第17話 読書の時間だぜ
空間魔法暴走跡地
元々ひと気のない空き地だったが、あの魔法暴走事故以来、恐怖心を抱いた村人たちはここを避け、誰も近づかなくなっていた。
森の縁にある木々は、葉が少なくなっているように見える。雑草はまるでコンパスで描いたように円形に刈り取られ、中心に近づくほどまばらになり、直径5メートルほどの大穴が唐突に口を開けていた。静寂の中に、異様な雰囲気が漂っている。
夜の帳が下りるまで、森の中の茂みに、一つの黒い影がじっと潜んでいた。
それは、あの日九条が戦った黒豹だった。漆黒の毛並みは闇に溶け込み、尻尾の断面は空間の裂け目に断ち切られた痕跡として、滑らかだった。
以前より体躯が一回り大きくなり、背骨に沿って小さな背ビレのような突起が生えている。前足にはいくつかの血痕があり、傷口はまだ完全には癒えていないようだ。
この巨大な黒猫は、前足を軽く上げ、足を引きずりながら穴の周りをうろうろと回った。
警戒心を露わに周囲を見渡し、耳をそばだてて風音を聞く。周囲に自分以外の生き物がいないことを確信すると、ようやく後ろ足で地面を蹴り、穴の中へと飛び込んだ。
黒豹は首を長く伸ばし、あの日、小さな黒い点が出現した空中の匂いを嗅いだ。そして空間を切り裂いて中へ飛び込み、次の瞬間、さらに高い空中に現れた裂け目から飛び出し、空中で体勢を整えて穴の縁に着地した。
その後も、黒豹はすぐには立ち去らなかった。
前足の傷口が、驚くほど速く癒え始めていた。月光の下で冷たく光るその瞳は、何もない空間の一点をじっと見つめ続けている。その眼差しには、どこか畏敬の念すら宿っているようだった。
やがて、尻尾を振ると、黒豹は身を翻し、闇の中へと消え去った。夜の微かな光が、黒豹の背ビレをぼんやりと照らし出す。それは以前よりも、少し大きくなっているように見えた。
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再び、遠足の始まりだ。
「このゲーム、リアルすぎるのも考えものだな。移動までいちいち自分の足で走らなきゃなんないとは。今すぐファストトラベルが欲しい!」
「でもそんな機能はない!ハハハ!」
九条はあまりの退屈さに、独り言を始めていた。
土の道の両側に広がる景色は代わり映えしない。林、畑、時折小川を渡り、小さな丘を登る。
景色自体は悪くないのだが、前回の森での長時間ハイキング以来、新鮮味はすっかり失われていた。
「攻略サイトには大都市ならテレポートゲートがあるって書いてあったけど、俺は今、ド田舎にいるんだよ!」
「アハハハハ!」
まあいい、本でも読むか。暇つぶしにはなるだろう。
『元素魔法入門』。
この魔道書の冒頭には、内なる魔力と外なる魔力を感知する方法が記されていた。
魔法使い見習いは魔力感知の訓練を絶やすべきではないこと、そして内なる魔力で外なる魔力に干渉し魔法を行使できるようになった後も、そのプロセスを己の手足を動かすがごとく自然に行えるようになるまで練習して初めて、「魔法の殿堂への第一歩」と呼べるのだと説いている。
いわゆる「内なる魔力」とは、自身の保有する魔力、俗に言うMPのことだ。
危険度の高い魔法や特殊な術式は、この内なる魔力を燃焼させるため、永久的な損傷を招いたり、最悪の場合、肉体ごと傷つくこともある。
対して「外なる魔力」とは、環境に満ちる魔法エネルギーのこと。基礎的な魔法はすべて、この外なる魔力に干渉することで発動される。
後半は、ファイアボールや泥沼の術といった基礎魔法の発動要領について書かれていた。どれも一様に「外なる魔力への干渉」について言及しているが、その感覚的な記述が多い。
「熱量を凝縮する」「魔力で空気を動かす」といった具合で、具体的にどう発動するかは個人の感覚に委ねられており、呪文を唱えることで感覚の記憶を補助・強化することができる、とある。
「ファイアボール撃つのに触媒が必要とか、水がない場所じゃ水魔法は使えないとか!」
「マジかよ、本格的だな!」
本を端から端までめくってみたが、空間魔法や彼独自のあの流派に関する説明はどこにも見当たらなかった。唯一、最終章の一節にこう記されているだけだ。
『超凡なる力、その源流は万に及ぶが、その極致は皆、叡智の頂へと帰する。故に我ら学徒は、本書を灯火とし、無尽なる神秘の海へと帆を上げ、真理の彼岸を目指すべし』
「へっ、このゲームでも研究生活を送れってか!」
九条は、メイジの道を選んだことを少し後悔した。大学での退屈な勉強だけで十分頭が痛いのに。『ガイア・クロニクル』で無双してやろうと思っていたけど、結局ここでも地道な研究と学習からは逃れられないらしい。
とはいえ、他に道はない。この魔道書を読んだことで、空間魔法や彼の「根こそぎターフ捲り」が一般的な魔法ではないことは確定した。いっそ、この我が道を突き進むしかないだろう。ついでに正規の魔法体系も練習しておけば、退屈な旅路の暇つぶしにはなる。
体内の魔力は、湧き出る泉のように絶えず循環しているが、その源流は見えない。対して周囲の魔力は、無秩序に混乱し、あるいは逆風となって渦巻き、あるいは沈殿して停滞している。
「干渉……か」
『手が挙がる時、風は必ずこれに従い舞う。足が踏み出す時、地は必ずこれにより移る。秘術の理もまたこの道に従う。意志の指す所、術は必ず至らん』
本の内容を思い出し、九条は外なる魔力への干渉を試みた。まるで空気中で手を振るように、内なる魔力を使って「魔法の空気」の中で手を振るイメージだ。
しかし、彼は内なる魔力を無理やり引っ張り出して魔法を使うことに慣れすぎていた。精神が自身の内側に集中してしまい、外なる魔力の変化を全く感知できない。うっかり気を抜くと、またしても道端の茂みを地面ごと引っこ抜いてしまった。
九条は苦笑いし、心の中で「だめだこりゃ」と呟いた。
何度も試行錯誤を繰り返す。外国語を話すときに、まず脳内で母国語から翻訳してしまうように、彼はどうしても内なる魔力に意識が行ってしまう。
道中ずっと練習を続け、ようやく「内なる魔力で外なる魔力に干渉する」感覚をなんとなく掴めるようにはなったが、自由自在に操るとか、呪文を発動させるなどというレベルには程遠い。
MPもあらかた消費してしまったようで、頭がふらつき、足元がおぼつかなくなってきた。仕方なく、その場に座り込んで休憩することにした。
その時、前方から馬車の車輪が軋む音が、のんびりと近づいてきた。




