第三話 影
「シド、おはようございます」
俺が伸びをしていると、物音で起きたのか、フィーリアの寝ぼけた声が聞こえてくる。振り返ると、ベッドの上で上半身を起こして目をこすっている。
結局、明日はフィーリアの方が忙しいのだからと言って、ベッドを譲った。その時は、納得いかないと言うようにまだ何か言っていたが、よく眠れたようだ。
慣れているからと床で寝たが、壁にもたれたのが良くなかった。ずっと同じ姿勢は良くない。体のあちこちがガチガチだ。慣れていたのは前世の体だけだと思い知る。
フィーリアが着替えると言うので、部屋から出る。ドアの前に立ち、目の前の窓を見上げる。
早朝の空気は静かだ。霧が立っているのか、近くの木に靄がかかっている。
コツコツ。
足音だ。こんな朝早くから誰が起きているのだろう。フィーリアを案内すると言っていたエーピオスか?にしては軽いな。女か?
階段を上りきり、姿を現す。
最悪。一番会いたくない、他の客だ。いろいろめんどくさいんだ。厄介事を運んでくるし、無駄につっかかってきたり、寝させてくれなかったり。それは俺が勇者だったからだろうか。それとも、そういう地域、時代だったのだろうか。まあ、今この場所で前世の記憶を全て当てはめるのも間違っているか。
背丈はフィーリアより少し高いくらい。女かと思ったが、まくった袖から見える腕は男の筋肉の付き方をしている。ここに泊まっている団体客は旅商人のはずだったんだけどな。外に出れば、賊や魔族に命を狙われることは少なくないが、商人でこんなに鍛えている奴は見たことがない。護衛として雇われているのかもしれないな。腰につけた短剣が相棒らしい。
クイッとオオカミの鼻がこちらを見る。光沢のある黒色のお面をつけていている。オオカミというより、キツネに近いかもしれない。
北方出身者か。濃い緑色の髪は、北方民族の特徴だ。
ジッとこちらを見ているようなので、何でもないと言うように目をそらし、ドアにもたれかかる。口笛でも吹いてやろうかと思ったが、あからさますぎる上に、ただの近所迷惑だ。
近づいてくるが、窓の外を向くふりをする。隣の部屋の奴なのか?俺がいるのは一番奥の部屋だぞ。何か用でもなけりゃ、近づかないでほしいものだ。
「お待たせしました、シド」
ガチャっと、フィーリアがドアを開ける。俺を待たせまいと急いでくれたのだろうが、それが裏目に出た。この状態で急に開けられるとまずい。
ドアは部屋に向かって開くため、俺は情けなく後ろにバランスを崩す。なんとか足を踏ん張り、フィーリアに倒れ込むなんてことがおきずにすんだ。
さっきのお面男がこちらを見ている。いつの間にか、俺たちの部屋の前に来ていた。
「なぜ連れてきたのですか?」
え?
フッと風が通る。一瞬で目の前にいたはずの男が消える。後ろから声がした。まさかと思って、振り向く。例の男は、俺の後ろにいるフィーリアの目の前に立っている。
「連れ出さない約束だったでしょう!」
男はフィーリアの胸ぐらに掴みかかり、大声を上げる。無論、表情は見えないが、怒っているということは言うまでもない。
女の子に手を上げるなんて最低だ。フィーリアもびっくりして抵抗できないでいる。俺はそれを止めようと手を伸ばす。
「エルピス、うるせぇぞ!」
この男のことだろう。
俺たちの部屋の前に立っている大荷物の男が大きな声で言う。荷物の多さからもわかるように、旅商人だ。エルピスと呼ばれた男と同じ髪色。同じ北方民族だろう。この男は目だけ隠れる面をつけている。
「時間だ」
そう言う男は身支度が済んでいる。ここを出発するのだろう。それを聞いて、しぶしぶというようにフィーリアを放す。エルピスとやらを止めようと手を伸ばしたままでいた俺を一瞥して部屋を出ていく。ドアを閉め、そのまま何も言わず去っていった。
「あの人が、エルピスさん」
シーンとした部屋の中で、フィーリアが呟く。知り合いかと聞いたら、首を振って否定した。
フィーリアがあんなふうに掴みかかられるようなトラブルを起こしたとは思えない。少なくとも、エルピスって奴の方は知っているようだったし、フィーリアの発言も気になる。
「エーピオスさんのところに行きますね」
フィーリアが部屋を出ようとする。俺も、送ると言って、後についていく。
階段を下り、玄関でエーピオスと合流する。
「今、この屋敷には父がいますが、村長の仕事ですぐに出ていきます。メイには、起きたら食堂に行くよう伝えてあります。スィドロフォスさんの朝食も用意してありますので」
連絡事項だけ言うと、さっさと屋敷を出ていく。フィーリアも、行ってきますと一言だけ言って続く。
この広い屋敷の中に三人か。そのうち二人になる。賑やかさの欠片もない。寂しいもんだな。
閉じられた玄関の扉をじっと見ているのもなんだから、食堂でメイディアーマを待つことにする。
「おはよう」
「…おはよう」
