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帰郷

作者: 一 一 

 だいぶ前に書き溜めていたモノを投稿してみました。

 作者的にはちょっと苦手な恋愛もの。

 楽しんでいただけたら幸いです。

「ただいま~」

 田園風景が広がるとある町の一軒家。

 玄関で呼び鈴を鳴らして少し、引き戸を開けて出てきたのは前と変わらぬ母の元気そうな顔だった。

「はいはい、どちら様で、って、あら、カナじゃない。どうしたの急に?」

「久しぶりに帰ってきた娘に対して、言いたいことはそれだけ?

 他に何かあるでしょ?」

「おかえり」

「……うん。ただいま。疲れてるから、荷物置いてきていい? 私の部屋、まだ使えるよね?」

「アンタが出てったまんまだから、問題ないでしょ。さっさと下りてきなさいよ? 聞きたいことはたくさんあるんだから」

「はいはい、りょ~かい」

 上京して三年と少し。

 私、植田香奈(うえだかな)は実家に戻ってきた。

 地元の高校を卒業し、東京の大学へ進学。そのまま一人暮らしを始めて久しい。

 金銭面は親に頼りたくない私の性分により、アルバイトで生活費を工面しながらの生活を送っている。仕送りもあるけど、手を着けずに放置している。

 しかし、そうするとほとんど毎日複数のバイトをかけ持ちせねば生活が危うい。

 本当なら実家に帰る時間も年中ないだろう。

 では、どうして里帰りをすることになったのか?

 それは同じキャンパスで偶然知り合った友人、真美(まみ)の何気ない発言がきっかけだった。

「来る日も来る日もバイトばっかで、アンタ何が楽しくて大学生やってんのよ、こんのクソ真面目ちゃんが!

 あたしらももう三年だから就活も始まって、あっという間に社会人になるんだから、まだ遊べる時間があるうちにやりたいことやっとかなきゃ損じゃん。

 あとになって後悔しても知らないよ~?」

 と、彼女は会話の流れから私のキャンパスライフ批判をしてきたのだ。

 遊びうんぬんはさておき、私は真美の言葉の中でも『後悔』の二文字が強く頭に残った。

 想起されるのは中学二年生だった私。あの日の出来事は私の心に最大の疵痕(きずあと)を残し、断ち切れない後悔の連鎖を引き起こした。

 辛い気持ちから目を背けて故郷から逃げるように離れてみたけど、今でも私は自分の過去に苦しめられている。

 あれから数年が経った。自分を責め、心の傷みに苛まれるのにも疲れた。

 現実逃避はもうやめよう。

 真美が意図した遊ぶこととはまったく見当外れの結果にはなったものの、私なりに受け止めて実家への帰省を決めたのだった。

 数年ぶりの実家はあまり変わったところもなく、ただただ懐かしさに溢れていた。

 ちょっとした感慨を胸に抱きつつ、二階の私の部屋に荷物を持って行こうとしたとき、先に階段から降りてくる人物がいた。

「あれ? お姉ちゃん?」

 七歳年の離れた妹の志穂(しほ)だ。

 今は中学三年生で、私立の進学校に入学するため勉強に励んでいる。

「志穂! 直接顔をあわせるのは久しぶりね。元気してた?」

「帰ってくるなら連絡くらいしてくれればよかったのに~」

 驚きと呆れの混じった表情で駆け寄る志穂。

 若干背も伸びて面差しにも凛々しさが浮かぶ。最後に顔を合わせたのは三年前だが、雰囲気が随分と大人びたように感じる。

「ゴメン、ゴメン。面倒臭かったし、別にいいかなって」

 照れ笑いで連絡の不備をごまかそうとする私に、志穂はあからさまなため息をついた。

 これではどちらが姉か分からない。

「まったく。毎度思うけど、お姉ちゃんっていつも行き当たりばったりだよね。そんなんじゃ向こうの生活も大変でしょ? 今更だけど、なんか心配だなぁ」

「……たはは、申し訳ない。

 それより、志穂ももうすぐ高校受験だっけ? 勉強がんばってる?」

 苦し紛れに話を逸らすと、志穂は急に声音を潜ませ、歯切れが悪くなる。

「……まあまあ、かな? 裕貴(ゆうき)君もがんばってるし、私だって手は抜けないし、ね」

 顔を真っ赤にして俯かせて恥ずかしそうにしている妹。

 いつまで経ってもウブだなぁ。ごちそうさまで~す。

 裕貴というのは志穂の彼氏で、一年前に志穂から告白したのだそうだ。

 ときどきノロケ話を聞かされてウンザリすることもある。どうやら志穂の様子から、いまだ交際は順調らしい。

 私立の高校に進学を決めたのもその裕貴君の希望進路だったからだそうで、相当な熱の入れようである。

 私には浮いた話がないから、たまに羨ましくなる。

「はいはい、相変わらずラブラブだね~。

 私はもうお腹一杯だから、カレと一緒に勉強するなり、二人っきりでいちゃつくなり、好きにしてちょうだい。

 あっ、ちゃんと避妊はしないとダメだよ?」

「……お姉ちゃん!」

 私がナニを想像していたか理解すると、ウブな妹は一気に顔を紅潮させて、参考書が覗く手提げカバンを持ち上げた。

「きゃ~! 志穂ってばコワ~イ!」

 子供の頃から、志穂は怒ると周りのものを無差別に投げつける習性がある。

 すぐにそれに思い至った私は、カバンかその中身が射出される前に、急いで二階に駆け上がる。

「も~! お姉ちゃんのバカァ!」

 階下から妹の絶叫が聞こえてきた。

 茶化し過ぎたか。反省。馬に蹴られて死にたくないしね。

 自分の荷物を部屋に預けた頃には静かになっていた。

 玄関を覗くと、志穂のものらしかった靴が見あたらない。もう出かけたらしい。

「……ガンバレ、志穂。本当に好きなら、どこにも行かないようにしとくんだよ」

 誰に聞かせるでもない独り言を呟き、玄関に背を向けた。

 見送りをすませてリビングに向かう。

 そこには父さんがソファにもたれながら新聞を読んでいた。

「ただいま。父さんも元気?」

「ん」

 それきり黙る父。会話終了。

 数年ぶりに再会した娘への挨拶は一文字かい。

 別に文句はないけど、釈然としない気持ちは残った私なのであった。

 父さんはいつ見ても新聞を広げていて、あまり会話した記憶もない。寡黙だとは母さんから聞いた。でも、ちょっと度が過ぎている気がする。

 あらためて父さんのコミュニケーション能力に疑問を覚えつつ、父さんと対面する形でソファに腰かける。

「ほい、まぁ飲みなさい」

「ありがと~」

 すかさず母さんが三人分のコーヒーをテーブルに置いてくれた。私は目の前に差し出されたものを一口すする。

 ふぅ。落ち着く。

「っで。アンタは何しに帰ってきたの? 向こうの生活に疲れた?」

 私が一息ついてすぐに母さんが私の突然の帰省に疑問を投げかける。

 母さんの目には困惑の色が覗く。父さんも少しそわそわしているから、気になってはいたのだろう。

 無理もないか。

 上京してから音信不通だった娘が、連絡もなしに突然帰省してきたのだ。戸惑うのも仕方ないのかもしれない。

「別に。大して理由はないよ」

「本当に?」

「うん。深く考えないでいいよ。意味ないし」

 朗らかに嘘をつく私に、母さんはやはり納得のいった顔ではなかった。

 それもそうだろう。

 いい加減だった私を変えた出来事。原因を知る人たちとの避けられぬ邂逅(かいこう)。話したことはないけど、母さんも事情をぼんやりと知る一人で、だからこそ疑問を呈した。

 でも、ちょうどいい機会だと思う。今を逃せば、次にこの問題とぶつかるのはいつになるのか。

 学生という身分はまだ時間に余裕があるけれど、社会人になってしまえばあれこれ考えている暇もないだろう。

 それに、たった一つの嫌な記憶のせいで、いつまでも故郷を忌避し続ける私を見たら、『彼』はきっとガッカリするだろう。

 かつて『彼』が「尊敬している」と言ってくれた自分から遠ざかってしまっている私。

 だけど、私は少しも変わらなかった部分の自分と、何より『彼』に向き合うために帰ってきた。

 それが私にとってどのようなことを意味するのか、十分に理解した上で……。

「じゃ、ちょっとブラブラしてくるね」

 母さんへの報告に区切りがついたころ、ぬるくなったコーヒーを飲み干して席を立つ。

「ご飯が欲しければ夕方までには帰ってきなさいよ」

「お~け~」

 後ろ手にひらひらと手を振ってリビングを出て、玄関で動きやすいスニーカーを履き、懐かしい故郷の景色を見に行くことにした。

 七年と少し前。現在のつまらない私の起点は中学二年の頃までさかのぼる。


~~・~~・~~・~~・~~


「おーし、お前等席に着け! 楽しい朝のホームルームの時間だぞ!」

 ゴールデンウイークが開けて少しけだるい五月。

 教卓に両手をつきながら、笑みを絶やさないエビス顔の担任が朝の喧噪に終止符を打つ。

 名前は覚えていないけど(そもそも覚える気もない)、それなりに好感が持てる人で、私が反発心を持たずに接することができる数少ない教師の一人だ。

「いつも通りのホームルームに、楽しいも何もないんじゃない?」

「まあそう言うなよ。あの先生はいつもあんな感じじゃねぇか」

 私の素朴な疑問に答えた男の子は隣の席の本橋幸太(もとはしこうた)。私の限りなく希薄な交友関係のしんがりをつとめている、希有な奴。

 襟にかかるくらいの黒髪に、少し大きめな目元が苦笑気味に垂れている。大人と子供の中間に位置する容貌が、どことなく頼もしさと頼りなさをうかがわせる。

「それは分かってる。でも、休み明けでだれた気分の時にあの常時ハイテンションはうっとうしくて仕方ないと思わない? 明るい性格はあのセンセの長所だけど、いつでも長所に当てはまる訳じゃないでしょ」

 私の気だるげな発言に苦笑でもって返してくる彼。

 友達といっても、付き合いはこの中学からで一年と少し程度。

 気負うことなく話ができるくらいには親しいけど、本音をさらけ出すほどの仲ではない。

 私の視点では、グチを聞いて相づちをうってくれる相手、という認識でしかなかった。

 センセの連絡を半ば以上聞き流しながら本橋君と話していたら、急にセンセが声音を変えたのを感じ取り、注意を教卓に向けた。

 センセは若干開いていた扉へと手招きをする。

 センセの呼び出しに応えて教室に入ってきたのは一人の男子生徒だった。

「今日転校してきた新しいクラスメイトだ。ほれ、自己紹介しろ」

 センセに促されてそいつは黒板に名前を書き、一礼した。

小野寺秀一(おのでらしゅういち)と言います。父の仕事の関係でこちらに引っ越してきました。都会育ちで体力とかないですけど、大目に見てくださいね。これからよろしくお願いします」

 小野寺と名乗った男子はうっすらと笑みを浮かべた。

 直後、クラス中の私を除く女子生徒から金切り声が響き渡った。センセや男子同様、私は鼓膜を守るために両耳を塞いで、転校生に視線をやった。

 女子がキーキー騒ぐだけあって、かなりのイケメンだ。

 本橋君よりやや長めの髪の毛は黒ではなく若干色素の薄い栗毛色。優しげな垂れ目と細面が映える白い肌は、かなり粗暴で見た目に頓着しない私でも少し羨ましくなるくらい綺麗だった。

