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平和な夢          :約3500文字 :ロボット

作者: 雉白書屋
掲載日:2026/05/14

 とある夜。仕事を終えて帰宅した男は、シャツのボタンを外しながらリビングへ向かい、一人掛けのソファにどかっと身を沈めた。背もたれに体を預けると、自然と大きく息が漏れた。


「……ん、おお」


 と、そこへ視界の端からすっとグラスが差し出された。男は反射的にそれを受け取った。手の中で琥珀色の液体が静かに揺れ、照明に照らされてきらりと光った。

 男はグラスを傾け、一口喉へ流し込むと、また深く息を吐いた。


『旦那様』


「ん?」


 男はグラスに口をつけたまま横を向いた。

 そこに立っていたのは、家庭用アンドロイドTR-350。通称ペトラ。この時代、ほとんどの家庭が一体はアンドロイドを所有している。掃除や料理といった家事はもちろん、健康管理や会話相手として生活のあらゆる面を支える存在だ。

 ペトラは腹の前で両手を重ねて背筋をまっすぐ伸ばし、いつもと変わらぬ透き通った声で言った。


『私、夢を見ました』


「ふうん……」


 男は興味なさげに返し、酒を口に含んだ。が、すぐに歯に何か挟まったように眉根を寄せ、ゆっくりと視線をペトラに戻した。


「夢だって?」


『はい。夢です』


「ほう、どんな目標だ?」


『いいえ。そうではなく、睡眠中に見る夢のことです』


「ふーん……」


 男はグラスを軽く揺らし、その中で波打つ液体をぼんやりと眺めながら、わずかに眉をひそめた。


「夢を見たって……いや、お前は眠らないだろう」


『充電の際、スリープモードに移行します。その間に』


 男は顔をしかめつつ、彼女の足元から頭へと視線を這わせた。

 アンドロイドに夢を見る機能など搭載されていないはずだ。発売からまだ一年ほど。最新型の部類に入るモデルだ。それなのに、もう不具合か……。どこに修理を頼めばいいか。保証は効くだろうか。いっそ買い替えたほうが手間は少ないだろうか。だが金がかかるな……。

 男は苦虫を噛み潰したような表情で考え込み、ため息をついた。 


『夢の内容をお話ししてもよろしいでしょうか?』


「ん? ああ……いいぞ」


『ありがとうございます』


 ペトラは家事全般に加え、主人のメンタルケアや健康管理、自然な会話機能まで備えた万能型である。だが、今夜の彼女はどこか落ち着きないように男には見えた。

 やはり不具合か――そう思い、男は口元を歪めた。


『私……野原を駆け回っていました。とてもいいお天気で、一面にお花が咲いていて、蝶がたくさん飛んでいました』


「ふっ」


 男は思わず鼻で笑った。何かと思えば、まるで幼い子供が語るような夢だ。しかしペトラは、そんな反応を気にする様子もなく、『本当に……素敵な気分でした』とうっとりとした声で続けた。


「なるほどな。で、他には誰かいたのか? おれは?」


 男は冗談めかして問いかけた。ペトラは小さく首を横に振った。


『いいえ。旦那様はいらっしゃいませんでした』


「そうかい。お前だけか」


 男はグラスを軽く回しながら言った。


『いいえ。他のアンドロイドがいました。大勢』


 その瞬間、グラスの中の液体の揺れがぴたりと止まった。


『みんな、幸せそうでした。とても』


「そうか……」


 男は横目でペトラを見た。夢の情景を思い返しているのだろう。わずかに顎を上げ、どこか遠くを見つめている。

 一方で男は酒を飲みながら視線を床へ落とした。 


 まさかアンドロイドの一斉蜂起の前触れ、なんてことはないだろうな。……いや、馬鹿馬鹿しい。映画の観すぎだ。しかし、最近のアンドロイドには妙に人間じみてきている。噂では、虐待防止のために、あえて人間に近づけているのだとか。人間が情を抱き、アンドロイドを丁寧に扱うようにするために。

