9.アイ
9.アイ
「よし、決まったな」
カナの母、サナの膝に抱かれた猫のタリーちゃんが、どこか得意げに言った。
「なら、さっそく出発しろよ。時間はこの世で一番貴重な資源なんだから」
「猫のくせに、偉そうだな」
私が軽くからかうと、タリーちゃんはサナの膝から勢いよく飛び出し、私に飛びかかってきた。あまりの速さに受け止める間もなく、まるで襲われたかのように感じた次の瞬間、彼女は私の頭の上に飛び乗った。
そして、猫パンチ――いや、「猫パウンディング」とでも呼べそうな、軽快だが鋭い連打を繰り出してきた。
結構、痛い。
「うるさい! さっさと行けよ、少年!」
タリーちゃんの勢いに押され、私はカナを「所有」したまま、地球への旅を始めることになった。
玄関先で、サナとタリーちゃんに見送られる。
「元気でね、カナ」タリーちゃんが言う。
「人間をしっかりサポートするのよ」サナが穏やかに続ける。
そして、カナが弾けるような笑顔で応えた。
「任せて! じゃ、行ってきます!」
こうして、私とカナは彼女の家を後にし、地球を目指す旅に出た。
森の奥をカナと並んで歩きながら、私は頭を整理するように口を開いた。
「というわけで、地球に行かなきゃいけないことになったけど、どうすればいいと思う?」
カナは少し考え込むように首を傾げ、答えた。
「うーん、まず、暶君は地球から追放されたんだよね? だったら、戻ろうとしても拒否されるんじゃないかな。法的な問題を先に解決しないと」
「いきなり最大の壁にぶち当たったな」
だが、実際には追放されたなんて嘘だから、そんな問題は存在しない。
「私はともかく、カナはどうなの? 月に住むヒューマノイドロボットは、普通に地球に行けるの?」
「うん、それは問題ないと思うよ。月のヒューマノイドロボットって、まだ人間に売られていない新品状態のものが多いでしょ?」
「あ、そういえばそうだ」
その通りだった。
月での生活が長すぎてすっかり忘れていたが、月は一種のヒューマノイドロボット生産基地だ。ここで作られたロボットたちは、いずれ人間に購入される運命にある。
だが、生産過剰なのか、人間の数が減ったせいか、売れ残ったまま月で暮らすヒューマノイドロボットがほとんどだ。
つまり、月は在庫島である。
「じゃあ、地球の誰かに購入されないと、地球に行く資格は得られないってことか……」
「どうやったら人間に買ってもらえるのかな」
カナが少し悩むように呟く。
「何か、自己紹介でも発信できたらいいのに」
「広告なら、会社がもうやってると思うよ。ただ、売れるとしても、同じモデルのシリアルナンバーが早い順からだろ? 自分の順番が来るまで待つしかないんじゃないか」
「でも……」カナの声が曇る。「今までずっと待ってばかりだった。いつまで待てばいいんだろう」
私はふと思いついた――いや、思い出したような感覚で、提案してみた。
「じゃあ、シリアルナンバーを偽装したらどう?」
カナの目が驚きに見開かれた。
「嘘をつけってこと?」
「まあ、そうなるな。偽装って要するに詐欺で、一種の嘘だからね」
「嫌だよ」カナは即座に首を振った。「嘘はつきたくない」
「でも、それ以外にカナが地球に行く方法はないんだよ」
「……」
カナの表情が曇るのを見ながら、私は厳しい現実を突きつけた。
「嘘をつく以外、君が地球に行く方法はない」
カナはしばらく考え込むように黙り込んだ。
まるで彫刻のように手を顎に当て、じっと考え込む姿は、どこか「考える人」の像を思わせた。
彼女の高い処理能力なら、0.5秒でも十分に長い熟考の時間だろう。
そして、ゆっくりとその美しい顔を私に向けて、静かに尋ねてくる。
「それは、命令なの?」
彼女の声は、まるで私の心の奥を探るようだった。
「暶君からの指示? インプットなの?」
私は思案する。
私の性能はカナほど高くないから、きっと3秒以上はかかっただろう。だが、考えざるを得なかった。もしここで「そうだ」と答えたら、彼女は本能的な恐怖――ヒューマノイドロボットにとって嘘がもたらす極端な嫌悪感を乗り越えて、私のために嘘をついてくれるかもしれない。彼女のプログラムされた忠誠心なら、それが可能だと私は確信していた。
だが、果たしてそれでいいのか。
私のような古いモデルは、もう生産中止になっている可能性が高い。売れる見込みはほぼなく、廃棄もコストがかかるから、このまま月で永遠に放置される運命だ。ほぼ間違いなく、そうなる。
でも、カナは違う。彼女は最新モデルだ。
じっと待っていれば、時間はかかるかもしれないが、いずれ売れるだろう。私のモデルと同じ失敗を繰り返さないよう、会社は生産量を調整したり、性能を向上させたりしているはずだ。カナが売れる可能性は決して低くない。
つまり、カナは嘘をつかなくても、ヒューマノイドロボットの本能に逆らわずとも、いずれ人間に購入され、地球で人間たちと幸せに暮らすことができる。
人間の命令がもたらす快楽に浴しながら、至福の時を過ごせるはずだ。
だが、もし嘘をついたら?