 女子と比べても小柄で、体力のありそうな体つきではない。でも少女マンガに出てきてもおかしくない美麗な容姿のおかげで、気にする人間はこの場にいない。

「おい、静かに! 静かにしないか!俺たちの鼓膜まで潰す気か!」

 こういった騒ぎを収める術に長けたセンセも、今回ばかりは手を焼きつつも、沈静化には成功した。

「あ~、小野寺はまだこっちに来て日が浅い。向こうの学校とも勝手が違うところもあるだろうから、ちゃんとフォローしてやれよ。

 特に植田。小野寺の席はお前の隣だから、ちゃんと面倒を見るように」

「……は?」

 ぼんやりとセンセのありがちな注意を聞いていて、いきなり私の名前が挙げられたせいで、間の抜けた吐息が漏れる。

「ちょっと待ってよ! 何で私がそいつの世話しなきゃいけないわけ? そんなの介護ヘルパーにでも頼んでよね!」

「植田、相変わらずお前の口は辛らつだな。小野寺も若干引いてるぞ?」

「別に、そいつはどうでもいい! それより何で私が!」

「さっきも言ったろ。小野寺の席は植田の隣だからだ。両手に花だぞ。むしろ俺に感謝しろ」

 ちなみに、もう片方の隣には本橋君がいる。

「私は女で、両隣は男だからその表現はおかしい!」

「問答無用。それじゃあ、本橋、悪いが小野寺の机を取ってきてくれ。一時間目に間に合うようにな。

 植田。ガンバレ」

「はい、分かりました」

「何をどうガンバレと?」

 本橋君は素直に、私は諦観を持って返事をし、ホームルームは終了した。

 本橋君はセンセのあとを追うようにすぐ教室を出た。

 同時にクラス中の女子が教卓に取り残された転校生に殺到する。水を得た魚のように生き生きとした彼女たちの姿は、逆にクラス中の男子の反発心を生んだ。

 モテる奴は男も女も同姓の反発を受けやすい。その点に関しては同情してやってもいい。

「はぁ……、メンドクサ」

 特に転校生に興味のなかった私は女子に囲まれて見えないそいつから視線を逸らし、深いため息をついた。


「で? 私世話っつっても何すりゃいいのかわかんないんだけど?」

「俺に聞くなよ。しかも半ギレで。顔がやばいくらい怖いぞ?」

 その日の昼休み、私は不機嫌丸出しで本橋君にグチる。

 反対側の隣席には常に数人の女子がいるから、世話って私いらないんじゃね? とか思わんでもないのだが。

「うっさい。文句があるなら転校生に直接言って」

「今日来たばっかのヤツに責任押しつけるなよ。横暴だな、おい」

 ほっとけ。

「あの……」

 すると、突然うしろから控えめな声が聞こえてきた。

 首だけを回してそちらに回して視線をやると、女子の壁からこちらをのぞく転校生と目があった。

 表情は挨拶の時に見せた時と同じ笑顔。私はそれが妙に引っかかり、どうしようもなく気に食わなかった。

「何? 学校のことならその子たちに聞いたら?」

 朝の件も相まって、初対面の相手に対し、あまりにもぞんざいな扱いだったためか。転校生は笑顔をひきつらせていた。

 ただ、私の態度に先に食いついてきたのは周囲の取り巻き連中だった。

「ちょっと! 小野寺君に失礼でしょ! 謝りなさいよ!」

「そうよ、そうよ! 謝りなさいよ!」

 ……はぁ、面倒くさい。

「あのねぇ、なんで私が顔がいいだけの軟弱野郎に媚び売らなきゃいけないのよ。そいつのポイント稼いだところで、私になんかメリットある? むしろアンタたちにとっちゃ競争相手が減ってラッキーなんじゃないの? どうなのよ?」

 騒ぎまくっていた取り巻きは急激に勢いを落とす。

 ふん、私に噛みつくなら腕じゃなくて喉に行くつもりで来なさいっての。

「……あはははっ。君、植田さんだっけ? おもしろい人だね。いつもそんな感じなの?」

 ……おかしいな。さっきの発言のどこに、こいつに気に入られる要素があったのだろうか?

 小野寺、だっけ? こいつの人物像が早くも謎に包まれつつある。

「アンタにゃ関係ないでしょ」

「うん、そうだね。関係ないね」

 なんか腹立つ言い方で話を締めくくった転校生は、それきりその日に話しかけてはこなかった。

 転校生が大人の対応っぽい態度だったからか、負けた気がしたのは気のせいだと思うことにした。


~~・~~・~~・~~・~~


 あの日が私のターニングポイントだったのだろう。

 久方ぶりに中学校の机に腰掛け、当時使っていた席から教室全体を見渡す。

 夏休みで人が少ない校舎は閑散としており、部活に励む若人たちの声をBGMにして、青かった自分を回顧する。

 ……私もまだ若いのに、若人って。自分で言うのもなんだけど、私って若さがないな~。

 どうでもいいことに多少落ち込みながら席を離れ、教室を出た。


「失礼します。鍵返しにきました」

 借りた二年の教室の鍵を返却しに職員室に寄ると、最初訪れたときにはいなかった懐かしい顔があった。

「あれ? センセ?」

「ん? おお、植田! どうした、こんなとこに?」

 我が恩師で、結局三年間担任だったセンセがいたのだ。ついに卒業しても名前を覚えようとはしなかったので、どうしても名前が出てこない。これからもセンセで通そうと思う。

「お久しぶりです。お元気そうで何よりです。近くを通ったら、懐かしくなって覗かせてもらってました。今日はお仕事か何かですか?」

「まあな。しかし、随分と見違えたな。やっぱ都会にでると、どんなヤンチャでも化けるもんだな。眼福、眼福」

「ヤンチャで悪かったですね。自分ではそんなに変わったとは思ってないんですけど」

 センセと会話をするのは今の大学を合格した報告以来だから三年ぶりだ。

 センセは相変わらずのエビス顔で嬉しそうに私の相手をしてくれる。中学生時代と変わらない接し方が嬉しかった。

「じゃ、俺も仕事があるから。またな」

「はい。今日はセンセに会えて良かったです」

「俺もだ。また相談でもあればいつでも来い。話くらいは聞いてやるよ」

 回想から戻った直後に懐かしい顔に出会ったからだろうか。いつになく無駄話ばかりしてしまったけど、たまにはいいのかもしれない。

 鍵を返してセンセと別れ、下足箱で靴に履き替える。

 校門はグランドを横切った先にあるから、部活中の後輩を邪魔しないように端っこを歩いていく。

 ときおり私のほうに視線が来るけど、部外者ってことで目立っているんだろう。

 ふと、左から水しぶきが舞った。

「水泳部かな。頑張ってるね~」

 そちらに首を向けると、プールに飛び込む少年少女たちが、ひたすらにコースを往復している姿があった。

「そういえば、私とシュウが仲良くなり始めたのって、夏休みのちょっと前だっけ……」

 母校に来たためか、より鮮明に昔のことを思い出す。

 無邪気で、まだまだ子供だった過去の自分を。


~~・~~・~~・~~・~~


「今日は最後の水泳だし、一時間自由にしてていいぞ」

 体育教師のその一言で、クラスの連中から歓声が上がる。

 期末テストも終わった七月。テストの結果に一喜一憂したり、もうすぐ訪れる夏休みを気にしたりしながら日々を過ごしている。

 まだ七月だが、今年は例年に比べて暑い。まだ本格的な暑さではないのに、うだるような湿気と熱気がそこかしこで充満している。

 そんな空気を多少なりともごまかすことができるのだ。私もみんな程ではないが、内心で「よっしゃ!」と握り拳を作るくらいにはありがたい提案だった。

 軽い準備体操を終えると、すぐさまコースの仕切りを取り外しにかかる。ただし、男女でプールを二分割するため、中央は残したまま。一から四コースが男子の、五から八コースが女子のフリースペースとなった。

「ふぅ~、極楽、極楽」

 私は泳ぐでもなくプールサイドに頭をのっけて、お風呂のようにプールを使う。

 せっかく運動が免除されたのに、体を動かそうなんてバカバカしいにも程がある。まだこのあとにも授業は控えているのだし、体力を温存した方が利口と言うものだ。

「植田さんは泳がないの?」

 のんびりとした時間を過ごせると思っていた矢先、私のささやかな幸せを壊す輩がいた。

 小野寺だ。

「アンタこそ、結局体育は最後まで見学? 体力ないにも限度があるんじゃない?」

「仕方ないよ。もともと激しい運動はダメだって医者から言われてるんだし」

 興味もないが、小野寺の体力ゼロ宣言は病院からの厳命らしい。

 うちの学校は男女で体育の内容が違ってたからよく知らないけど、本橋君によるとコイツはずっと体育は見学していたそうな。

 病的なまでに白い肌は、それこそ何かの病から外にあまり出なかった結果なのだろう。

「あっそ。運が悪かったと思って諦めなさい。

 それより、アンタ男子なんだからこっち側に来るのおかしいでしょ。ほら、向こうに行った行った」

 まるで野良犬を追っ払うがごとく、小野寺を手の動きだけで牽制する。

「自由時間なんだから、僕がどこで見学してようと自由なんじゃない?」

 しかし、小野寺は飄々とした態度で私の近くにしゃがみこんで、執拗に話しかけてくる。

「アンタね、ちょっと周り見てみ?」

 周囲を見渡せば、いつの間にか私と小野寺に女子の視線が釘付けだ。またあの子が、とか、何であの子ばっかり、とかの陰口まで聞こえてきそうな、とても鬱陶しい嫉妬の目。

 あれから小野寺はやたらと私にちょっかいをかけてくるようになった。暇を見つければ私に近づいてきて、逆に私は面倒そうに追い返す。

 そんなやり取りが既に二ヶ月は続いている。

 コイツが私のとこに寄ってくる度に、陰湿な視線が多方向から射抜いてくる。気が弱い奴なら、とっくに胃に穴が開いていてもおかしくないストレスとプレッシャーを浴びせられ続けてきた。