背もたれを前に、またいで椅子に座っていると、目の前に寝巻きのままのメイディアーマが現れる。俺の挨拶に少し戸惑いながら返事をしてくれる。椅子に座らせ、その前に座る。まだ緊張しているようだ。
テーブルに置かれたパンとスープが朝食に用意されていた物だろう。その横に置かれた魔法石を使い、温め直す。こういう魔法石のおかげで、魔法の才能がなくとも、便利な魔法が使え、生活が豊かになる。物によっては高いがな。料理を温めるために使われることが多い、この魔法石はどこにでもあるから比較的安価で手に入れられる。
「さあ、食べようか」
温めたパンとスープをメイディアーマの目の前に置く。小さく、いただきます、と言うと、もぐもぐと食べ始める。その様子を見ながら、俺も朝食をいただく。
「どうした?」
メイディアーマのことを見すぎただろうか。俺の顔を見て、何か言いたそうにするが、すぐに口をつぐむ。笑顔で問いかけるが、首を振る。
「そうか」
優しく接することを意識するけど、なかなか緊張を解いてもらえないな。無理に話しかけることはやめ、食事に集中することにする。
「いつも一人なの」
あまりに唐突で驚いて、危うく喉につまらせるところだった。細い声の持ち主は怯えるように肩を揺らしている。何と声をかけてあげるのが正しいのだろう。
「今日はずっと俺が一緒だからな」
これが何の解決になるだろうか。
無垢な少女は、俺の言葉を素直に頷いて、嬉しそうに笑う。さっきまでと違い、食べる速度が速くなり、緊張もだいぶ緩いでいる。
「ごちそうさまでした!ねえ、遊ぼう!」
メイディアーマは食べ終わるとすぐに席を立ち、食堂を出ていく。着替えてからな、と返すと、すぐだから待っててね、と可愛らしい声で奥の部屋へと消えていく。
とりあえず、元気になったみたいで良かった。俺はいつかここを出ていく。一時的な解決でしかない。なんとかしないとな。
「スィドロフォス、こっちこっち」
午前は屋敷の中で人形遊びに付き合い、昼を近くのレストランで食べると、すっかり慣れて名前も呼ばれるようになった。無邪気に駆ける様子は年相応の女の子だ。案内されるまま、いつも遊ぶという丘に登る。
「シド、どうしてここに?」
偶然にも、フィーリアたちも来ていたらしい。メイディアーマと遊びに来たと言うと、心配だと言いたげな表情になる。
「この辺りが一番被害が大きいみたいです」
小さな女の子をここにいさせてはいけない。すぐには実害がなくとも、何がおこるかわからない。メイディアーマを別の場所に連れて行こうと近くに寄る。フィーリアはまた仕事に戻ったのか、もう俺たちから離れている。
「別のところで遊ぼう、な」
俺の声が聞こえていないのか、反応がない。どうしたんだ、と言いながら、しゃがむ。目線を合わせて顔を覗き込む。メイディアーマは、黙ってどこかをじっと見ている。視線の先には林の木の間に小さな影がある。少し遠くてよく見えないが、メイディアーマと同じくらいの背丈だろうか。向こうもこちらを見ているようだったが、背を向けて林の中に向かって歩きだす。
「メイディアーマ?」
「あの子も私と同じなの」
なんだか不安になって声をかけてみると、視線は変えずに小さな声で、でも、はっきりと言う。どういう意味か問おうと息を吸った時には、メイディアーマは走り出していた。さっきまで全く身動きしなかったため、走り出したことに驚いてしまい、正気に戻るのが遅れる。俺も立ち上がり、メイディアーマを追いかけ…ようとした。立ち上がって、メイディアーマが走っていった先を見た頃には、もう姿が見えなかった。あの子供の足の速さなら、すぐに追いつけるはずだ。なのに、忽然と姿を消したのだ。
「メイディアーマ!」
声を上げて少女を探す。丘を下りて、林の中に入る。
赤髪の小さな七歳の女の子。さっきまで一緒に遊んでいた。こんなふうに見つけられない場所に行ってしまうなんて想像もしなかった。やっぱり、あの影に何かあるのか?
「シド?」
「フィーリア、メイディアーマが」
「メイちゃんに何かあったんですか?」
林の中を調査していたフィーリアと鉢合う。血相を変えた俺の顔を不思議そうに見る。メイディアーマの名前を出すと、ますます何事かと表情を曇らせる。事情を話すと、一緒に探しましょう、と言ってくれる。
エーピオスに何と言えば良いのだろう。俺が責任をもって面倒を見るはずだったのに。
「子供は時々、大人の考えつかないようなことをしますからね。きっと、隠れんぼでもしているのでしょう。苦労して探しているところに、何事もなかったかのようにぴょんと現われるかもしれません」
実の娘が行方不明になって、俺よりもショックを受けているはずなのに、エーピオスは優しく励ましてくれる。でも、そんな希望は叶わず、手がかりも見つからないまま日が落ちてしまった。
「一度屋敷に戻って、体制を整えましょう」
フィーリアの落ち着いた声で言った。