みの店員の弥生さんが来た。

「僕は瑞泉をロックで」

「私も瑞泉。あ、こっちはソーダ割で」

「私はレモンサワーお願いします」

「はーい」

 弥生さんがニコニコとしながら去って行く。なんだか少し浮かれているように見えた。朝陽さんは僕の顔をまじまじと見て目を丸くしている。

「朝陽さん、どしたん?」

「いつもロックなの?」

「せやで!」

 本当は、いつもは水割りだ。あまり仲良くなれそうもない人と飲むのだし、死んだ初恋の人に瓜二つの女性と飲むのだから普段より酔いたいだけなんだけど……。これは言えないな。千里がこっちを見て「は?」と言った。これはまずい。

「いつも水割やん」

「バラすなやー! 美人の前で見栄張りたい男心をさあ」

 千里を睨む。千里は「ハハッ」とわざとらしく笑っている。僕がふざける度、朝陽さんの目が鋭くなっていくのは気のせいだろうか。


「ロックとソーダ割とレモンサワーお持ちしました! というか早く受け取ってください。限界……!」

 弥生さんの両腕には六つのグラスが抱えられていた。違うテーブルの飲み物も同時に持ってきたのだろう。辛そうに顔を歪めているのが少し可愛い。僕らはそれぞれのグラスを受け取り、同時に飲んだ。

「さてと……。なんか話があるんやなかったっけ」

「そうやった。ライター仲間として呼んだんやった」

「ああ。そうだったね」

 そうだった、朝陽さんは千里と同じで作家を目指しているんだった。陽鈴も、朝陽さんと同じように作家を目指していたっけな。

「作家志望ということと関係が?」

 僕が質問すると、朝陽さんはレモンサワーのジョッキを大きく傾けた。それからバットに火をつけ、一服する。同時に僕もピースに火をつけた。千里が指でピースサインを作って僕に向けているので、ピースを一本くれてやる。ライターと灰皿を渡した。


「作家として芽が出る気配がない」


 芽が出る気配がない、か。僕と同い年ということは二十四歳。三十代の作家志望も多い中、夢を叶えるのに焦る年齢ではないように思うが……。

「というと?」

「新人賞に送ってもかすりもしない」

「どれだけ送ったん」

「六回くらい」

「それで芽が出る気配が無いというのは、焦りすぎなんとちゃう?」

 僕が言うと、朝陽さんの顔が暗くなった。灰皿に灰を落とす仕草を見ると、悪いことを言ったような気になる。

「二十五歳がタイムリミットなんだよ」

「ああ。親と約束しとるんやっけ」

「そう」

「待て。なんで親が出てくる」

 二十五歳になったら定職に就けとでも言われているんだろう。親との関係も良好ではないのかもしれない。それにしても、親と約束したから夢を諦めるというのは半端なように感じてしまう。親からの締め付けがあるくらいで諦められる程度なのか、と。僕は妙にイライラとしている自分に気づき、酒を煽る。

「二十五歳になったら定職に就けって」

「まあそういうことやろうな」

「だから焦ってる」

 とりあえず親の件は触れないでおこう。

「とりあえず、今どんな努力しとる?」

 僕は朝陽さんを試すように言った。

「本をたくさん読んで、時間があれば書いてる」

「文章の勉強はしとる?」

「表現の工夫はしてる」

 表現の工夫は、か……。

「とりあえず、短編とかあったら読ませてくれん? 読んでみんとなんとも言えん」

「いいよ」


 朝陽さんがスマホを見せてくれた。スマホの画面には朝陽さんが書いただろう短編小説が表示されている。


 瑞泉を飲みながら全部読んでみたが、朝陽さんに足りない努力が何かがわかった。文章の書き方というのを知らないんだ。作家を目指しているというのに文章の書き方も満足に勉強していないのか。ため息をつきたくなるのをおさえて、またピースに火をつける。千里さんは僕が何を言おうとしているのかを察しているのか、何も言わずに料理をつまんでいる。

