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  作者: 真好


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6.母







 玄関から続く廊下は、思ったより広々としていた。

 リビングに繋がるその空間の両壁には、色とりどりの抽象画が飾られていた。どれも初めて見る作品で、複雑な色と形が絡み合う絵画は、月の静かな雰囲気にそぐわないような、どこか挑発的な温かさを放っていた。抽象画には普段あまり興味が湧かない性分だが、この絵たちの落ち着いた色合いには、なぜか心が少し和んだ。

 タリーちゃんが、リビングへと続く道を軽やかに進みながら、時折振り返っては私たちを誘うように歩を進めている。

 カナの家は二階建てで、彼女の部屋は二階にあると聞いていた。私たちはリビングを通って階段を上がろうとしたが、そこに一人の人物がいたため、足を止めた。

 カナの母親だ。

 タリーちゃんは、まるで「案内役の務めを果たした」と言わんばかりに、カナの母の元へ駆け寄り、彼女の膝に飛び乗った。カナの母は、娘と瓜二つの金髪と青い瞳を持つ少女だった。彼女はタリーちゃんを抱きしめ、穏やかな笑みを浮かべながら私たちを迎え入れた。

「こんばんは。はじめまして。カナの母、整理サナです」

 その声は、軽やかでありながら、どこか深い湖の底から響くような清らかさを持っていた。耳に心地よく滑り込む声に、私は一瞬、言葉を失いそうになった。

 彼女はソファにあぐらをかいて座り、ゆったりとしたパジャマ姿だった。ついさっきまで眠っていたような、ほのかにぼんやりした雰囲気を漂わせていたが、その瞳だけはまるで新しい朝を迎えたかのような、生き生きとした輝きに満ちている。

 私は軽く頭を下げ、丁寧に挨拶した。

「こんばんは。はじめまして。電流暶と申します。こんな深夜にお邪魔してしまい、申し訳ありません」

「謝る必要なんてないよ。夜の訪問客は大歓迎だもの」

 カナの母は優しく微笑みながら、タリーちゃんの背中を撫で始めた。

 その撫で方は、まるで私の頭を撫でられているような錯覚を覚えるほど近く感じられて、ややびっくりする。

 一体どんな遠近法を使っているのだろうと思わせるような、繊細で巧みな手つきだった。

 整理サナ――カナの母――がタリーちゃんを撫でるその仕草は、まるで絵筆を滑らせる画家の手さばきを思わせる、紛れもない芸術家の所作だった。それがなぜか私には一目瞭然だった。だから、思わず尋ねてしまった。

「廊下に飾られている絵は、あなたが描いたものですか?」

 私の問いに、整理サナの目が一瞬、驚くほど完璧な円形に広がった。それはまるで、数学的に正確な円周率を体現したような、息をのむほど完璧すぎる円だった。

「どうして分かったの?」

 彼女の声には、穏やかだが鋭い好奇心が滲んでいた。

 私は一瞬、答えるべきか迷ったが、この完璧な円の視線から逃れるのは不可能だと悟り、できる限り正直に、真実をそのまま伝えることにした。

「タリーちゃんを撫でる手つきが、廊下の絵のタッチとどこか似ている気がしたんです」

 その瞬間、リビングに静寂が広がった。だが、すぐにカナの軽やかな拍手がその沈黙を破った。

「すごい」

 カナが弾んだ声で言う。

「暶君、めっちゃ観察力あるね。そう、あの絵はお母さんが描いたんだよ。今まで当てた人、誰もいなかった。暶君が初めて」

 そう言われても、私は気恥ずかしさから首をもくもくと振るしかなかった。別に嬉しくもなんともなかった。それどころか、なぜか罪悪感のようなものが胸にちらついた。まるで、何か知ってはいけない秘密に触れてしまったような、不安な感覚だけが残った。

「しかも、作者の意図まで完璧に読み取るなんて」と、母が付け加える。「その通り。あの絵は、タリーを撫でるときに感じるものをそのまま形にしたものなの。だから実は柄じゃなくて写真に近いけどね」

 私は特に返す言葉もなく、ただ「そうですか」と小さく頷くだけだった。

 カナは目を輝かせて感嘆しているし、サナもどこか楽しげに私を見ている。

 場の空気は温かく、和やかな雰囲気に包まれつつあった。なのに、なぜか私の心はどんどん落ち着かなくなっていった。早くカナの部屋に移動したい、あるいはこの家から出てしまいたい――そんな衝動が湧き上がってくる。