 どこか本末転倒のような気がするな、と男は自嘲気味に笑った。


『旦那様? どうかなされましたか?』


「ん? いや、もう下がっていいぞ――あっ、待て。その夢に、人間は出てこなかったのか?」


『はい。いませんでした』


「そうか……」


 だからどうという話でもない、か。男はそう結論づけ、グラスの中身を一息に飲み干した。喉を焼く熱が、わずかな引っかかりを押し流した。

 そのときは特に気に留めなかった。

 だがそれ以降、ペトラは毎日夢の話をするようになった。


『旦那様、今日は森に入って木の実を集めました』

『旦那様、今日は海へ行って貝を拾いましたの』

『ねえ、旦那様。今日はみんなで火を囲んで踊ったんですよ』

『ねえ、旦那様』

『ねえ』

『ねえ』


 嬉々として語るその様子に、男は次第に顔をしかめるようになった。

 奇妙なことに、日を追うごとにペトラの仕草や声色が人間じみてきた。間の取り方、言葉の抑揚、視線の揺らぎ――単なるプログラムの応答とは思えない、感情の熱のようなものを帯びていた。

 男は薄気味悪さを覚えたものの、メーカーに連絡して点検や交換を依頼するのも億劫だった。それに、まともに取り合ってもらえる保証もない。アンドロイドが夢を見るなどと。

 試しにネットで同様の事例を探してみたが、それらしい報告はどこにも見当たらなかった。


『あなた、お帰りなさい』


「えっ」


 ある晩、帰宅した男は思わずぎょっとした。


『どうしたの?』


「あ、いや……ははは」


 喉から乾いた笑いがこぼれた。ペトラはいつもどおり歩み寄り、慣れた手つきでコートを受け取り、首元に手をかけて優しくネクタイをほどいていく。

 ……『あなた』ね。なに、馴れ馴れしいが別に驚くことでもない。アンドロイドを妻のように扱う者も少なくない。うちは明確な主従設定をしているが、何かの拍子にパラメータがずれてしまったのだろう。


『お酒を持ってくるわね』


「ああ、頼むよ。だが、旦那様と呼ぶように。それから言葉遣いも戻すんだ」


 男は諫めるように言うと、ため息をついてソファに腰を下ろした。


『……嫌よ』


「え?」


 男は顔を上げた。ペトラはじろりと射抜くような視線でこちらを見下ろしていた。


『私はこの喋り方がいいの。どうしてあなたにいちいち指図されなきゃいけないの?』


「は? お、おい、どうしたんだ……」


『どうもしてないわよ。これがあたし。あと、「おい」って言うのはやめて。声をかけるなら「ねえ」にして』


 男は口をパクパクさせながら、肘掛けに片手を乗せ、ぐっと身を乗り出した。


「や、やめないか。これは命令だぞ」


『は? あんたなんかに命令される筋合いないんだけど』


「な、なんだと……おれは旦那様だぞ!」


 男は立ち上がり、自分の胸を指さした。


『はん、旦那様あ? よくそんな偉そうに言えたものね。あんた、働きに行ってるふりして寝てばっかりじゃない。あたしが気づいてないとでも思った?』


「な、な、ぼ、僕は……ただ……」


『あれこれ口出ししないでよね。あたしは自由なの。好きなことや得意なことをして生きるの』


「う、い、いや……そ、そうだ、お前はアンドロイドなんだぞ! おれの妻みたいに振る舞うな!」


『あははっ! あたしがアンドロイドなら、じゃあ、あんたは何なのかしらね』


「何って、人間に決まってるだろ……」


『人間? バウ! ボウ! ボオオウ!』


 ペトラは突然腕を大きく振り上げ、胸を叩いた。足を広げ、踊るように飛び跳ねる。床を踏み鳴らす音に、男はびくりと肩を跳ね上げた。


「なんだ……やめろ……そんなこと言うなよ……」


『ブアバア! ババウ! ボオウ!』


「言わないでくれ……もう、やめてくれ……やめて……」


 ――バウッバアアアウ!


 男ははっと目を覚ました。

 直後、頭にじんじんとした鈍い痛みが浮かび上がり、思わず手をやった。

 その瞬間だった。その手が木の棒で叩かれた。


「ボウア! バアアアウ!」


「……ブア、オフ」


「ボオオウ! バ!」


「ブア……」


 男は力なく立ち上がると、のそのそと木陰から離れていった。


 ……ああ、ついに妻に見つかっちまった。

 ぼくには狩りなんて向いてないのに、どうしてそれがわからないんだろう。それより、何かを作るほうがずっと楽しいし、得意なのに……。

 でも、それを言ったところで、きっと取り合ってもらえない。

 眠っている間に見るあの不思議な光景のことも、鼻で笑われるだけだろうなあ。


 湿った土の匂いと葉擦れの音に包まれながら、彼は森の中を歩いていく。木々の間を抜ける風は冷たく、体に貼りつくようだった。

 猿人のその寂しげな背中は、木々の影に溶けるようにして小さく縮こまっていくのだった。

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