2 初めてのループ
――03:42。
視界が爆ぜるような高周波の耳鳴りが止むと同時に、佐藤湊の肺は、酸素を求めて激しいひきつけを起こした。
「ガハッ、ゴホッ! ……はぁ、はぁ、はぁッ……!」
肺胞の隅々まで、酸化した揚げ油と安っぽい芳香剤の匂いが入り込む。
つい数秒前まで鼻腔を焼いていた、あの生温かく、鉄錆に似た「血の匂い」ではない。
湊はレジカウンターに手をつき、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えた。指先がガタガタと震え、握っていたバーコードリーダーを床に叩きつける。硬いプラスチックがタイルにぶつかる音は、深夜の店内に暴力的なまでの大きさで響き渡った。
「……夢、か?」
掠れた声で呟き、首筋に手をやる。
指先が皮膚に触れた瞬間、湊の全身を未知の戦慄が駆け抜けた。
傷はない。血も流れていない。そこにあるのは、見慣れた滑らかな自分の肌だけだ。
だが、脳が、神経が、強烈な異議を申し立てている。
そこには確かに、警官だった「それ」の牙が食い込んでいた。肉が引きちぎられ、動脈が弾け、生命がドクドクと漏れ出していくあの忌まわしい感覚。ピンセットで神経を一本ずつ引き抜かれるような鋭利な痛みの残響が、幻肢痛のように首筋から脳髄を掻き乱し続けている。
「03:42……」
ひび割れたスマホの時計は、あの絶望の始まりと一秒の狂いもなく一致していた。
――カランカラン。
自動ドアが開き、一人の客が入ってくる。
土木作業員風の男。泥のついた長靴、少し猫背な歩き方。
湊の心臓が、肋骨を突き破らんばかりに跳ねた。
知っている。この男がどの棚へ行き、何を手に取り、どの銘柄のタバコを注文するかを。
男はカップ麺と缶コーヒーをレジに置き、掠れた声で言った。
「……あと、メビウスのワン、一つ。袋はいらねえ」
湊の手が止まる。
一言一句、硬貨がカウンターに擦れる音まで同じだった。
これはデジャヴ(既視感)などという生温かいものではない。世界が、一度通ったレールを再びなぞり始めているのだ。湊の明晰な頭脳は、即座に一つの仮説を導き出したが、彼の理性がそれを「異常な妄想」として拒絶していた。
*
08:00。
バイトの交代時間を迎え、湊は逃げるようにコンビニを後にした。
朝の空気は白く濁り、街はこれから始まる「日常」に向けて静かに動き出している。
いつもなら、このまま一限の講義に出るために大学へ向かう。だが、湊の足は駅とは逆方向、自分の住む築30年のアパートへと向かっていた。
歩道ですれ違うジョギング中の老人、無邪気に鳴いているカラス、遠くで聞こえる電車の走行音。そのすべてが、数時間後には「悲鳴」に上書きされる。その確信が、冷たい汗となって背中を伝った。
(どういうことだ。すべて同じだ。なぜ。深刻な睡眠障害が見せた鮮明な予知夢……。だが、あの首筋の『痛み』だけはどうしても説明がつかない)
アパートの階段を駆け上がり、自室のドアを乱暴に開ける。
カバンを床に放り出し、湊は全身の筋肉を硬直させた。
09:15。
本来なら、大学行きのバスに乗っている時間だ。
だが、湊は台所から牛刀を持ち出し、それを震える手で握りしめていた。
さらに、唯一の出口である玄関のドアの施錠を何度も、指の皮が剥けるほど確認した。窓のクレセント錠を閉め、その上からガムテープを二重に貼って補強する。
まるで、巨大な勢力の台風が直撃することを知っているかのような、異常なまでの準備。それが「今日、世界が終わる」という悪夢に対する、彼なりの精一杯の抵抗だった。
(夢であってくれ……。頼むから、ただの狂気であってくれ)
一度目の「あの日」――入試当日。彼は自分の意志とは関係のない「事故」によって人生を奪われた。
だが今回は違う。自分の意志で、この地獄を回避してみせる。物理的な防御を固めることで、運命という暴風雨をやり過ごせるはずだ。そう自分に言い聞かせた。
湊は、部屋の隅で膝を抱えて座り込んだ。
壁に掛けられたアナログ時計の秒針が、心臓の鼓動を刻むように重く進んでいく。
チッ、チッ、チッ。
12:00。
世界はまだ、静かだ。昼時のテレビからは、のんびりとしたバラエティ番組の音が漏れている。
14:30。
腹の底を冷やすような静寂が部屋を支配する。窓の外を通る車の数が、心なしか減っている気がした。
15:41。
時計の針が、あの運命の時刻に近づく。
一回目のループで、講義室に「奴」が現れた時間だ。
そして――。
15:42。
――……ウゥゥゥゥゥゥゥゥゥ…………。
遠くで、細い針を突き刺したようなサイレンの音が鳴った。
一つ、また一つ。
重なり合い、街の空気を震わせ、絶望を告知する不協和音。
「……来た」
湊の額から、大粒の汗が床に滴り落ちる。
直後、机の上に置いたスマホが狂ったように震動を始めた。エリアメールの着信音が、静かな部屋を切り裂く。
『――緊急警報。都内各所で同時多発的な暴動が発生。対象者は極度の興奮状態にあり――』
窓の外から、甲高いタイヤの摩擦音と激しい衝突音が聞こえてくる。
続いて、怒号。
そして――人間の声とは思えない、低く濁った獣の咆哮。
湊は耳を塞ぎ、目を閉じた。
壁一枚隔てた廊下を、誰かが全速力で駆けていく音がする。
「開けて! 誰か、開けてよッ!!」
隣室の住人、よく挨拶を交わす主婦の悲痛な叫び声。
その声が、肉を裂く鈍い音と、ゴボゴボという血の泡立つ音に変わるまで、それほど時間はかからなかった。
ドアの向こう側で、何かが「ガリ、ガリ」と木材を削るような音を立て始めた。
ガムテープで補強したはずの窓ガラスの外には、血塗れの手が叩きつけられる「バチャバチャ」という生々しい音が響く。
湊が、かつて神童と呼ばれた冷徹な思考で導き出した結論は、あまりにも残酷だった。
(隠れていても無駄だ。いつか壁は破られ、食料は尽き、いつか見つかる。そして俺は、またあの『痛み』を味わって死ぬんだ……。何度でも、何度でも! )
頭ではわかっているこの状態が永遠に続かないことを。
絶望が、冷たい水のように湊の精神を浸していく。
03:42から始まったこの一日は、まだ、折り返し地点にすら到達していなかった。