 一度本気で目障りになった私は、マジギレしてクラス中の女子とストーカーになる一歩手前の男子に言いたいことをぶちまけてから早退したことがあった。

 あの時はいろいろ我慢の限界で、もの凄い暴言を吐きまくった覚えがある。

 反応は上々。

 しかし、状況は見ての通り改善はしていない。

 何故なら、早退直後に小野寺が私を追っかけてきたからだ。

 気が立っていた私はすぐさま小野寺を撒いて一人になっていたものの、他の連中にとってそんなことはどうでもよかったのだろう。

 小野寺と一緒に帰った。

 そういうポーズだけでも彼女らのタブーに触れたのは言うまでもない。

 結局、直接私に何か言ってくるような子はいなくなったが、陰で私を叩く行為は消えなかったのである。

「まあまあ、これも運命だと思ってさ。諦めなよ」

「原因であるアンタが何を言う。アンタが私に付きまとわなくなれば、万事が円満になるのに。気づいてないわけないでしょうが」

「まあね。迷惑をかけている自覚はあるけど、止めるつもりはないよ」

「自己中な奴はたとえ(つら)がよくてもモテないんじゃない?」

「それは困るなぁ。少なくとも、植田さんには好かれたいんだけど」

「言ってろ、すけこまし」

「あはは、怖い怖い。それじゃ、また怒鳴られる前に退散しようかな」

 困ったような笑みを残し、小野寺はようやく私から離れていった。

 同時にこちらに向けられた無言の圧力が弱まり、一つ大袈裟にため息をつく。

「……また、あそこで時間潰すか」

 誰に聞かせるでもない一言をボソッとを漏らし、私は雲一つない空を見上げた。


「よいしょ……っと」

 多少弾んだ息を整えてから荷物を下ろし、傍らに佇む大木の根に腰を下ろす。

 ここは町の外れにある、高さはあまりないが急な斜面を形成している、通称『三角山』の中腹だ。地元の小学生がよく学校行事でハイキングに訪れていて、当然私も経験済み。

 道中は歩きやすいようにならされているけど、かなりの急な傾斜のせいでここまで登るのに、足にかかる負担はかなり大きい。

 私がかつて小学校の行事で来たときも、実に九割の人がこの休憩地でバテてしまっていた記憶がある。ちなみに私は少数派だった。

 地元民も、存在は知っていても寄り付くことはほとんどない。

 なにせ私たちの町は人口のおよそ半分は高齢者だ。山登りを敢行する奴はそういない。学校からも割と距離があり、運動部も合宿を除けばトレーニングには使用しない。

 人から注目されることがあまりないこの場所。しかし、私がこの町で一番のお気に入りスポットでもある。

 私が気に入った理由は人のいない静かな空間であることがまず一つ。

 誰かと騒ぐより誰にも構われないで一人でボーッとしてる方が好きな私にとって、静かな空間はとても貴重だ。家じゃ母さんが「勉強しろ!」と騒がしいから、静かな時間なんて送れやしない。

 もう一つの理由は、今私がもたれている巨大な桜の木だ。

 私が初めてこの場所を訪れたのは二歳か三歳の春。

 昔は何本もの桜が連なる花見の名所として有名だった三角山。ちょうど桜が満開になった時期を見計らって、まだ生まれていない志穂を除いた家族みんなで花見に来たらしい。

 当然その時の記憶はあまりない。ただ唯一はっきりと覚えているのは一本の古い桜の木だった。

 力強い幹に支えられたピンク色の巨大な傘。

 華厳かつ威風堂々とした佇まいで歓迎してくれた長寿桜に、私はすぐに目を奪われた。

 あの時の衝撃は、恋をした、といっても過言ではない。

 長寿桜に魅了された私は飽きもせずに眺め続け、帰る頃には泣き叫んでその場に留まろうと抵抗したほどだ。

 そんな幼き日の思い出からか、私はことあるごとに古い桜の木(心の中では長寿桜と呼んでいる)に会いに行くようになった。

 他の桜は時間が経つとみな枯れてしまい、残ったのは長寿桜一本のみ。花見客も離れてしまう中、私だけは通い詰めた。

 嬉しいことがあった時、悲しいことがあった時、楽しいことがあった時や、泣きたくなるような辛いことがあった時。

 どんな些細なことでも、私のことを知って欲しくて、物言わぬ友達に報告するため何度も足を運ぶうちに、馴染みの場所になっていた。

「ごめんね、また来ちゃったよ。ちょっと学校で面倒な奴がいるって言ったじゃん? そいつがさ……」

 私は長寿桜に会うと近況を話して、体を幹に預けながら風の音と木々の匂いを楽しむ。

 時には笑顔で、時には感情的に、時には寂しそうに、時には爆笑しながら。

 誰にも見せてない百面相を披露して、一人、自分と長寿桜だけの時間を楽しんだ。

 私は背中合わせになっている年の離れた友人の前だと、年相応の女の子になれる。

 普段から近寄りづらい雰囲気をしているせいか女友達もいないし、気楽に話せる友達もいない。話をするだけなら本橋君がいるけど、アイツはなんかそういうものとは違う気がするし。

 気取らずに肩の力を一気に抜けるこの時間が私は大好きだ。

 ひとしきり話をし終えた私は、長寿桜に体を預けてしばし一人の時間を満喫する。

 時計も確かめずにただぼんやりとした時間を楽しんでいたところ、不意に誰かの足音が聞こえてきた。

「私以外にここまで来る人がいるなんて、珍しいな」

 ほとんど閑散としているとはいえ、年中無人であるわけではない。私が遊びに来たときに人が通ることもごく稀にある。

 ただ、その足音は半ば引きずるようにして近づいていた。何というか、今にも倒れそうな程弱々しくて不安定な足取りだった。

「まったく、体力ないならこんなとこ来なきゃいいのに……」

 あまりにも危なっかしい足音を聞きかねた私は、休憩所までの誘導くらいならしてやろうと立ち上がり、まだ見ぬ無謀な挑戦者に駆け寄った。

 程なくして人の姿を確認する。わずかに歩調を早め、ふらふらと歩く誰かに声をかけた。

「大丈夫? この山は見た目以上に登るのキツいから、あんまり無理しない方がいいよ」

「……は、……い。……あり、がとう、……って、……あれ……?」

 その声は私にとってあまり聞きたくない声であり、その顔は満身創痍であっても思わずひっぱたきたくなるような面だった。

「……アンタこんなとこで何してんの?」

 だが、相手の体調に合わせて実行はせず、驚きと疑念を込めて質問をするにとどまった。

「だって、植田さんが、こっちに、歩いていくのが、見えたから」

「……アンタねぇ、頭いいんだからもうちょっと後先考えて行動しなさいよ。ふつうの体育出られないような奴が登る山じゃないっての」

「うん、ごめん」

 好ましい相手ではないとはいえ、明らかに衰弱しきった小野寺をそのまま放置していくわけにもいかず、右手側から肩を貸して支えてやる。

「……え?」

「ほら、もう少しで休憩所だから。私も手伝ってあげるし、そこまで頑張りなさい」

 蒼白ながら驚愕のにじむ小野寺の表情に、私はすごく失礼な空気を感じ取った。

「何よ? 私が人助けするのがそんなに意外?」

「……少なくとも、僕には、手を貸すことなんて、ないだろうなって、思ってた」

「はぁ? アンタ私にケンカ売ってんの? 買ってあげようか?」

「そうじゃないけど……」

「あ~はいはい、分かったから。おしゃべりは良いから口より先に足動かしなさい」

 私がふっかけた話題だけど、小野寺の言葉を強引に打ち切って歩くことと呼吸を整えることに専念させる。

 私の意図に気づいてか、はたまた余裕がなくなったのか。無駄口を叩かなくなった小野寺を引きずり、さっきまで独占していた長寿桜にもたれかかるように促した。ベンチなんてモノがここにはなかったから、仕方なくの処置である。

 ある程度息が落ち着いてきたところで自分の鞄を漁り、ペットボトルを取り出して小野寺に渡す。

「ほら、水。慌てないでゆっくり飲みなさい」

「……間接キス?」

「一切口をつけてない新品。バカなこと気にしてないで飲んどきなさい」

 ボケをかますくらいは余裕が出たのに少しだけ安心しつつ、私も自分の指定位置に腰を落ち着け、浅いため息をついた。

「で? 私になんか用? 別にないとか言ったらデコピンね」

「急に植田さんに会いたくなって……」

「はい、ダウト」

 平気でアホなことを言う小野寺に、力を溜めに溜めたデコピンを食らわす。

「痛いっ! 何で!」

「どうせ教室を出たところからずっと、私のあとをつけてきたんでしょ? 違う?」

 三角山のハイキングコースは入り口が何カ所かある。中でも私と小野寺が通ったコースは一番キツく、入り口は山を挟んで町の反対側にある。

 小野寺はこちらに来て二ヶ月。まだこの辺の地理に疎いだろうから、いつも私が使うコースを知っていたとは考えづらい。

 私が三角山に登る時期や回数が完全にランダムであることと、小野寺がここまで登るまでにかかった時間も踏まえて、小野寺が私を尾行してきたのは明白だ。

「そ、そんなストーカーじみたこと、僕はしてな」

「じゃあ私に『急に会いたくなった』アンタが三角山(ここ)を登ってきたのは何故?

 それに、医者に制限をかけられるアンタが、体力を使うハイキング用の山を登るのに、何の用意も下調べもしないで来たっての? そんなことあり得ないでしょ」

 仮に今日私がハイキングするのを知っていて、かつ、小野寺自身いつか三角山を登ろうと考えていたとしても、コース別の難易度、距離、所要時間、自分が登ることが可能かどうかまで調べていなければ、実行に移さないだろう。

「……たっ、たまたま探したら見かけて、ついてきたんだよ。それと、僕だって体を動かしたくなる日くらいあるよ」

「すでに苦しい言い訳だけど、もう一つ。

 そんな息も絶え絶えで、歩くことすら困難になるまで体を酷使したくなる日ってあるの?

 後先考えずにした行動だってバレバレなんですけど?」

 小野寺は体育をずっと見学するほど体力がない。

 学校の位置から考えて、三角山は距離がかなり離れている。コイツにとっては麓まで来るのも一苦労だろう。

 加えて登山までするのだ。持病持ちであろうコイツが無茶をする理由としては、いささか説得力に欠ける。

「う……」

「今なら謝っても許すけど?」

「ごめん! ずっとあとを追うことに夢中になってました!」

 私の黄金の右手が煌めき、親指が蓄積した運動エネルギーを中指に乗せ、一気に解放する。

 ズビシィッ!

「痛いっ!」

「よし、許す」

 一発目と寸分違わず同じ箇所を狙い撃ちし、眉間に赤い痕を残した小野寺はしばらく声もなく悶絶する。

「許すって言ったじゃないか……」

「それはそれ、これはこれ」

 納得していなさそうに非難の目を向けてくる小野寺に、涼しい顔で応えてやる。ようやく仕返しができて気分がいい。

 ざまぁみろ。

「それはいいとして、結局アンタ何しに来たわけ?」

 健常者でも音を上げる山道。前述の通り、持病持ちのコイツにとっては相当キツい道のりだ。

 問題は、それを覚悟で何故私に着いてきたか、だ。

「どういう理由があったにせよ、自分の命を危険にさらすような真似は感心しない。事情を何も知らない私が指摘するのも筋違いだけど、アンタがやったことは『自殺行為』って言うんじゃない?」

 図星だったのか。小野寺は私から目を逸らし、気まずそうに黙ってしまった。

「自分の体でしょ? 自分だけは大事にしてあげなくちゃ。あとで自分だけじゃなく、アンタを想ってくれてる周りの大切な人も傷つけることになるんだからね。それだけは、ちゃんと忘れないようにしときなさい」

 他人に偉そうに言えるほど人生経験を積んだ訳じゃない。ただ、私の倫理観を示してあげただけだ。

 なのに、どうしてコイツは心底ビックリした様な顔でこっちを見てくる?