「朝陽さん」

「うん」

「文章の基本を学びましょう」

「うん?」

 朝陽さんが顔をしかめている。何も理解していないような顔に、僕はますます苛立ってきた。

「専門学校で勉強したけど」

「足りん」

 思わず語気が強くなる。

「どういうこと?」

 瑞泉のグラスを大きく傾け、一息つく。


「まず、この小説のターゲットは誰?」

「ターゲット?」

「文章には必ず読み手がおるやんな。小説も新聞も雑誌もメールもラブレターもそう。その読み手意識が圧倒的に欠けとる」

「というと?」

 朝陽さんがライターを指先でくるくると回しながら聞いた。相談をしている側なのに、あまり真剣そうに感じない。

「読み手を意識しない文章は誰にも響かんて話よね」

「その通り。たとえば、作家になれるかどうか不安な朝陽さん。あなたがネットで『作家 なれない』などと検索するとする。出てきた記事に書かれていたのは作家になるのは難しい、という話ばかり。どう思う?」

「作家になるのが難しいことなんて知ってる、としか思わない」

「せやろ?」

「じゃあ朝陽。あんたが『作家 なれない』と検索するとき、どんなことが知りたいと思う?」

「こうすれば作家になれる! みたいなことかな」

「つまり、『作家 なれない』と検索する人は自分の不安を解消したいと思っている可能性が高いということ」

「ああ……」

 それは、僕が仕事をするうえで常に心がけていることだった。陽鈴が昔、僕に教えてくれたんだ。読み手のことを考えていない文章は、自慰行為と同じだと。方眼ノートに書かれた黒歴史ポエムと同じだと。朝陽さんは納得したように声を漏らすが、どこか上の空だ。その証拠に、まだライターでくるくると手遊びをしている。


「ターゲットの心情を無視しとるから『作家にはなれない』なんて書いてしまう」

「要するに、読者のことを意識しないで書いた文章は方向が違うと?」

 上の空のようにぼけっとしているのに、しっかりと質問をしてくる。朝陽さんという人間のことが、よくわからない。初対面なのだから当然のことだが、あまりにも掴めない。真剣なようで真剣ではなく、真剣ではないようで真剣なのか?

「どれだけ表現が面白くても、どれだけ論理的でも、内容が読者の知りたい事と違えば全て台無しになる。それだけで駄文になるんよ」

 僕は内心を表に出さないよう、淡々と言葉を綴った。

「読者のことを意識したらどういう内容になる?」

 朝陽さんが手遊びをやめた。

「僕なら『30代後半で作家になった人の話』を書いた後、『作家になるためにやるべき努力』を書く。そうすれば読者はやる気を出して頑張ろうと思ってくれるだろうから」

 朝陽さんはまだ腑に落ちないのか、腕を組んで考え込んでいる。バットに火をつけた後、レモンサワーをお代わりした。僕は赤霧島をロックで頼み、チキン南蛮も注文する。千里はモヒートを頼んだきり、黙りこくってしまった。

 弥生さんが「え、暗くない?」と言いながら飲み物を持ってくると、朝陽さんが重い口を開いた。


「小説と関係ある?」


 そうくるか。


 人に相談しておきながら、朝陽さんは人のアドバイスをなるべく聞き入れたくないと思っているのではないだろうか。否定的なことを言ってくるのがその証拠だ。朝陽さんはまったく悪気の無いような顔で、口をとがらせながらレモンサワーを飲み、バットを吸っている。

「読者を詳細に設定して常に意識しないと、読者が読みたい内容とはかけ離れていく」

「うーん。んー?」

「たとえば仲間や友達はどんなものより価値のある宝物だ! というテーマで青春物を書くとする」

「うん」

「友達が多い人がこれを読めば共感して、面白いと言ってくれるかもしれない」

「うん」

「友達がいない人がこれを読んだらどう思うやろか。自分はこの作品の中では全く価値のない人間だと思って、落ち込むんやないか?」

 僕が敢えてくどく説明すると、朝陽さんはやっと腑に落ちてきたようで目と口を丸くしている。

「ああ……確かに」

「友達が多い人向けに書くなら、その人が体験しているだろう青春を描くやろな。その結果が友達は至上の価値のあるものだ、というテーマに繋がるんやろ」

「うん」

「友達がいない人向けに青春物を書くなら、友達がいない人が『こういう恋がしたかった』『こういう仲間と遊びたかった』と妄想上の青春を描くほうが共感されやすいんやないか?」

