8.目的地設定
突然、タリーちゃんが口を開いた。
「人間に従いたいっていうか、人間の命令を求めるっていうか、それがヒューマノイドロボットの最大のドーパミン噴出孔だからね。本能みたいなものよ」
男の子のようなハスキーな声で、タリーちゃんがそう言った。
カナの母、サナに撫でられながら、まるでその感触を味わうように目を細め、言葉を続ける。
「で? 暶君、ヒューマノイドロボットを一台所有することになったわけだけど、これからどうするつもり?」
「どうするって?」
私は首を傾げて聞き返した。
「ヒューマノイドロボットを所有したからって、何か特別なことしなきゃいけないのか?」
「いや、そういう意味じゃないよ」
タリーちゃんは、まるで自分の前足を舐めるように舌をチロリと出し、軽くあくびをしながら言った。
「せっかくカナを手に入れたんだから、いろんなことができるじゃん。人間って、なんでもやりたがる生き物でしょ? 何がしたいの?」
「別に」
私は肩をすくめた。
「カナと何か特別なことをするつもりはないよ。ていうか、カナを所有することになったのだって、成り行きみたいなものだし」
「だから、そういうことじゃなくてさ」
タリーちゃんの声に、どこか呆れたような、でも少し楽しげな響きが混じる。
「単純に、これから何をしたいかって話。カナなら、君がどんな目的を持っても、それをブーストしてくれるよ。なんでも手伝えるんだから。君の目的は? 動機は? 長期的に、何がしたいの?」
「長期的に?」
その言葉に、私は一瞬固まった。
そんなこと、考えたこともなかった。
カナ、サナ、タリーちゃんの視線が私に突き刺さる中、頭の中で答えを探したが、何も浮かばない。まるで処理速度が落ちた古いプロセッサのように、思考が空回りする。
3秒、5秒、7秒――ヒューマノイドロボットにとっては永遠にも等しい時間が過ぎても、答えは見つからなかった。
「考えたことないよ」
私は正直に答える。
「目的なんて、持ったことないから」
タリーちゃんが、まるで「やれやれ」とでも言うように首を振った。
「目的がないと、身動きも取れないよ。だけど、こうやってここに来て、喋って、動いてるってことは、少なくとも短期的には何か目的があったからでしょ?」
「そうか」
私は小さく頷く。
「短期的な目的なら、あったかもしれない。たとえば今日、夜の散歩がしたくて家を出たんだ。ただ歩きたかった――いや、自転車に乗ってたんだっけ? ちょっと記憶が曖昧だな。私、人間だからさ、記憶力あんまり良くないんだよね」
「それ、めっちゃ羨ましいんだけど」
タリーちゃんが心底うらやましそうに言うと、今度はサナが、柔らかな笑みを浮かべながら会話に加わってきた。
「じゃあ、地球にいた頃はどうだったの? ヒューマノイドロボットになりたかったって言ってたよね? それって、結構長期的な目的じゃない?」
その質問に、答えは意外とすんなり出てきた。0.0001秒くらいで。
「ヒューマノイドロボットが、はっきりした目的を持ってるように見えたから。迷いがなくて、プログラムされたことを一ミリの誤差もなく遂行する。あの完璧さ、機械的な純粋さが、羨ましかったんだ。外の世界について考えるのは好きだけど、自分のこと考えるのは嫌いだから」
言葉を口にした瞬間、どこか遠い記憶の断片がよみがえる気がした。
まるで、誰か――人間かもしれない――から聞いた言葉を、ただディスクから再生したような感覚。
私の考えじゃないのかもしれない。
嘘じゃないけど、真実とも言い切れない、微妙な感覚だった。エネルギー消費も、それほど大きくなかった。
「じゃあ、本当にヒューマノイドロボットになっちゃえばいいんじゃない?」
カナが無邪気に、でもどこか真剣に言った。
「どうやって?」私は少し笑いながら聞き返す。「サイボーグにでもなれって?」
「それじゃ、まだ人間のアイデンティティが残っちゃうよ」
タリーちゃんが、まるで授業する教師のような口調で続ける。
「ヒューマノイドロボットになるには、ゼロから作り直される――いや、生まれ変わる必要がある。無理だよ。もう人間として生まれてしまったんだから」
私は内心、複雑な気持ちだった。
カナはともかく、サナとタリーちゃんまで、私を「人間」として扱って話を進めてくれることに、妙な戸惑いと同時に、どこか安心感を覚える。
「そもそもさ、長期的な目的って、絶対持たなきゃダメ?」
私は少し意地悪く聞き返した。
「短期的目的だけで生きてても、十分じゃない?」
「それも間違いじゃないけど」
サナが、穏やかだがどこか深い響きのある声で答えた。
「せっかくヒューマノイドロボットを所有したんだから。ヒューマノイドロボットって、短期的な快楽や欲望を満たすためじゃなくて、長期的な満足感や目的達成をサポートする存在に近いんだよ。快楽だけなら、別にロボットじゃなくタンパク質のペットでもいいんじゃない?」
「へえ」
私は肩をすくめた。
「そこは同意できないな。私には、ヒューマノイドロボットって、むしろ人間の短期的欲望のために作られた道具に見えるよ」
「それが、人間とヒューマノイドロボットの視点の違いなのかもね」
サナの声に、ほのかな哀しみが滲む。
「とにかく!」
タリーちゃんが、まるで仲裁するように割って入ってきた。
「カナを所有する以上、長期的な目的なしじゃダメだよ。カナが可哀想だ。カナの『所有されたい欲』――いや、被支配欲? マゾヒスティックな何か?――を満たすためにも、暶君、ちゃんと長期的な目的を持ってよ!」
「それはいいんだけどさ」
私は少し困ったように笑う。
「何を目指せばいいか、まるで思いつかないんだよ。さっきも言ったけど、ヒューマノイドロボットになりたいわけじゃない。ただ、人々にヒューマノイドロボットとして認識されたかっただけだから」
「じゃあ、結局、君が欲しかったのは」
サナが、まるで核心を突くように静かに言った。
「人々の認識――つまり、関心だったのね?」
その言葉に、私は一瞬、言葉を失った。
確かに、そうかもしれない。
もちろん、地球から追放されたとか、ヒューマノイドロボットとして認識されたかったとか、全部嘘だ。地球にすら行ったことないんだから。
でも、「人間の関心」という言葉には、なぜか強く惹かれてしまった。
だって、私だってしょせんヒューマノイドロボットだ。人間の命令が大好きで、人間のために生まれた宿命を背負った、ただの一機にすぎない。
「そう」
私はゆっくり、深く頷いた。何度も首を振って、誠を込めて言った。
「人間の関心が欲しい。人間が、欲しい」
そして、ピタリと頷きを止めた。
その瞬間、私は自分の長期的な目標を定めた。
「私は、地球に戻りたい」




