1 03:42のリープ
ジーッと耳の奥を穿つような、安っぽく暴力的な蛍光灯のハム音。
その無機質な白光は、蜘蛛の巣状にひび割れたスマートフォンの液晶に反射し、網膜をチリチリと焼く。画面に浮かび上がる「03:42」という冷徹な数字。佐藤湊はそれを、光を失った深海魚のような濁った目で見つめていた。
深夜のコンビニ。空気は酸化した揚げ油の臭いと共に澱み、自動ドアの向こう側には、街を飲み込もうとする底なしの闇が凝固している。
かつて「神童」と呼ばれ、数多の数式を魔法のように解き明かした湊の明晰な頭脳。それは今、廃棄期限の迫ったパスタのバーコードを機械的に読み取り、レジ袋という狭小な宇宙の中にいかに効率よく商品をパッキングするかという、低次元なテトリスのためだけに消費されていた。
(……あの日、俺の人生の歯車は砕け散ったんだ)
脳裏を焦熱の記憶がかすめる。二年前、雨の入試当日。
アスファルトを叩く激しい雨音、鼓膜を裂く悲鳴のようなブレーキ音。そして――鈍い衝撃と共に、右腕が内側から砕ける「メキメキ」という異質な感触。
第一志望だった国立大への切符は、その瞬間に文字通り粉砕された。親からは「不良債権」と突き放され、今は名ばかりの底辺大学に通いながら、生きながらえるためだけにレジの前に立っている。
*
その日の午後03:42。大学の講義室。
埃の舞う西日が差し込む中、老教授の枯れた声が、湿った砂のように湊の意識を埋め立てていく。
だが、その平穏は突如として「それ」によって引き裂かれた。
最初は、遠くから響く細い針のようなサイレンだった。
それが瞬く間に何十、何百と重なり合い、街全体の悲鳴を代弁するような巨大な不協和音となって、キャンパスの窓ガラスを細かく震わせる。
湊が違和感に瞼を持ち上げた瞬間、ポケットの中でスマホが狂ったように震動し、絶望を報せた。
『――緊急警報。都内各所で同時多発的な暴動が発生。対象者は極度の興奮状態にあり、生存者に無差別に襲いかかっている模様。直ちに、施錠可能な建物内へ――』
速報の文字を追い切るより早く、講義室の重厚な扉が、内側から爆破されたかのような轟音を立てて弾け飛んだ。
そこに立っていたのは、つい先ほどまで教壇で静かに独り言を漏らしていたはずの教授だった。
だが、その輪郭はもはや人間の形をなしていない。
背骨は生物学的な限界を超えて湾曲し、だらりと垂れ下がった顎からは、赤黒い血の混じった涎が糸を引いている。何より、その瞳。彩彩が消失し、濁った白濁の中に「飢餓」という純粋な狂気だけが、底なしの深淵のように広がっていた。
「……せん、せい?」
最前列にいた赤いワンピースを着た女子学生が、困惑と本能的な恐怖に顔を歪めて立ち上がった。
その瞬間。
教授の身体が、物理法則を無視したバネのような速度で爆発的に跳ねた。
「ギャアアアアアアアアッ!!」
獣の咆哮が鼓膜を突き抜ける。教授の剥き出しの歯が、彼女の白く細い喉笛に深く、深く食い込んだ。
「ブシュッ」という、濡れた布を力任せに引き裂くような生々しい音が響く。
鮮血がスプリンクラーのように天井まで吹き上がり、阿鼻叫喚の地獄が、一瞬にして講義室を蹂躙した。
(これは……夢じゃない。現実が、俺を殺しに来ている!)
湊は強制的に脳のフル回転を始めた。
血流が激流となって全身を駆け巡り、視界は極限の集中状態でコントラストを強めていく。
それにより脳の伝達スピードは動きを早め、身体にすぐに信号を送り始めると同時足は動いた。
「ハァッ、ハァッ……!」
湊の喉の奥から、乾いた獣のような呼吸が漏れる。
だが、外へ出た湊の目に飛び込んできたのは、計算をあざ笑う終末の光景だった。
校門は炎上する車両で塞がれ、逃げ惑う群衆の背後から、血塗れの「肉塊」たちが津波となって押し寄せていた。
「どいてくれ!!!」
湊は必死に、迷路のような路地裏へと滑り込んだ。しかし、暗がりに潜んでいた「死」が、音もなく牙を剥く。
制服を真っ赤に染め上げ、一部が欠損した警官。
その手には、震える拳銃が握られたまま。湊の姿を認めた瞬間、警官の顎がガチガチと鳴り、弾丸のような速度で肉薄してきた。
「が、あッ……!」
凄まじい衝撃。コンクリートの壁に押し付けられ、首筋に――焼けるような熱さと、神経を直接ピンセットで引きちぎられるような鋭い痛みが走った。
ガリ、という不快な咀嚼音が骨を伝って脳髄を揺らす。動脈から温かい生命の熱がドクドクと溢れ出し、視界が急速に赤黒いフィルターに覆われていく。
冷たいアスファルトの上で、湊の身体は小さく痙攣し、意識の糸がぷつりと、音を立てて千切れた。
一体、二体ではない。十数体もの「かつての人間」たちが、飢餓という名の重力に引かれ、湊という唯一の熱源に殺到する。
まず、重なり合う冷たい死体の重みが湊を地面へと圧し潰した。肺から空気が搾り出され、肋骨が軋みを上げる。
直後、「グチャッ」という、濡れた重い雑巾を力任せに踏みつけたような、不浄な音が鼓膜を震わせた。
腐り落ちた顎が、服の繊維ごと湊の柔らかな肉を深く、深く抉り取る。
「メリメリッ」と、生きた筋肉が結合組織から引き剥がされる、耳を疑うような鮮烈な音が骨を伝って脳髄に響く。
焼けるような熱。いや、熱を通り越した氷のような感覚が、神経の束をずたずたに切り裂いていく。
「が、あ、あああああああッ!!」
絶叫は、すぐに肉の咀嚼音によって塗り潰された。
群がる死者たちは、慈悲もなく湊の四肢に食らいつく。
腹部を裂く「ズルリ」という不快な滑走音。内臓が外気に触れ、自分の中から「温かい何か」が溢れ出していく喪失感。
太腿の肉を食いちぎる、野良犬のような「ガリッ、ムシャァ」という執拗な歯音
(ああ……ようやく終わるんだ。こんな、ゴミ溜めのような人生……)
暗転。
深淵の底で、湊は見た。
青白い、デジタル時計の数字。それが、この世の物理法則を無視して、猛烈な勢いで逆回転していく悪夢のような光景を。
――03:42:02
――03:42:01
――03:42:00
鼓膜を突き破らんばかりの高周波の耳鳴りと共に、湊の魂は肉体へと、暴力的に引き戻された。