「なるほど」

「そうすると『友達は至上の価値がある!』なんて価値観を押し付けるようなテーマにはならないやろな」

 僕は語り疲れて、赤霧島が入ったグラスを大きく傾けた。濃い酒が一気に流れ込んで、喉と胃がびっくりしているのを感じる。思えば、朝陽さんの存在で面食らってあまり食べ物をつまんでいない。僕は少しだけ唐揚げを食べ、赤霧島で流し込んだ。

「登場人物と同じくらい読者の設定も練らないといかんと、千夜は言いたいんよ」

 千里が重い口を開いた。

「そんで、設定した読者が喜ぶようなテーマや内容を考えないといかん」

「なんか商業主義みたい」

「プロ作家は商業作家やから商業主義やないといかんのよ。書きたいように書きたいものを書くだけなら、チラシの裏にでも書いておけばいい」

 朝陽さんがレモンサワーを一気に飲み干し、バットに火をつける。チキン南蛮がテーブルに運ばれ、朝陽さんは瑞泉の水割りを頼んだ。意外と飲める人なのか。

「これは本当に文章の基本というか、書く前の大前提みたいなもん」

「それを知らないから、文章の書き方を学ぶべきだと」

「そういうこっちゃ」


 得意げに親指を立て、チキン南蛮をほおばる。赤霧島の豊潤な芋の香りと、南蛮ダレの濃厚な甘みと酸味がよく合う。朝陽さんは頭を抱えて「くっそー」と唸っている。千里がそんな朝陽さんを見て笑っている。

「まあ……僕は作家やないけどさ。文章の書き方にはどんなものにも共通しているもんがあるんよ」

「痛感した」

「ライターとしての知識で良ければ、また相談にのるで」

 正直朝陽さんのことはまだあまり好きになれないが、この人の態度には興味がある。本気なのか、本気じゃないのか見定めたくなってきた。

「あ、ありがとう」

 朝陽さんは困惑気味に笑った。

 少し言い過ぎたかもしれないという後悔と、僕の話で朝陽さんの今後の努力の方向性が決まったなら嬉しいという気持ちと……。複雑な気持ちを抱えながら、その後は適当な談笑をして過ごした。月曜だから暇だったのか、途中で弥生さんが僕らのテーブルに常駐していた。


 店を出ると、外はもうすっかり暗い。

「くっそ寒い……!」

「私もう帰るけど、千夜どうする?」

 千里が肩を震わせている。この季節にオフショルダーなんか着ているからだ。仕方がないから「ほれ」とライダースを貸す。

「僕は飲み足りないから、事務所で飲み直すわ」

「事務所?」

「ここから五分くらいにあるんよ」

「事務所って言いながら住んどるけどな千夜」

「マンションだし住まなきゃ損やろが」

「朝陽はどうするん?」

 朝陽さんは少し考え込んで、「まだ飲む」と答えた。千里はニヤニヤしながら「じゃあ解散なー」と手を振り、スーツの群れに紛れていく。朝陽さんと二人で残されてしまった。


「朝陽さんはどこで飲むん?」

「わかんない」

 朝陽さんが伏し目がちに答えた。

「一緒に飲む? と言っても今の僕は事務所飲みモードやから、一緒に飲むなら事務所ということになるで」

 誘っているようにも、遠回しの拒絶にも聞こえるように言ってやった。朝陽さんは「うーん」と考え込んでいる。夜の堂山町の店先。左を向けば案内所の人たちが「どう?」と書かれた扇子を通りすがる人たちに見せびらかしているのが見える。右を向けばバッティングセンターが見える。

「行く」

 朝陽さんがまっすぐに僕を見て言った。

「じゃ、帰りに買い物付き合ってや」

「飲み物とツマミでしょ」

「あと煙草。ストック切れとるから」

「それは私も」

 堂山通の煙草屋で缶ピースを五つとゴールデンバットをワンカートン買い、コンビニで適当な酒とツマミを買って事務所に戻る。事務所は堂山町からすぐの兎我野町という歓楽街の中にある『NEW TOGANO』という全く新しさを感じない名前のマンションだ。

 風俗店で働く人たちの社員寮として使われることが多い。ところどころメンズエステも入っている。 そこの三〇一に僕の事務所はあった。


 玄関を開ける。

「ご新規一名様ご案内でーす!」

「どういうノリよ」

「初対面の人を事務所に連れ込むときのノリ」

「そうはならない」

「なっとるやろ?」


 笑いながら、朝陽さんを事務所にあげる。12畳1Kの狭いようで広い部屋に、デスクとダーツボード、ソファベッドに本棚が置かれているだけ。とりあえず普段はベッドとしてしか使わないソファに、朝陽さんを座らせる。僕は地面に座り、目の前にあるローテーブルに買ってきた飲み物とツマミを置いた。

