真白
「では、八岐さんお先に上がらせてもらいます」
「ああ。お疲れさん真白」
「お疲れ様でした」
真白と呼ばれた若い女性は、そう挨拶を交わすと前掛けを外しながら店の奥へと引っ込んで行く。後に束ねた長い髪が揺れていた。
八岐が壁に掛かる年代物の大きなゴシック時計を見上げて言う。
「そうか、もうこんな時間か」
彼は胸のポケットから電子煙草を取り出しスイッチを押した。数秒後、一口吸うと蒸気の煙を吐き出しながら言う。
「それじゃ、客も来ないようだし閉めるかな」
東京とは思えない古びた商店街の端にある『月夜見』という名の喫茶店。
喫茶店とは言っても珈琲の類は一切置いていない。この店には『茶』しかない。しかしながら『茶』であれば世界各国どんなお茶でも飲める。そして店の唯一の例外として何故か甘酒がある。
一風変わってはいるが、言うなれば現代の茶屋なのだろう。その店のカウンター内で八岐は煙草を吸っていた。
この煙草を吸い終わったら店終いだと思った矢先、黒塗りで重厚な造りの扉が動いた。
チリンと鈴の音が静かに鳴り、外の空気が店内に流れ込んでくる。
「いらっしゃいませ」
黒いワンピースに長い髪が印象的な女性客だった。二十歳前後の実に美しい娘だが、顔色も悪く何処か暗い感じが漂う。
そして何よりその佇まいには違和感を感じた。何かが足りないと言えばいいのだろうか。間違い探しの様に、答えは見つからないがどこかがおかしい事はわかる。
その女性が口を開く。
「あの……」
「はい。如何致しましたか?」
「こちらで引き受けて下さるのでしょうか」
「えっと、すみません。失礼ですが引き受けるとは……何の事でしょうか?」
「あ……いえ、こちらこそ突然すみませんでした」
その美しい女性は申し訳なさそうに頭を下げると足早に店を出て行ってしまった。
先ほど店の奥へ引っ込んだ真白がぴょこりと顔を覗かせて言った。
「折角の来店なのに」
後ろで結っていた長い髪を下し前掛けは外している。
黒いシンプルなカットソーにタン色のパンツ。その上に白いカーディガンを羽織っていた。
「今の人、話も聞いてあげないの?」
「ああ。合言葉を知らないみたいだから」
「綺麗な人だったよ?」
「綺麗でも駄目なものは駄目だって」
「お硬いこと」
「真面目と言って欲しいな」
真白は微笑みながら、歩みを進めて扉へ向かう。
「では、上がります」
「送ろうか?真白。もう店閉めるから」
「え!やった!じゃあ、片付け手伝う!」
二人は手際よく店終いをすると、照明を消して店の鍵を掛けた。