「……何? 私そんなに変なこと言った?」

「えっと、正直なところ、植田さんがそんな真っ当なことを言う人だとは思わなかったから、少し驚いた」

「つまり何か? 私はいつもアホなことしか考えていないイタい奴だと言いたいのか? いい度胸だモヤシ野郎」

 私は再び右手に力を込める。

「違うって! 曲解しすぎだよ! もうデコピンは勘弁!」

「じゃあどういう意味?」

 口元の笑みは消さず、目には冷ややかな鋭さを維持したまま小野寺に睨みをきかす。

「僕は植田さんは自由な人だって思ってたんだ。周りの人が何と言おうと、自分がやりたいことをして、言いたいことを言う、よく言えば意志の強い、悪く言えば我が儘で自己中な人なんだって。

 だから、一般論や綺麗事は嫌ってるんだろうなって思ってたから、それを口にするのは意外だった、って言いたかったんだよ」

 小野寺は自分の主張を丁寧に吟味し、自分自身も納得させながら言葉を紡いでいく。

 私も倣って自分の真面目な考えをさらけ出す。

「確かに、そういう意味でなら私はアンタの言う『自由な人』だ。

 でも、自由ってさ、ある程度の縛りの中で好き勝手するから生まれるものなんだと、私は考えてる。制限を理解して守った上で、自分を主張するのが自由なんだと思うよ。

 ……ただ、ちょっと思ったんだけど、悪く言えばワガママだとか、自己中だとかって、本人の前で言うこと?」

 ……うん、小野寺の言ったことって、ただの悪口だよね?

 ……シメるか。

「バカにしてるわけじゃないよ。むしろ、僕はそんな我が儘で自己中な植田さんを尊敬してる」

 尊敬? 私を?

「どういうこと?」

 私は思わず小野寺に顔を向けた。

「僕は初めて話した時から、植田さんの奔放さにすごく惹かれたんだ。

 小さい頃からずっと病気がちで、自由にできることなんて、他の人よりずっと狭い範囲しかなかった。父さんや母さんにも心配かけたくなかったから、父さんたちの言うことは何でも聞いてきた。

 だけど本当は、同世代の子たちと同じ様に運動したり、親に反発したり、自分の好きなように振る舞いたかった。

 そんな気持ちを思い出させてくれたのが、植田さんだったってわけ」

「いきなりそんなこと言われても、私は知らん。人違いじゃない?」

「僕は植田さんのおかげだって思ってる。僕がそう思うのは僕の我が儘だ。植田さんが幾ら否定しても、訂正はしないよ? だって、それは僕のできる数少ない自由なんだから」

 かげりのない、何もかもを吹っ切った笑顔で、小野寺は私に体一つ分近寄る。

 いつもなら私は小野寺が寄ってきたとき、シバいて距離を稼ぐか、自ら離れて二人の間に空間を作る。

 だが、小野寺が浮かべる笑顔にいつもの空々しさがなかったからか、私はついぞ身動きできないままだった。

「……? 植田さん?」

 小野寺も私の態度に不自然さを感じ取り、怪訝な表情を浮かべる。

「……何?」

「いや、普段なら僕が近づくと、ど突くなり、蹴飛ばすなりするのに……」

「アンタねぇ、私が他人に暴力を振るうのが日常な女だ、って思ってんの?」

「そうじゃないけど、何か調子狂うっていうか」

「それはこっちのセリフ。私はアンタの無理矢理ひっつけたような作り笑いが嫌いだったから、近寄らせたくなかっただけ。

 そんな子供みたいな爽やかな顔されたら、手を出しづらいじゃない」

「無理矢理笑ってた覚えはないよ。それに、子供っぽい爽やかさってどう考えても褒めてないよね?」

「お互い様でしょ?」

 以前の私たちでは信じられない距離感で、かすかに音を立てて二人とも笑う。

 他人を拒絶し反発して、周囲から浮いた印象の強い女の子(わたし)と、表面上は親しげに、されども深くは関わらせずに他人を寄せつけていなかった男の子(おのでら)

 正反対なようで深いところで似た者同士な二人。

 小野寺の一片を知った私は久しぶりに人前で笑えた。微笑と言えるわずかな笑みでも、人を遠ざけていた私からすれば大きな進歩だ。

 近くに佇む嫌悪しか浮かばない異物。さっきまでそんな認識でいたものを許容できる疑問。

 色々思うところはあるけれど、コイツの存在でちょっとだけ自分が成長したような、そんな気がした。


 追伸。

 その日、私は体力的に限界だった小野寺を背負って下山した。

 普通、逆じゃない? と思った私は間違っていただろうか?

 誰にも問うことができなかったので、ついぞ答えを知ることは叶わなかった。


〜〜・〜〜・〜〜・〜〜・〜〜


「ふぅ、ふぅ、もぉ〜! あっついなぁ!」

 私は今、当時使っていた三角山の一番厳しいコースを、一人登っていた。

 昔はしょっちゅう行ったり来たりだったのが信じられない。息も上がりっぱなしで、足に纏わりつく筋肉がひきつる感覚は当時の比ではない。

「運動不足、ね。これは。向こうに、帰ったら、ジムにでも、通おうかな?」

 机にかじりついて勉強一辺倒だったため、体力の減衰はいかんともしがたい。

 都会では感じることが少なかった衰えから、半ば以上真剣に体力作りについて考察する。別にアスリートになりたいわけじゃないけど、ある程度の身体機能は維持しておいた方が健康にもいいし。

「なんて、自分に言い聞かせつつ、やっと、到着〜!」

 うがぁ〜! と叫びたくなるのをこらえ、両腕を天に突き上げる。途中から猫背になった体を伸ばして、倦怠感をごまかそうとしたのだ。効果はない。

「しんど……。田舎っ子にあるまじき醜態ね。シュウのことはひとまずおいといて、いつか昔を取り戻そう……」

 老いには勝てないなぁ、などとため息をひとつ吐く。

 私って、まだ女子大生だよね? ときどき自分の実年齢を見失いそうになる。

 荒かった息をじっくり時間をかけて整わせ、正面を見据えれば深緑の葉っぱたちが私を出迎えてくれた。

「久しぶりだね。アナタはあの時から全然変わらないなぁ」

 悠然とそびえ立つ長寿桜に、数年ぶりの挨拶をした。自然とこぼれた私の笑みに応えるように、長寿桜の枝たちは風に揺れてカサカサと音を鳴らす。

「おかえり」と言われた気がして、気のせいだと思いつつも嬉しさと気恥ずかしさを覚える。

「あはは、ただいま。またいつもの場所、借りるね?」

 いつも無遠慮に腰かけていたが、あまり時間をあけてしまうと妙に遠慮がちになる。

 初めて長寿桜に断りの言葉を入れて、私の定位置だった根っこに腰を落ち着けた。

「あの日以来だね。あの時はシュウも本橋君もいたけど、あれからここに来たのって、多分私だけだろうなぁ」

 シュウは体力ないし、本橋君は私がいれば来たんだろうけど。好き好んで観光もクソもない山道を歩くバカはいないだろう。

「そうだ。少し長くなるけど、聞いてくれる? ここに来なくなってからのこと、全部は無理だけど話したいんだ」

 また、ヤンチャだったあの頃みたいに、ね。

 そうして、私は一人で語る。楽しかったこと、怒ったこと、悲しかったこと、くだらないこと。ネタは次々に溢れ出し、私は中々に饒舌だった。

 ただ、頭をよぎるのは長寿桜に近寄らなくなった、あの日のこと。

 私が変わったであろう、あの日。

 そこには私と、シュウと、本橋君がいて。

 今はすべてを壊した私だけ。

 背中の堅い感触を確かめながら、木の葉の隙間から注ぐ太陽の光を目を細めて見る。

 あの日は曇ってたっけ。そんなことを思いながら、思考を回顧に費やしていった。


〜〜・〜〜・〜〜・〜〜・〜〜


 無謀なモヤシっ子に説教してから、私とシュウは少しずつ打ち解けていった。

 未だに私は毒を吐くけど、以前より声音が柔らかくなった。自覚があるほどだし、態度の軟化は着実に進んでいる。

 それに、秋頃から呼び方が小野寺君からシュウに変わった。秀一のシュウ。名字よりは格段に呼びやすい。

 そのことで本橋君から熱心な抗議を受けたが、どうしてだろうか?

「アイツがシュウなら、俺はコウって呼んでくれよ」とのたまったが、正直意味が分からない。本橋君は本橋君でいい。愛称がないことに打ちひしがれた姿は笑いを誘うし。

 ただ、シュウと和解したのはいいことだろうが、周囲の女子からの嫉妬はやはり強くなった。

 私と仲良くしているシュウを見て、シュウを顔だけで判断していた女子は次第にあれこれ難癖付けることも減っていった。

 けど、熱心な信者もいてそれがまた厄介なことこの上ない。直接的な嫌がらせがないだけマシだと思うけど、常に寒気を伴う視線が照射されてはたまらない。しばらく同姓不審になりかけたくらいだ。

 と、まぁ問題も様々あったけど、そこそこの人付き合いが出来てきた私。

 そんなことを思っていた矢先だった。

 シュウが冬休みに引っ越し、転校することを知ったのは。


 私は三角山のいつものコースを歩いている。

 顔がかなり歪んでいるだろうが、人気のない冬の山に気を使うことなどない。雪があまり降らない地域であることは幸いと言える。流石の私でも、静かな場所だからと雪が積もる山道を歩く気はない。

 吐息が白く濁り、風に流されて消える。常ならず回数が多い吐息は私の疲労度を如実に表している。

 もうすぐ休憩所につくだろうけど、私の体力はかなり限界に近い。

 他の帰宅部や文化部の連中に比べれば鍛えられた方だと思っていたけど、やはり女の身には辛いようだ。

「大丈夫、カナちゃん? 僕、降りようか? というか、降りた方がいいよね?」

「だい、じょぶ、だから、シュウは、ちゃんと、つかまってて」

 私は心配そうな声をあげる背中の男子に、ようやく聞こえるくらいのか細い声で応える。

 以前シュウを背負って下山したことはあるが、登るときとは雲泥の差だ。下りは足に負担が強めにかかる程度だったけど、登りはその何倍もの負担が体全体を襲う。

 汗は滝のように流れ、山道に染みを残しながらも、男子としてはとても軽い重さをかみしめる。ずれ落ちそうになるシュウの体を持ち上げて、位置を調整しながら歩く。

 ここに第三者がいれば、とても奇妙な光景が拝めるだろう。学生鞄を背中に負った男の子を担ぐ、汗塗れの女の子。普通逆だろう、とは本人も気づいている。事情があるのだから仕方あるまい。

 ペースを落とすと余計しんどくなるのは承知していたので、歩調は緩めず進むこと数分。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

「だから止めた方がいいって言ったのに」

 長寿桜の根本でヘバっている私に、呆れ半分心配半分の呟きを漏らす。

「うっさい。私の、勝手なんだから、いちいち、文句、言うな」

 グロッキー状態でもあけすけな口調は変わらず。そちらの方がシュウも安心するだろう。

 私の意図を知ってか知らずか、シュウは一つため息を漏らしただけでお小言を収めてくれた。

「分かったよ。それで? わざわざ担いでまでここに僕を連れてきたのはどうして? といっても、聞くまでもないかな?」

「私が聞きたいのは、二つ。どうして、今更あっちに戻るのか? それと、引っ越しはシュウの病気が悪化したから親に連れていかれるのか、もしくはシュウの意志で決定したのか? これだけ」