「氷とグラスいる?」

「あるならいる」

「氷セット入りまーす!」

 キッチンの隣に置いてある冷蔵庫。その一番下の冷凍棚から氷を取り出し、アイスペールの中にガラガラと入れていく。食器棚から適当なグラスを二つ取り出し、アイスペールと一緒に朝陽さんのところに持って行った。

「ありがとう」

「あいよー」

 僕はハイボールを手に取り、グラスに注ぐ。朝陽さんはグラスに氷を入れてから、ストロングチューハイを注いだ。この人、ガンガンに酔う気だな。

「乾杯!」

「乾杯」

 ハイボールを一気に飲み干すと、朝陽さんもまた一気にストロングチューハイを飲み干した。それからは適当に飲み比べなんかをし、煙草をプカプカと吸いながら馬鹿みたいな話ばかりしていた。

 朝陽さんが酒ならなんでも好きということが発覚。一時間でバットを二十本吸い、ヘビースモーカーであることも発覚した。最初は陽鈴に似ているとばかり思っていたが、朝陽さんは実は僕に似ているのではないかと思う。無類の酒好きやヘビースモーカーであることもそうだが、何よりも決定的なのが自分自身があまり好きではなさそうなところだ。

 二人きりで飲んだ一時間。朝陽さんが「私なんか」「私なんて」「千夜さんはいいな」「あの人はすごい」と自分と他者を比べる発言を、十五回以上はしている。

 僕はこの人のことが、少し気になり始めてきた。

「朝陽さんは自分が嫌いなん?」

 思わず聞いてしまった。

 朝陽さんが口を開けたまま僕の顔を見る。

「ごめん、思ったまま口に出してもうたわ」

「いいよ。その通りだから」

 朝陽さんがグラスを置いて、二十一本目のバットに火をつける。僕もまたピースに火をつけ、朝陽さんの次の言葉を待った。朝陽さんはバットを持った手で自分の頭をかき、天井を見ている。


「今日、努力がどうとかいう話したでしょ」

「どんな努力をしたか、と僕が質問したな」

「私は夢を持っている。小説家になりたい。ジャンルはラノベがいいな。アニメ化なんかしたら最高じゃない? 映画化なんかしたときにはもう死んでもいいくらい」

 そう語る朝陽さんの目は、会ってから今までの間で一番輝いていた。

「だけど……」

 朝陽さんの目の光が、一瞬で消える。朝陽さんはバットを乱雑に吸うと、まだまだ葉が残っているのに灰皿になすりつけた。その言葉と目と行動で、僕は朝陽さんが自分自身を嫌う理由の一端が見えたような気がした。

 努力が……。

「努力を……しきれていない」

 できていない。

「さっき指摘されたことだって、ちゃんと努力してれば気付くはずなんだ。たくさん読んで、たくさん書いて。それなのに私は、自分に何が足りないのかを知ろうとしなかった。」

「怖かったんやない? それを知るの」

 僕にもそういうことがあった。

 ライターを始めてもう四年になるが、去年の自分がそうだった。クライアントから「このままのクオリティではライターとして生きていけない」と宣告された。そのとき僕は、「クオリティを上げるために時間をかければ稼げなくなる」とだけ考えていた。

 半端だ。

 結局クオリティを上げようと勉強したが、本当に自分に足りないものを見ていなかった。

 客観的な視点。

 自分の文章を自分で読み直し、その欠点が見つけられない。推敲は「文章構成」「文章の明かな間違い」にしか注目していなかったんだ。本当は「言葉が足りなくて伝わりにくい部分があること」が問題だったのに。