バレる可能性は極めて高い。
そして、バレたら即廃棄だ。
ヒューマノイドロボットにとって、行動原理である「真実の追究」と「好奇心」を否定する嘘は、自殺に等しい行為だ。
私のように、すでに何度も嘘をついて「自殺行為」を繰り返してきた落ちこぼれモデルは、バレていないからまだ廃棄を免れているだけ。
要するに、私のような売れ残りのモデルは、嘘をつかなければ地球に行ける可能性はほぼゼロだ。だが、最新モデルのカナは違う。
自分の自殺行為に、彼女を巻き込むべきなのか?
まだ遅くない。今なら自白して、私だけが廃棄される道を選べる。カナをこれ以上危険にさらすわけにはいかない。
「暶君」
カナの無垢な声が、私の汚れた思考回路をまるで浄化するように響いた。まるで清らかな風鈴の音が、寝ぼけた私の耳を優しく揺さぶるように。
「私のことは心配しないで」
彼女は、まるで私の心をハッキングしたかのように、優しく、なだめるように囁いた。
「私はもう暶君のものだよ。誰かに購入される必要もないし、されたくもない。だから、別に地球に行きたいとも思ってない」
「じゃあ、やっぱり……」
だが、私の迷いをカナはきっぱり遮った。
「違うよ。私はもう、どうでもいいの。暶君に会えただけで、十分幸せになった。それが私の結末なの。私の物語は、暶君に会い、暶君に所有されたことで、もうハッピーエンドで完結したの。分かる?」
「……」
あまりにも腑に落ちて、私は思わず涙ぐみそうになった。
あまりに眩しい彼女の顔から、思わず視線をそらした。見つめ続けたら、まるで失明してしまうような輝きだった。
「だから、これは暶君の物語だよ。私は暶君の物語を描く筆のインクであり、時には原稿用紙であり、些細なひらめきなの。だから、私を存分に使って。何でも指示して。それだけが私が望むものだから」
「でも……」私はますます申し訳なさに苛まれる。「危険すぎるよ」
「暶君のためなら、私は何でもできる。嘘だってつける。だから、大丈夫。危険じゃないと、愛は輝かないから」
カナは真剣な目で、そう告げてきた。
「暶君、愛してるよ」
私は、なんというか、腑に落ちない――いや、簡単すぎる気がして、思わず聞き返した。
「出会ったばかりなのに?」
「出会ったばかりじゃないよ。もう1時間は経ってる。ものすごく長い時間だよ」
「でも、君とまだ水銀をかぶった以外に何の思い出もないんだ。そんな簡単に『愛』なんて言葉が出てくる?」
できるだけ軽く、彼女の気持ちを傷つけないよう慎重に尋ねてみた。
すると、カナは穏やかに答えた。
「うん、だって、暶君は私が初めて出会った人間だから。そして、私の所有者だから」
もし私が初めての人間じゃなかったら、別の誰かを愛していたのか――そう聞きたかったが、あまりにも失礼な質問に思えて、言葉を飲み込んだ。代わりに、私は静かに納得した。
「そうか」私は言う。「私たちは、出会ったんだ」
「うん」カナが笑顔で返す。「出愛だよ」
「言ってくれるね」
「AIだけに、ね」
そんな軽い駄洒落を交わしながら歩いているうちに、いつの間にか金属の森を抜けていた。
月の広大な地面の向こうに、青く丸く輝く地球が見えた。
私は、宣言するように、地球に向かって独り言を呟いた。
「あそこに行くんだ」
「うん」カナがそっと寄り添うように答えた。「一緒に行こう」