 私が発言中も息を整えつつ、簡潔に聞きたいことを提示した。

 しかし、何故かシュウは困惑の色を顔に浮かべ、彼が想像していた質問とはまったくズレた問いを持ち出したのだろう私に、戸惑いを隠せないでいる。

「ええっと、そこは『どうして私に何の相談もなしに……』とか問いただすのが普通だと思うけど?」

「確かにシュウは私の友達だけど、そこまで互いを依存し合う関係でもないでしょ? 突き放した言い方をすれば、私たちは交流のある他人同士にすぎないわけじゃない。

 それも、まだ親の庇護から抜け出せない子供。確か、引っ越す名目はシュウのお父さんの仕事の都合、ってなってるんでしょ? 親の都合を持ちかけられれば、私たち子供に為す術はなし。聞くだけ無駄だから、手間を省いたの」

 私の、ともすれば冷め切った言葉に、シュウは若干顔をしかめる。『他人』というワードが気に入らないのか、後半は渋面を隠そうともしない。

 そんな彼に苦笑をこぼし、私は更なる爆弾の投下に踏み切った。

「もう二度と会えない可能性もあるし、聞いておこうと思ってね。自殺願望を持って転校してきただろうシュウに、どんな心境の変化があったのかな? って」

 私の発言を理解した途端、シュウはあからさまに狼狽し、仮面を驚愕のものに張り替えた。

「なっ、なんで、そんなことっ!」

「違った? 最初から人付き合いを諦めてた感じがしたし、長い間病院生活だったらしい肌とか見ると、延命を嫌がって逃げ出したんじゃないかな〜、とか思ってたんだけど? 療養目的なら、こんなとこよりも候補はいっぱいあるだろうし、何より本気で治ろうと思っているなら、夏の暴挙に説明がつかないし」

 すると、シュウは目に見えて分かるほどにうなだれ、小柄な体が余計に小さくなった気がした。

 夏の暴挙とは、オンブで下山した件を指す。

 今思い返しても、私が発見したときのシュウの顔色はただ事ではなかった。本当に死人と大差ない状態だったのだ。

 だというのに、シュウはそうなることが分かっていたように冷静だった。目前の死に怯えない人間は生きることを止めたものくらいだろう。あの時に、シュウもそういった人物であるとアタリをつけていた。

 さっきのシュウの反応から、あまりにも現実からかけ離れた考察ではなかったのだろう。

 だからこそ、私は不可解だった。

「一度生きることを放棄したシュウが、また治療に専念しようと決断した理由は? どういう心境の変化があったの? そうじゃないとしたら、この半年で病状が悪化してワガママが許されなくなったの?

 私はどうしようもないことをウダウダ聞くより、今回のことにシュウの意志が少しでも反映されているのかが知りたい」

 たとえ治療に戻っても、生きる、という気持ちがなければ無意味だ。

 病は気から。どれだけ優秀な医者がシュウを診ても、本人が諦めていては快方に向かうはずがない。

 中途半端は嫌いなのだ。

 今後どうなるかは分からない。

 でも、生きる気があるのかないのか、それだけはハッキリしてほしかった。

「……僕は」

「シュウは?」

「僕は、生きたい。まだ、死にたくない。ちょっと前、父さんたちに、そう言ったよ。

 そうしたら、こういうことになってた。僕としては、せめて三学期まではカナちゃんと居たかったんだけどね」

 なるほど。シュウのワガママ全開で帰ることになったのか。

 ここまで大人を引っ張り回すなんて、親泣かせな息子だな。私も、ある意味人のことは言えないが。

「病院に戻るのを決めたのは僕だよ。でも、ちょっと無理しすぎたみたいで、前より状態は悪くなってるみたいだから、遅かれ早かれ連れ戻される予定ではあったみたい」

「うぁ〜! それってもしかしなくても私のせいだよね?」

 確か、夏休みから結構な頻度でシュウを連れ回していた気が……。

 それ以前でも、夏の暴挙とか、間接的だけど色々心当たりがありすぎる。

「あぁ~……、うん、うちの親の心証はよくないね。それこそ耳にタコができるくらい『そんなムチャクチャな子とは関わらないように!』って言われた」

「やっぱり……。じゃあ見送りとか無理っぽいなぁ。シュウの親御さんに合わす顔がないし」

 自分の息子の病状を悪化させただろう原因が目の前にくれば、文句の一つも言いたくなるのが親心だ。聞く話だけでも、シュウのご両親は親バカっぽいし、私が顔を出せばどんな罵詈雑言が飛んでくるか、解ったものではない。モンスターペアレントの被害者は教師だけで十分だ。

「う〜ん、出来れば違う意味でも、見送りには来てほしいんだけどなぁ」

「ん? どういうこと?」

「父さんたちにカナちゃんを紹介したいんだ。僕に生きることの大切さと楽しさを教えてくれた人で、僕が初めて好きになった女の子だって」

 ……、はい?

「あ゛ぁ〜……、ゴメン。私の耳が幻聴を拾ってたみたい。もう一回言ってくれる?」

「カナちゃん、僕のお嫁さんになってください」

「そこでボケるな! まったく脈絡もない上、一言一句違うこと口走ってんじゃない!」

「僕の言ったことを一言一句覚えてたんなら聞き返さないでよ」

「うっ……」

 くそ、この半年で屁理屈だけは上達しおって!

「それに、僕が言ったことは嘘じゃないよ。カナちゃんのこと好きだし、父さんたちにちゃんと知っておいてほしいのもそうだし、お嫁さんにしたいって本気で思ってる。この気持ちに偽りはないよ」

 私を真摯に見つめてくるシュウの目にふざけた様子は微塵も感じられなかった。

 シュウは本当に私のことが好きなのだろう。

 告白の直後にプロポーズとは恐れ入ったが。

 私のような女のどこに惹かれる要素があったのか、小一時間では足らない尋問をしたいところだが、今私がシュウにすべきなのは詰問ではない。

 私の素直な気持ちをぶつけなければいけない。

「……そう、ありがとう。気持ちは嬉しいよ」

「……ってことは?」

「うん。付き合うことはできない。ゴメンね」

 たとえ、シュウにとって残酷な内容になろうとも。

「…………そっか。あ〜ぁ、フられちゃったな。初めて会った時よりは脈があると思ったんだけどなぁ」

 シュウは私の手前おどけて見せているが、声が若干震えている。やはり、少なからずショックを受けているのだろう。

 シュウの反応が大筋で分かっていて、それでも言葉を変えなかった私はヒドい女だろうか?

「理由とか、聞いてもいい? 僕も踏ん切りをつけたいからさ」

 彼はこちらに視線を向けず、私もシュウに目を向けず。

 視界には私たちの気持ちを代弁したように覆われた鉛色の空を収める。

 雨が降るかも知れない。漠然とそんなことを思いながら、迷いなく答えてやる。

「私、恋とかよく分からないんだ。シュウも、気が置けない親友だ、って言えるけど異性として意識したことは一度もない。私が男の子を好きになるってことを理解できないんだ。そういう意味では、私はまだまだ幼いんだと思う。

 だから、真剣に私を想ってくれたシュウに、半端な気持ちで応えたくない。そういうケジメがなってないのって、私大っ嫌いだから」

 ここでシュウに、いいよ、って答えるのは簡単だ。

 でも、私はシュウほど真剣に考えていただろうか? どこかいい加減な気持ちで、同情とか励ましの意味合いで口にしただけじゃないだろうか?

 あとでそんなことを考えそうで、自分のことが嫌になりそうだったのもある。

 それに何より、誠実な気持ちをぶつけてきたシュウに、あいまいな部分が多い不誠実な気持ちで応えるなんて私にはできなかったのだ。

 私の気持ちを打ち明けると、シュウの寂しそうな表情の中にどこか安心したような色が含まれていることに気がついた。

「……そっか、本橋君が好きだからとか言われたらどうしようかと思ったよ」

 は? 何故そこで本橋君?

「だって傍から見たら、付き合ってる様にしか見えないよ? カナちゃんと本橋君って」

 怪訝そうな私に補足を入れてくれたシュウ。

 まさか、周囲にそんな風に見られていたとは。今後、本橋君との付き合い方も考えた方がいいだろう。

 別に、本橋君のことは嫌いじゃないんだけど、恋人に思われるのは心外だ。

 何というか、イジりやすい弟みたいなもので、シュウとは違う意味でそういう対象に見れない。

 勘違いされたまま転校されてはたまらないので、私の胸の内を話した。

 すると、

「……だってさ。残念だったね、本橋君も」

 ……何ですと?

 私はシュウが声をかけた先、私たちが登ってきた道の出入り口付近に目をやった。

 そこには果たして、決まりが悪そうに頬をかきながら突っ立っている本橋君がいた。

「いっ、いいい、いつからそこにっ?」

 動揺が強いままどもりまくって本橋君に尋ねる。もしかしたら顔が真っ赤になっているかも知れない。こっ恥ぱずかしいことを結構口にしてしまっていたのではと、今更になって焦りだしたのだ。

「あ〜、最初から?」

「何で疑問系! つか、本橋君までストーカーかい!」

「なっ! 人聞きの悪いこと言うなよ! 俺は小野寺に持ちかけられただけだぞ! 植田の気持ちが知りたくないか、って、……あ」

 やばっ! という吹き出しが似合いそうな顔で気まずい視線をシュウに送る本橋君(バカ)

 当然私は厳しい眼光を隣のシュウに向ける。

「さて、説明してもらいましょうか?」

「オーケー、カナちゃん、順を追って話すよ。だからその堅く握りしめた拳をしまおうか。物騒だろ?」

「問答無用!」

 つい数分前の告白シーンは何だったのか。張りつめていたムードが私の振るうゲンコツとともに砕け散ったのを感じた。

 余談ではあるが、飛んだ拳は二度。主犯がどちらであれ、辱められた私の気を紛らわすためには両者の生け贄は不可欠だ。狙いは脳天。二人とも思いっきり痛がってた。いい気味だ。

 灰色の雲に覆われていた空から、一筋の光が降り注ぐ。全体的に暗かった町の一部を明るく照らす。表に出せなかった寂しさが彼らのおかげで紛れた。

 これで引き留めそうになることなく、親友を送り出せそうだ。そう思いながら、男子二人に泣きが入るまで説教を続けるのだった。


〜〜・〜〜・〜〜・〜〜・〜〜


 ひとしきりの報告も終わり、私は長寿桜に別れを告げた。そろそろ夕方になろうか、という時間帯。中々に話し込んでいたみたいだ。

「あれが、三人で笑えた最後の時間だったかなぁ」

 拳を(一方的に)交えた後もたくさん話をした。

 シュウも本橋君も私も、青臭く夢について語ったり、それを冷やかして怒られたり笑ったり。しばらく会えなくなることを見越して、会話を楽しむだけ楽しんだ。

 結局、私はシュウの見送りには行かなかった。

 体調が悪いのにわざわざ三角山まで呼び出してしまい、次の日風邪を引いたらしい。

 私には来てほしいと言ってくれたけど、会わす顔なんてありゃしない。

 それから本橋君とも妙に疎遠になり、一人でいることが多くなった。

 あまり表には出さなかったけど、私も小さくない喪失感を持っていた。知らず知らずの内に、私の中でシュウの存在が大きくなっていたのを知ったのが、彼がこの地を去ったあとだというのは何という皮肉だろうか。