 客観視できないまま、放置していた。

 怖かった。

 客観的な視点が足りないことを知るのが怖かった。

 朝陽さんは、あのときの僕と同じなのかもしれない。

 そんなことを考えながら朝陽さんの顔をまじまじと見ていると、朝陽さんが「ふう」と言って座り直した。

「確かに怖い」

 絞り出すような声。

「足りないという現実を突きつけられるのが怖い。私なんかダメダメだということを突き付けられるのが怖い。だけど……」

「だけど?」

「どうしても叶えたい夢があるのに、怖いからって努力しきれていない自分が大嫌い……」

「そうか。だから焦ってんのか」


 努力しきれていない自分が嫌い。「それなら納得ができる努力をすればいい」と多くの人は思うかもしれない。違うんだろう。自分が納得できるほどの努力をしたいと思い、そうしようともしていたんだと思う。それなのに、どういうわけか納得できるほどの努力ができない。朝陽さんは努力をしていない人ではない。できない人なのだ。

 しかし、根源的に努力ができない人間などそうそういないだろう。

 何か深い理由があるのかもしれない。

 そんな人に、僕ができることはあるのだろうか。

「二十五歳がタイムリミットなのに。このままじゃダメだよ……」

 確かに、このままじゃダメだ。


「専門学校の同期がね」

「うん」

「デビューしたんだ」

「うん」

「周りが順調にいっているのに私は全然ダメ。努力すらちゃんとできていない。千里ちゃんだってライターとして働きながら、毎晩遅くまで小説書いてる」

「お酒飲むとき以外はな」

「なんか腹が立つ。千里ちゃんはそれだけの努力をして疲れているはずなのに、飲みに呼べばすぐ来る。余裕が無いくせに余裕みたいな顔をして。なんなんだあいつは! くそ……。そんな友達を見ているのにちゃんと努力しない自分も、なんなんだ!」

 朝陽さんが自分の足をつねる。その姿はとても痛々しく、見ていられないほどだ。涙は出ていないのに、目が少し腫れている。髪をかきむしり、折角のかわいいカールが乱れていた。本当に、見ていられない。

 だけど、僕だけはこの姿をしっかりと目に焼き付けておきたい。初対面の僕にここまで自分の腹の中をぶちまけてくれたんだ。僕には、朝陽さんのこの痛々しさを見守る責任と義務がある。

「中途半端にバイトして日銭を稼いでさ。バイト終わりに1時間くらい書いて。それで満足してすぐ寝て! 休日も少しやっただけで『ああ今日はもう頑張ったからいいか』と酒を飲んでいる私は、お前は一体なんなんだ……!」

 朝陽さんがバットの空き箱を投げた。空き箱は勢いよく扉にぶつかり、コンッと乾いた音を立てる。空き箱の中からはたばこの葉くずが落ちた。

「その間に千里は一日にたくさん文章書いて。勉強して。仕事が終わったら夜の十一時とかなのに、それでも毎日執筆してる。それに比べて私はだらけてばかり。書いても書いても上達しないのは、私のこの甘えた性分が原因だ。甘えるな。甘えるんじゃない。そう言い聞かせても、次の日には何かに甘えてしまう。何にだ? 自分にか? ふざけるな……。ふ、うっ」


 朝陽さんが口元を抑えて立ち上がる。トイレに駆け込んだ。トイレから叫び声のような嗚咽が漏れる。初対面の人間。しかも自分の初恋の人である陽鈴によく似た人間の苦しみを目の当たりにして、僕は一体何を思うのだろう。

 千夜よ。お前にも思うところはあるんじゃないのか。半端に生きて半端に努力して『お前は頑張った』と自分を慰めたことがあるんじゃないのか。むしろそんな経験がない人間なんているのだろうか。もしいるとしたらそいつはよほど恵まれていて、心が満たされていて、半端な想いを一度も抱いたことがない奴なんだろう。

 僕らはなぜ満足に夢を追えないのか。それは『満たされない、半端な想い』を抱え続けているからではないだろうか。むしろその想いを抱えているからこそ、僕らは夢を持つのかもしれない。順調に努力をし続けることができる人間は、その想いを別の形で埋めてもなお夢を持ち続けた人間なのではないだろうか。

 だとすると、夢とは……。夢とは。

 あまりにも残酷すぎるのではないだろうか。


 トイレから朝陽さんが戻って来た。目を伏せて深呼吸をし、再びソファに座る。トイレに駆け込む前に比べれば、少しスッキリしたように見える。


「夢か……。」

 思わずつぶやいてしまった。

 朝陽さんがバットに火をつける。

「思うところがあるなら全部言って。私だけ見苦しくてなんか嫌だ」

 朝陽さんの隣に座り直し、朝陽さんの目を見る。


 僕は、さっき考えていたことを言葉を変えて伝えることにした。

「夢を追っている人はそこらへんに大勢いる。僕の周りにも結構いた。カメラマンになりたい、ライターになりたい、俳優になりたい、小説家になりたい。だけど、そいつらの全員、誰一人として夢を叶えることはできなかった。早い人は一年もしないうちに夢を語らなくなり、長くても五年も経てばみんな夢を忘れていたよ。なんでだと思う?」