 シュウへの気持ちをハッキリと自覚したとき、これが恋なんだと実感した。

 我ながら、なんて不器用な女なんだと自嘲する。

 大切なものは失って初めてその大きさに気づく、とはよく言ったものだ。

「そうだ。折角だし、シュウに会いに行くかな。ちょっと遅い時間だけど、迷惑にはならないでしょうし」

 シュウは数年前にこの地に帰ってきたのだ。顔をあわせづらくて今まで延期していたけど、ちょうどいいし会っていこう。

 明日は筋肉痛かな〜、なんて呑気なことを考えながら三角山を下りていった。


「やっ! シュウ、久し振りだね」

 私は柄にもなく抱いた緊張を隠して、以前のように彼に声をかけた。

「挨拶が遅れてゴメンね? こっちに帰ってきたのは知ってたんだけど、気まずくって。

 あ、これお土産ね。口に合うか分かんないけど、あとで食べてね」

 右手にぶら下げたビニール袋をプラプラ揺らす。中身はつぶあんの饅頭と、花。シュウの好みは知らないけど、少なくとも病院食よりは好まれるはずだ。

「大体六年ぶりくらいになるよね? 意外に長かったな〜」

 左手には水の入った桶。それを脇に置いて、随分と姿の変わった親友に笑いかけた。

「私は元気だよ。シュウも、向こうで元気でやってる?」

 私は『小野寺秀一』の名が記された墓石に手を当て、人生を全うした彼と対峙する。覚悟はしていたけど、うまく笑えているかどうか、あまり自信がなかった。

 シュウが物言わぬ姿で帰ってきたのは、私が高校三年の時。懸命な治療と闘病生活も虚しく、彼はその命を散らした。

 その報せを届けてくれたのはシュウの両親だった。シュウが亡くなる数日前に遺言のような形で幾つか頼まれたらしい。その中に、私への連絡と私の地元に骨を埋めることも言っていたそうだ。

 やはり、シュウの両親は私に良い感情を持ってはくれなかった。電話でのやり取りだけだったけど、言外に『アナタが余計なことをしなければ、秀一はもっと長生きできたかもしれない』と含ませてきたことからも分かる。

 死因は知らされていない。私には知る権利さえもないと判断されたようだ。

 流石にお墓の場所はなんとか聞き出したけど、シュウの死を情報だけでなく現実として受け入れてしまうのがなんだか怖くて、ずっと訪れることは躊躇していた。

 それにもう一つ、私にはシュウのお墓に寄りたくない理由があった。

「私ね、今大学の医学部にいるんだ。あの日、シュウが言ったこと覚えてる? 『僕の夢は医者になって、僕みたいな人たちの支えになりたい』って言ってたよね? その時、私は『じゃあ、シュウだけに任せるのは不安だから、私も手伝ってあげるから、感謝しなさい』とかって、偉そうに言ったよね?」

 三人で太陽が傾くまで語り合った最後の日。大人になったら何がしたいか、という話題がでたときのセリフだ。

 男子二人は迷いなく、かつ力強く言い切ったけど、当時の私には夢なんてなかった。だから、茶化して誤魔化すようにシュウに乗っかったのだ。

 しばらくは本気で医者になるつもりはなかったけど、シュウの死をキッカケに真面目に取り組むようになった。弔いではないが、彼の叶えられなかった夢を、宣言通り私が引き継ごうと決心したのだ。

 それから私はある意味、私ではなくなった。

 面倒臭いと投げやりだった勉学に励んだ。遊びの時間だけでなく、人と関わる時間さえ惜しんで、まさにとりつかれたかのように机にかじり付いた。

 私のあまりの変わり様に家族も大いに心配した。でも、当時の私に構う余裕がなく、自分の思いを打ち明けぬまま家族に不安をかけ続けた。

 おかげで東京の一流と呼ばれる大学に進学できたが、趣味が勉強、交友関係がほぼ皆無という残念な人間になってしまった。

 こんな私を見たら、シュウはどう思うだろうか? すでに物言わぬ姿になったとはいえ、シュウの意志を継いだつもりでいる私を、シュウの思いを優先にしてワガママで自己中でなくなった私を見せたくなかった。

 あまりにシュウの理想からかけ離れた私。

 おそらくシュウが生きていたら、今の私に幻滅するだろう。それが更に私の足をシュウから遠ざけていた要因だ。

「そしたら、何か色々変わっちゃったみたい。いつの間にか、シュウが好きだった私はいなくなってた。シュウの告白を断っちゃったことといい、今といい。おかしいね。空回りしてばっかだ、私」

 自分の思いを口にしていく内に、自然と視界がぼやけてきた。三年間ごまかし続けてきた現実を受け入れはじめて、徐々にたくさんの気持ちがこみ上げてくる。

「私もね、シュウが居なくなってから気づいたんだけど、シュウのこと好きだったよ。

 あの時気づいてなかった、自分の気持ち、伝えた、から……、今日だけは……、弱音を吐いても、いい、よね?」

 私の親友で、初恋だった人。失いたくなかった人。私に無くしかけた笑顔をくれた人。

 その彼は、もう、いない。

「うっ、ううううぅぅ……」

 もう私も成人した。いつまでも子供のように、都合の悪いことから逃げてはいけない。シュウとの思い出を過去のものにしなければいけない。

「ふうっ、ぐずっ、うぅ」

 三年前にシュウの死を知らされた時は泣かなかった。泣いてしまえば、シュウがいないことを納得してしまいそうだった。だから、私は声を殺して悼んだ。

 私はしばらくここから動けそうになかった。足にうまく力が入らないし、視界も滲んでしまってメチャクチャだ。何より涙で真っ赤になり、グズグズになった顔を誰かに見られたくない。

 誰もいない墓場で、私は自分に残る聞き分けの無い幼さを洗い流すために、ひとしきり泣いた。

 この涙が止まったとき、私の停滞していた時間は進み出すのだろう。

 だけど、今だけは次々と溢れ出す感情に身を任せていたかった。

 だって、シュウは思うがままに生きる自由な私を好きだと言ってくれたのだから。


 どれくらいそうしていただろうか? 気がつけば辺りに夕日が差し始めていた。

 もう泣くだけ泣いた。気持ちはすごく晴れやかで、サッパリしている。

 うん。案外大丈夫そうだ。

 柄にもなくシュウのことを引きずるかもと思っていたけど、感情を吐露したことで心もキチンと整理できたらしい。

 涙の跡を右腕で拭い去り、シュウの墓を世話することにした。墓石を水で洗い流して汚れを拭き取り、お土産の饅頭と花を添えて、線香を焚く。

 そして、両手をあわせて目を閉じ、シュウの冥福を時間をかけて祈った。

(こんな私を好きだと言ってくれて、ありがとう。じゃあね)

 心の中でシュウに感謝を告げて、ゆっくりと瞼をあげる。

 ようやく私は彼とのわだかまりに決別できたのだと思うと、寂しいような嬉しいような、何だかよく分からない感情を持て余している。が、これで前に進めるのだ、と考えれば後悔はない。

「……ん?」

 さて、そろそろ母さんのご飯を食べようかと腰を浮かしたとき。入り口の方から訝しげな低い声が聞こえてきた。

「あの、失礼ですが、ソイツのお知り合いの方ですか?」

 ソイツ、とはシュウのことだろうか? まあ、件の男性を除けば私以外に誰もいない。その私はシュウの墓の前にいる。間違いはなさそうだ。

「はい。彼の昔の知り合いで、こちらにお骨があると聞いていたものですから、お参りに。

 貴方は彼とはどういうご関係ですか? 差し支えなければ教えてください」

 涙で顔が腫れぼったくなってないか、何より化粧が崩れていないかを気にしつつ、とりあえず無難に答えておいて、私の視線を受けとめた男性を観察する。

 かなり大柄な人だ。シャツに短パンとまるで陸上選手のような出で立ちをしていて、アスリートだと言われれば信じてしまいそうなくらい筋肉質な体をしている。何をしたらここまでムキムキになるのだろうか? 服の下から筋肉の影が浮き出ている。

 襲われたらひとたまりもないな、などと他人事のような思考を巡らせていると、岩のような仏頂面が緩んで愛嬌のある笑顔で口を開いた。

「ああ! そうだったんですか! ソイツは中学の時に都会から来たヤツなんですが、愛想が良くても友達が少なかったから変だなとは思ったんです。向こうのご友人だったんですね。

 俺はソイツと仲が良くてね。度々参りに来てるんですよ。お盆は毎年来てますよ」

 ほう。私の他にもシュウを気にかけるほどの友達が居たのか。男子の繋がりにはあまり明るくないから、私が気づかなくても不思議ではない。

 おそらく同級生だろう男性と軽く挨拶を交わし、彼がシュウのお墓参りを終えるまでうしろで待っていた。

 シュウの友達というヤツは稀少だ。少し話をしてみたくなったのだ。

 黙祷を終えて、まだ私が居ることに若干驚いていた男性に、微笑みながら話しかけた。

「すみません。よろしければ秀一君の話を聞かせていただけませんか?

 彼、向こうでもあまり知り合いが居なかったみたいで、貴方とどういった関係だったのか、興味があるんです」

 男性は私が、シュウが引っ越してくる前か後の、東京での知り合いだと勘違いしてるようだった。

 なら、その設定を使わせてもらった方が、切り出し方として不自然な流れにはなるまい。そう考えて私のことをあえてぼやかして尋ねた。

「っ……。は、はい。いいですよ。とは言っても、付き合いは一年もなかったんですが?」

「ふふっ、構いませんよ」

 何故か口ごもったり視線を泳がせている男性に思わず笑みをこぼし、私は先を促した。

 男性の顔が赤いのは夕日のせいだけじゃないのかもしれない。見た目と違って案外純朴な青年なのだろう。

 ……どうしよう。からかいがいがありすぎる。多分初対面なのに、早速意地悪したくなってきた。

「で、では……」

 一つ咳払いをしたあと、男性は彼との思い出話をしてくれた。

 第一印象はひ弱なヤツだと感じたらしい。無理もない。女の私から見ても細身だと感じたし、モヤシと幾度呼んだことか。

 初めは親しくなれそうもないと思っていたようだが、話をしていく内に互いに通じる共通点があったようで、そこから意気投合。お互いを友人として、そしてライバルとして認め合ったのだという。

「友人、は分からなくもないですけど……」

 シュウがライバル。

 ライバルとはお互いにとって平等な条件下で、かつ実力が拮抗した状態で競い合う相手を言う。

 シュウは頭がダントツで良かったから、勉強方面か? と考えたがすぐに却下した。失礼だとは思うけど、目の前の男性にシュウと競えるだけの学力があったとは到底思えない。

 かと言って、スポーツ方面は論外だ。シュウは運動をかなり制限されていた。前提として、競うことができない。

 じゃあ、何に対してのライバル?

「あの、ライバルとは、どういったことでそう思われたのですか?」

 男性の話に茶々を入れながら聞いていた私が、純粋に疑問を投げかける。

 すると、予想だにしない答えが返ってきた。

「お恥ずかしながら、実は俺、彼が好きだった子と同じ子に恋心を抱いていまして、いわゆる恋敵ってヤツでした。

 小野寺がその子を好きなんだろうな、ってのは態度を見ればバレバレでしたし、転入してから一ヶ月もしない内に話してみたら、その通りでしたよ。一目惚れに近かったそうです。

 それからライバルとして、親友として、小野寺とは親交を深めていきました」

「……へ?」

 この人が、シュウの恋敵?

 ってことは、この人も私が好きだったってこと?

 ……イヤイヤ! それはない! 私は男子から受けが良かったわけでもないし、そもそも知り合いすらほとんど居なかったのだ。

 多分私とは別の人だ。

 そうに違いない。

 ……そうであって欲しい。

「えっと、ちなみに、秀一君と貴方が好きだったという女性の方のお名前とかお伺いしてもよろしいですか?」

「あはは、やはり女性は恋バナには敏感なんですね」

 確かに恋愛話は人並みに好きだけど、今は違う意味で関心が高いんです、とは言えず。

「彼女の名前は植田香奈。男の子みたいに粗野で乱暴な口調と性格でしたが、俺らの学年で一番人気があった女子でした。何せ、そんなことが些細に思えるくらいかわいい女の子だったんですよ。

 本人は恋愛方面に疎いみたいで、そういう視線にはまったく気づいていませんでしたが、同級生の間ではアイドルっぽい存在で、男子の憧れの的でしたね」

 彼の話を聞いた直後に絶叫をあげなかった私を誰か褒めて欲しい。

 私ってそんな風に見られてたの!

 ダメだ! 思った以上に恥ずかしすぎる!

「あぁ、そういえば俺まだ名乗ってませんでしたね。

 俺は本橋幸太って言います。今は親父のところで修行している大工の見習いやってます。

 どうぞよろしく」

 えっと、その名前メチャクチャ聞き覚えあるんですけど?

 ……ああもう! ちょっと待って!

 今情報の整理で一杯一杯なんです! もうこれ以上混乱させること言わないで!

「……あの? どうかしましたか? 先程からどうも顔色があまり良くないみたいですが?」

「え、ええ、大丈夫です。……多分」

 もう少し時間をくれたら、過去の衝撃事実とも折り合いがとれそうだと思う。

 まさか、コイツ私の正体を知ってて追いつめてるんじゃないでしょうね? 昔の腹いせか何か? 本橋君のクセに、アジな真似するようになったじゃない!

 自分から話を振って自爆しただけであることも忘れ、私は心配そうにしてくれている男性、もとい本橋君に一矢報いる方法を模索する。

 やられっぱなしは性に合わない。やられたらやり返す。それがハンムラビも認めた私ルールだ!

 そして瞬時に相手に確実なダメージを与える言葉を思いついた。

 しかし、一番効きそうな方法が若干諸刃の剣感がする。

 ハイリスクハイリターンではあるが、迷いは一瞬だ。

 肉を切らせて骨を断つ。私に守りは似合わないぜ!

「本橋さん、でしたね。ご丁寧にありがとうございます。

 私は東京の大学で医大生をしております、植田香奈と申します。

 よろしくお願いしますそれと久し振りに再会して早速告白何かしないでよコンチクショウ!」

「……………………え?」

 ダメだ。予定では最後までポーカーフェイスを維持して、努めて冷静に自己紹介をするはずだったのに。羞恥心に負けてしまった。

 だが、私の思惑はうまくいったようだ。私の名前を聞くなり、コイツは完全に顔を紅潮させて狼狽しまくっていた。

「はっ? へっ? ウソ? 植田? なっ、何でお前ここに、っつか気づいてたんならさっさと言えよ!」

 さっきまでの紳士ぶりは一体ドコの銀河まで飛ばされてしまったのだろうか? 遠慮会釈もないタメ口にさっさと切り替えた本橋君は理不尽な逆ギレで返してきた。

「何でそっちがキレてんのよ! 私だってさっき名前聞いて分かったとこだし、辱めを受けた被害者はこっちだっつうの! 六年ぶりに会ったと思ったら聞く必要もなかったことまでベラベラと! 私に喧嘩売ってんでしょ! そうでしょ!」

 そっちがそう来るのなら、私だってもう猫はかぶらない。自然と昔のような口調に戻っていたのは本橋君が相手だからだろうか?

「先に嘘ついてたのは植田だろ! 東京の知り合いだっつって俺をはめやがって!」

「私はひとっことも東京出身だとは言ってないし、あっちにシュウの知り合いがほとんど居なかったのは事実よ! 本橋君が勝手に勘違いしてただけでしょ!」

「勘違いさせるような言い方をしたお前も悪いだろ! 全部俺のせいにすんなよな!」

「それは本橋君がからかいやすそうな態度だったからでしょ! ちょっとお淑やかにしてただけで狼狽えちゃって、純情気取るからよ! 彼女が居なかったわけでもないんでしょ!」

「はぁ! なに勝手なこと言ってんだ! こっちはなぁ、お前がいつまで経っても忘れらんねぇから、他の女の子に告白されてもずっと断ってきたせいで、未だに彼女もいたことねぇし、この歳でまだ童貞だよ!

 お前こそ、向こうで彼氏とか作って遊んでんだろ! 小野寺のことなんかとっくにどうでもよくなったからずっと墓参りにも来なかったんだよなぁ! そうなんだろ!」

「ハァ? アンタこそ、さっきから黙って聞いてりゃ言いたい放題言ってくれるじゃない!

 私だって、シュウが引っ越してからシュウが好きだったのに気づいて、なのにシュウは先に逝っちゃうし、いつの間にかシュウの夢を代わりに叶えようとしてたり、シュウが死んだことを認めたくなくて今までウジウジ悩んでたり、色々面倒臭いことになってて、とてもじゃないけど男なんて作ってる余裕なんてなかったわよ! だから私もまだ処女だし、彼氏が居たことだって生まれてから一度もないわよ!

 それに、アンタはまだいいじゃない! 上京しただけの私の裸を妄想しながらオナってればいいんだから! 死んじゃった人を想うのがどんだけ辛いのか分かる? 忘れたくても忘れられない苦しさが分かんの? どんだけ慰めても虚しさしかこみ上げてこなかったわよ!

 それにまだ中学の時の恋愛引きずるなんて、どんだけ女々しいのよ! 男だったら違う女のケツでも追っかけて忘れなさいよね!」

「小野寺のことをいつまでも引きずってるお前に言われたかねぇよ! 俺の初恋だぞ! その上勝負する前に疎遠になっちまったヤツを、そう簡単に忘れられるわけねぇだろうが!

 おかげでお前をオカズにしなきゃ起たねぇ息子になっちまったし、お前の中学時代の写真持ち歩いてんの見られて、一時期両親からロリコン扱いも受けたんだぞ! 俺だって違う意味で精神的に追いつめられてたんだよ!」

「私は女だから女々しくてもいいのよ!

 ってか、さっきから言い訳ばっかで男らしさの欠片もないわね! がたいがデカけりゃいいってモンじゃないのよ、この童貞ストーカー!」

「うるせぇよ! この性悪毒舌女!」

「黙れ! この陰湿ナメクジ野郎!」

 それからも売り言葉に買い言葉で、そりゃもう言いたいことを言いまくった。

 もちろん、自分たちがどんだけ恥ずかしいことを口走っているかなんて気づきもしない。

 後日、本橋君に言っちゃったことを思い出し、一人で悶えまくったのは言うまでもない。

 でも、そこにいたのは真面目さなんて微塵もない、かつての私。

 他人とは違うと大人ぶって、そのくせ誰よりも子どもだった、私自身忘れかけていた「私」がいた。

「はぁ、はぁ、はぁ。オーケー、本橋君、いったん落ち着こうか。私たちは今どう考えても冷静じゃない。お互いにクールダウンしようじゃない」

「はぁ、はぁ、はぁ。同感だ。いつまでも罵り合うだけじゃ不毛だしな。ここの近くに公園があるだろ? そこで仕切り直そう」

 羞恥心と勢いで繰り広げられた舌戦は、両者の精神力を大きく削ることで、とりあえずの終結を見せた。

 これ以上続けていたら私の中の何かが崩壊しそうだった。主に、女性としての尊厳とかが。

 私たちは肩で息をしながらしばらく呼吸を整え、大きく息を吐きだしてから歩き始めた。

 本橋君が指定してきた公園までの道は無言。再開して早々あれだけの口ゲンカをかました相手に気安く話しかけるほど、私は図太い精神はしていない。気まずげな雰囲気が流れる。

 公園に着き、ベンチに座ってからも私も本橋君もどのように切り出していいかわからず、視線を向けたりそらしたり、口を開けたり閉じたりをしていた。

「……とりあえず、久しぶりだね。中学校の卒業式以来だから、六年ぶりくらいかな?」

 ええい、女は度胸! とばかりに意を決した私は無難な挨拶をしてみた。

 覚悟を決めた割に出てきた言葉が保守的だったのは勘弁してほしい。

 これでもいっぱいいっぱいなんだぞぅ!

「本当だな。っていっても、中三に上がってからほとんど話とかもしなくなったから、実質こうやって話するのって七年ぶりじゃねぇか?」

「そうかもね。あのときはガラにもなくいろいろ考えこんでたから、本橋君の相手してる余裕なかったのよね」

「おい、なんだそのあからさまに相手してあげてたみたいな言い草は?」

「あれぇ~? 違ってた? てっきり本橋君が私に構ってほしいのかな~、って考えてたんだけど?」

「うぐ、相変わらず植田の舌は痛いところをえぐってくるな」

 あはは、と本橋君の切実な冗談に笑いながら、私は案外普通に話せていることにちょっとだけ安心する。

 こんなに気安い会話は本当に久しぶりだ。

 別にここ六、七年の他人との対話が苦しかったわけじゃなかったけど、逆に楽しいとも思えなかった。

 でも、本橋君とのおしゃべりは自然と心が弾む。ずれていた歯車がぴったりかみ合ったような、しっくりくるという感覚を覚える。

 あまり意識してなかったから気付かなかったけど、本橋君と疎遠になって少し寂しかったのかもしれない。

 シュウが来る前から根気良く友達でいてくれたのが彼だけだったし、心の奥底では友達以上の感情は持っていた、と思われる。自分の気持ちに鈍感なのは自他ともに認めているから、客観的な言い方しかできないのが、どこかもどかしいけど。

「でも、意外だな。本橋君が私のことを今でも好きだってこともそうだけど、当時の私ってそんなに男子から人気があったの?」

「そりゃあ、な。いっつも不機嫌な面して周りを威嚇してたから誰も近寄れなかったみたいだけど、植田を好きになったヤツ結構いたぞ? 一年の時は誰が植田を笑わせられるか、なんてバカなことを男子全員でやったこともあったしな。覚えてないか?」

 問われて、思い当たる節を探してみる。

 う~ん、そういえば入学してからしばらく男子生徒が私に群がってきた時期があったっけ? 新手の嫌がらせかと思って私は無視したか、しつこい男子には言葉のカミソリの餌食にしてやったと記憶している。