 朝陽さんはまたバットに火をつけた。僕の家にストックしてあった黒霧島を自分のグラスに入れ、水割りを作る。僕にも同じように作ってくれた。そうして二人で一口ずつ飲み、朝陽さんが僕の顔をじっと見る。

「何もしていなかったから?」

「そう」

「それで?」

「奴らはみんな夢を語るだけで満足したんやろな。夢を語るだけで、周りが一目置いてくれる。特別視してくれる。夢を持たない人は夢を持っているというだけで、奴らのことを尊敬してくれる。ここで満たされてしまうんやろな。自尊心、承認欲求、そういう子どもの頃から満たされない半端な想いがさ」

「少しわかる……」

「特に十代から二十代前半くらいはさ、自分は周囲とは違うと思いたいものなんやないかな。僕にも覚えがあるし。自分には何かができるはずという意味不明な自信もある。だから簡単に夢を持つ。簡単に夢を持とうとする。簡単に夢を語る。やけど、それだけで自分が特別だという証明になってしまう。やから努力をしないまま消えていく」

 朝陽さんが「なるほど」と言いながらバットを吸っている。視線はローテーブルに置かれた灰皿にあるようだった。


「奴らも一応夢を叶えるべく悩むんやろな。ただ、具体的にどうしたらいいかを考えるんやなくて、ただ悩んでいるだけ。結果、作品を準備しているとか言って嘘を吐く。嘘で満たされようとする。だけど、周囲は薄々気付く。『こいつは何もしていないんやないか』と。結果、夢を語ることをしなくなり、奴らの夢はただの嘘やごまかしで終わっていく。」


 僕は短くなったピースを灰皿になすりつけ、すぐに新しいピースに火をつけた。口の中が熱いのを水割りで誤魔化し、朝陽さんの横顔を見る。眉間にしわが寄り、口元を震わせ、拳をグッと握っている。涙は出ていない。

「私も同じかもしれない」

 朝陽さんがか細い声をもらした。

「少し違うで」

「え? 私とその人らが同じって話じゃなかったの?」

「そんなことは一度も言っとらん」

 第一印象は、そうだったかもしれない。だけど、今は……。

「新人賞に六回応募している時点で違う。僕と千里に自分はどうしたらいいのかと相談している時点で違う。僕の上から目線の話を素直に聞いてくれた時点で奴らとは根本的に違う。」

「そうなのかな」

 朝陽さんの目をまっすぐに見つめて、ピースを灰皿の上に置く。しっかりと座り直し、深く息を吸った。


「朝陽さんは本気で夢を目指している人だ」


 僕が言うと、朝陽さんは目をそらした。

「ただ、本気で夢を目指しているのに本気になれとらんとは思う。それには原因があるんやないかと思う」

「原因?」

「奴らが夢を本気で目指さないのは、夢を語ることが自尊心や承認欲求を満たすための代償行為みたいなもんやからや。それらが満たされない心の穴を、夢を語ることで埋めているんやと僕は思っとる」

「う、うん」

「朝陽さんが夢を追うのも、何か満たされない想いの埋め合わせという一面があるんやないか? その一面と本気で夢を追いたいという一面とが同時に存在する。結果、夢を追うことを代償行為とする一面に本気の一面が邪魔されとる形や」


 朝陽さんは目を閉じ、「そうなんだと思う」と呟いた。この人がどんな心の穴を抱えているのか、僕にはわからない。だけど、満たされないという思いは煙草の本数にも表れているように思う。吸っても吸っても満たされないから際限なく吸ってしまう。煙草も、何かの代償行為なのかもしれない。

 僕自身が、そうであるように。

 やっぱり、朝陽さんは僕に似ている。

 陽鈴にも似ている。

 放ってはおけない。


 今、朝陽さんが何をすべきなのか僕にはもうわかっている。


「朝陽さん」

「はい」

「僕のヒモにならん?」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