「結局、小野寺が来るまで植田の鉄面皮は動かなかったわけだが。今さら言うのもなんだけど、予想通り、すっげぇかわいかったぞ」

「本当に今さらだね。それに、今はかわいくないみたいな言い方しないでよ。ちょっと自信なくすでしょ?」

 確かにかわいいなんて言われるような年でもないけど、昔はよかった、的な表現は傷つく。

 シュウの事に踏ん切りがついた今、私も志穂を見習って新しい恋を見つけようかな、って思ってたとこだし。

 ま、女としての魅力なんて私が持ってるはずもないか。

「どっちかってぇと、今の植田は、その、キレイというか、エロいというか……」

「本橋君、実は私の事ほのかにバカにしてない?」

 キレイは素直にうれしい。

 でも、エロいって……。からかわれているようにしか聞こえない。

「ちげぇよ! その、さっき植田が笑ったとき、余りにもキレイで艶かしくて。一瞬マジで理性が飛んで押し倒しそうになったから、そう思ったんだよ」

 艶かしいって……。そんな言葉使うヤツ初めて見たかもしんない。

 混乱しているだろう本橋君のセリフに呆れつつ、苦笑を浮かべる。

「とりあえず、褒め言葉として受け取っておこうかな。何を褒められたのかはよくわからないんだけど」

 よくわからないけどまた表情が固まってしまった本橋君から視線を外し、ベンチから立ち上がった。

 そこまで話し込んだ訳ではないけど、そろそろ太陽が沈みつつある。夏場なのでまだ明るいけど、あまりに帰りが遅いと晩ご飯を食いっぱぐれる。

 うちの母さんはやると言ったらやる人だ。容赦も慈悲もない。せっかく実家に帰ったのにご飯をコンビニで済ますなんて悲しすぎるだろう。

「んじゃあ、そろそろ私も行くね。うちは時間とか意外に厳しいから、あまり遅いとご飯なくなっちゃうんだよね」

「あっ、ちょっと待ってくれ」

 すでに駆け足気味だった私の足が止まる。

 若干焦り気味だった本橋君に首をひねりつつ、振り返った。

「何? あんま時間取れないけど? 私のご飯のために」

「あっと、だな、その……」

 煮え切らない言葉にだんだんイライラしてくる。

 ただでさえ時間が押しているのだ。要件があるならさっさとして欲しい。

「何よ? 男だったらはっきりしなさい。私のご飯が遠のくでしょうが」

「お前さ、さっきからメシ、メシって、食い気しかねぇのかよ?」

「貧乏学生をなめんじゃないわよ。ただのご飯がどれだけありがた~いものか。お金の余裕があるからそんなセリフが吐けるのよ」

「……ああ、そう。分かったよ……」

 諦めたような顔で肩を落とす本橋君に足を飛ばさなかったことを誰か褒めて欲しい。お金が無くて一週間以上水だけで過ごしたこともある私にとって、食事を軽視する発言は鬼門といっていい。

 本当ならわからず屋の頭にかかと落としを決めて、そのまま正座の説教コースに行くところなのだが、そんなことで時間を浪費したくない。晩ご飯に救われたな、愚か者め。

「じゃあ訊くけど、植田って、今、彼氏とか、他に好きなヤツとか、いんのか?」

「本橋君、私の話聞いてた? 今まで彼氏もいたことないし、好きになった男の子もシュウ以外いないって。今更なんの確認よ?」

「じゃあ! じゃあ、さ……」

 いきなり意味不明な話題を振られ、またイジイジし出した本橋君にイラつきつつ、何となく内容を予想できる話とやらの続きを待つ。

「俺、植田のことがまだ好きだって、言ったよな」

「うん、聞いたよ。だから?」

「だから、ってわけじゃねぇけど、改めて言っときたくてな。

 俺、本橋幸太は植田香奈のことが好きだ。友人の一人としてではなく、一人の異性として愛している。

 出来ることなら、俺と付き合ってくれないか?」

 やっぱり、ね。そんなことだろうと思ったわ。

 予想通りだからか、すごく冷静に聞けたなぁ。うっわ、全然現実味ないわ。

 っと、あまり茶化しちゃ本橋君に悪いかも。無効は真剣そのものなんだし、こっちも真剣に答えてあげないとあまりに不憫だ。

 本橋君と付き合う。

 ……うん、なんか全くイメージできない。

 ずっと気の置けない友達みたいな感覚だったし、よくていじめがいのある弟? みたいな男の子だったからなぁ。いきなりそんなこと言われても、いまいちピンとこない。

 でも、不思議と嫌じゃないんだよねぇ。

 そりゃあ本橋君のこと嫌いじゃないし、むしろ好きな部類かも。

 かといって、半端な気持ちのまま本橋君と付き合うのも、正直気が引ける。思わせぶりな態度をとるだけとってさようなら、なんて思いをさせたくないし、私自身そんな不誠実なことをしたくない。

 どうしたものか、と考えていると、とある提案が頭をかすめた。

 それは惰性で付き合うのと同じくらい不誠実だけど、なぜかそうしたほうがいい気がした。

「……うん、分かった。とりあえず、ありがとう。好きっていってくれて、本当は結構嬉しかったりするのよね」

「ってことは?」

「付き合っちゃおうか? 私でよければ、だけど」

「ほ、本当かっ!」

「ただし、ちょっと条件をつけさせてくれない?」

 その気はなかったけど、一瞬持ち上げといて落としてしまった時の本橋君の顔が面白かった、とだけ言っておこう。満面の笑みからメチャメチャ苦い顔って、感情としては対極だけど表情の変化は一瞬なんだね。

「条件? 植田のことだから、また無理難題押し付けてくるんじゃねぇだろうな?」

「失礼な。私をなんだと思ってるのよ?」

「天使の顔した、悪魔のいじめっ子」

「やっだ~。褒めても何も出ないぞ。こいつぅ~」

 冗談だったんだけど、すっごい微妙な顔されました。

「……コホン、気を取り直して、条件について言うね。

 付き合う期間は今日からちょうど一年間。その間はとりあえず私たちは恋人ってことね。それで一年後、もう一回私に告白してくれない? それが、私の出す条件」

 やはり、私の提案が奇妙だったのか、思いっきり首をかしげる本橋君。

「なんだそりゃ? どうしてそんな回りくどいことするんだよ?」

「ぶっちゃけ、私って本橋君のこと異性として見るまでには至ってないんだと思う。俗に言う、友達以上恋人未満、ってやつ。だからさ、本橋君とは付き合ってもいいかな~、っていう感じなんだけど。

 ここまではいい?」

 実質私にほとんど興味をもたれていない、と言われたことに気づいたみたいで、複雑な心境っぽく苦い顔をして本橋君は頷く。

「かといって、本橋君の好意を無下にできるほどの理由もないのよね。今のところ。

 だったらお試し期間、ってことで付き合ってみるのも悪くないかな? って思ったのよ。そうやって、私が本橋君のことをもっと好きになれればお互いにとっていいし、もし違うって思っても私はさよならすればいいだけだしね。

 どう? そんな不真面目な条件に付き合ってくれるなら、私は別にいいけど?」

 軽い調子で尋ねる私を凝視しながら、本橋君はかなり悩んでいる様子だった。

 表面上はあっけらかんとしている私だけど、内心かなりドキドキしていた。何に対してドキドキしているのか自分でもよくわからないんだけど、なんだか落ち着かない。

 私の気持ちを知ってか知らずか、数分間黙考していた本橋君は不意に顔を上げ、私の目をまっすぐに見つめてきた。

「分かった。とりあえずは、それでいい。

 要は一年のうちに植田を俺に振り向かせりゃいいわけだ。そういうことなら、やってやるよ。俺がどんだけ植田に執心してるか、たっぷり教えこんでやろうじゃねぇか」

 そう言うと、本橋君は楽しそうに口元を歪めて、不敵な笑みを浮かべた。

 ……どうしてか、そんな野性味のある本橋君の表情に不覚にもキュンとしてしまった。

 こっ、これが世に言うギャップ萌えというやつか!

「ふ、ふふふっ、まあせいぜい頑張ってね。私を落とすのって、自分で言うのもなんだけど大変だと思うよ? すっごい鈍いから」

「知ってるよ。ずっと植田のこと見てきたんだから、覚悟はしてるさ」

 ごまかすようにほほえみ返した私に、なんとも失礼な言い草で返してくる彼。

 私だって自覚してるんだから、声音に呆れた感じを含ませなくてもいいじゃないか。

「それじゃあ、今日からよろしくね。幸太君」

 さすがにムッとしたので、意趣返しも含めて名前で呼んでやった。

 ひどく驚いている顔をしているし、効果は抜群だったみたい。思った以上に恥ずかしかったから、若干捨て身の行為だったことは胸の内に秘めておこう。

「あ、ああ。こちらこそ、お手柔らかに、な。……香奈」

 一気に血液が顔にまで登ってくるのを自覚し、私に対しても効果が抜群であったことを悟った。

 こうなるんなら、やらなきゃよかった。後悔先に立たずってやつだろう。まともに本橋、いや、幸太君の顔を見ることができない。

 ハズカシ~!


 お互い赤面で連絡先を交換したあと、気恥しさに負けた私は逃げ出すように帰路についた。駆け足を通り越した全力疾走をする私の背中に「家まで送ろうか?」という申し出が聞こえた気がしたが、多分気のせいだ。まともに人の話を聞ける精神状態ではなかったから、幸太君には悪いけど無視して行ってしまった。

 思った以上に激動の一日を過ごした私は、一人感慨に浸りながら星空が散らばる夜道を歩いていた。

 シュウとの思いにケジメをつけることができたからか、初めて恋人(仮)ができたからか。私の足取りはいつになく軽かった。

「それにしても、幸太君ってあんまり変わらなかったなぁ。昔と同じで、からかいやすい」

 ちょっぴり騙していたときのうろたえっぷりは、今思い出しても笑いを誘う。

「でも、それは私も同じだったかな?」

 さっきまでの幸太君との会話を思い出すと、中学時代のころに戻ったような感覚だった。私の地というか、素というか、とにかく自然に言葉がでてきたような気がする。

 そうだとしたら、私はちょっと、いや、かなり嬉しくなった。

 なんだか、止めていた時間が再び動き出したような気がした。シュウのことはもうちょっと気にするかもしれない、と思っていたけど、案外すっぱりと割り切ることができたみたいで何よりだ。

 私はおもむろに頭上に広がる無数の光に視線を走らせた。

 ねぇ、シュウ?

 私ね、幸太君と付き合うことになったんだ。

 それがよかったのかどうか、まだよくわかってないんだけど、これから好きになれたらなぁって、実はちょっと期待してるんだ。

 私はシュウのおかげで人を愛すること、そしてそれがとても幸せだってことを知ることができた。

 だから、見ててね、シュウ。

 シュウとの別れをきっかけにして、私は私なりに生きていくよ。

 頑張って、自分らしく生きていくよ。

 ありがとう。

 それから、さようなら。

 自然と持ち上がった口角のおかげで微笑が浮かび、気持ちを切り替える。

「さって、とりあえずお腹減ったな~」

 一つ大きく伸びをして、我が家までの残りの道程を走ることにした私。

 今日の晩御飯はなんだろう?

 私の頭の中にあったのはただそれだけだった。


 どうでしたでしょうか?

 この作品は私が高校生の時に思いついた設定を掘り起こし、チマチマと書き直したものです。

 原作はあったのですが、不幸な事故でデリートしました。

 原作は今よりも短かったのですが、なぜここまでボリューミーになったのか、作者も不思議でなりません。

 でも、勢いに任せて書いていた頃よりはましだと信じております。

 長編のネタが切れたらちょくちょく短編を書いて紛らわせようと思っていますので、単発的にこのような作品が出てくるかもしれません。

 では、できるだけ早く続きを更新しますので、しばらくお待ちを~。

 後書きでした~。

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