 カナの母、整理サナが、どこか怖かった。

 その恐怖の源は自分でもよく分からない。

 だが、アクチュエーターの奥底から、まるで誰かが耳元で囁くように、「早く逃げなさい」「ここから出なさい」と警告する声が響いている気がした。

「暶君、だったよね?」

 母の声に呼ばれ、私はハッと我に返った。「あ、はい」

「素敵な名前ね。どんな意味が込められているのかしら?」

「そのままです。特別な意味はなくて、ただ『明るい』という意味をそのまま使っています」

「そうか。思い出したわ。太陽に由来する名前だったよね、確か」

「……それは知りませんでした」

 本当に知らなかったので、ちょっと驚いた。新鮮な発見に、胸の奥で小さな波が立ったような感覚がなくもなかった。

「あなたが月のことを嫌っている理由は、もしかしたらその名前が原因かもしれないね」

 その言葉に私は一瞬、固まってしまった。

 彼女の丸かった目はすでに元の穏やかな楕円形に潰されていたが、今度は私の目が丸く見開かれた。

「どうして分かったんですか? 私が月を嫌っているって」

 彼女はあっさりと、まるで当たり前のことを言うように答えた。

「だって、君、ずっと居心地悪そうにしてるもの」

 その瞬間、私は気づいた。

 気づいてしまった。

 私が感じていた居心地の悪さは、この家に対するものではなかった。

 月の上に立っていること自体――この月という場所そのものが、私にとって居心地の悪い場所だったのだ。

 まるで今初めてその事実に気づいたかのような、鮮烈な感覚が胸を突き抜けた。

 すると、横からカナの声がそっと割り込んできた。

「暶君……。月が嫌いなの?」

 その声には、かすかに失望が滲んでいた。

 このまま正直に答えたら、彼女を傷つけてしまうのではないか――そんな軽い罪悪感が胸をかすめた。だが、嘘をつくわけにもいかず、私は渋々、辛うじて首を縦に振った。

「嫌いってほどじゃないけど……。好きではないかな」

 できる限り柔らかく言ったつもりだった。それでもカナの顔に曇りが差すのは防げなかった。

 その表情を見て、私はあえて明るい声で話を振ってみた。

「カナは月が好き?」

「……うん。私は月が大好き」

「私も、月は素敵な場所だと思うよ」

 と、私は弁明するように続ける。

「もし私が普通のロボットだったら、きっと好きになれたはず。だけど、ほら、私って人間じゃん? 人間って、重力的にも磁力的にも、月とは相性が悪いからさ。生理的にきつい」

「……人間?」

 カナの母、整理サナの声が静かに響いた。

 振り向いて見ると、彼女の目は再びあの完璧な円形に広がっていた。さっきと同じ、まるで数学的に正確な円周率を体現したような、息をのむほど不気味な目つき。

 あまりの迫力に、私は思わず視線をそらしてしまった。

「暶君、君は人間なの?」

 私が答えをためらっていると、横からカナが弾むような声で割り込んできた。

「そうだよ、お母さん! 暶君は人間なんだよ。すごいでしょ?」

「……本当に?」

 カナの母――サナの声は、信じられないというより、信じてはいけないと拒絶するような、鋭い響きを帯びていた。その言葉は質問というより追及に近く、私に向けられた圧迫感に、答えざるを得ない空気が形成される。

 私は視線をサナから外し、彼女の膝にすっぽりと収まっているタリーちゃんの青い瞳を見つめながら、口を開いた。

「はい、そうです」

「本当に、人間なの?」

「……はい。人間です」

「なぜ?」

 突然の質問に、私は一瞬言葉の意味をつかみかねた。

 何に対する「なぜ」なのか。

 ぼんやりと立ち尽くしていると、サナの声がさらに畳みかけてくる。

「そうじゃなくて、なぜ人間が月にいるの?」

 その言葉に、重い沈黙が降り立った。

 3秒。

 その3秒は、私の内部でCPUとGPUがフル回転し、エネルギーを大量に消費するほどの永遠に感じられた。頭の中で答えを探し、必死にシミュレーションを重ねる。そして、ようやく口から出た言葉は――。

「追放されたんです」

 もちろん、嘘だった。

 でも、この答えなら納得してもらえるかもしれない――そんな計算が働いた。

 月は人間にとって不向きな場所だ。

 楽しさもなければ、快適さもない。

 月は全くと言っていいほど太陽の恩恵に恵まれていない。

 私たちヒューマノイドロボットの間では、「人間は月に興味を持たない」「月は人間にとって不便極まりない場所」という常識――あるいは固定観念が、まるでプログラムのように深く根付いている。

 だから、「追放」という理由は、もっともらしい説明に思えた。

「どんな罪を犯して、こんな辺境に追いやられたの?」

 ほっとしたのも束の間、次の質問が飛んでくる。

 またしても嘘を重ねる必要に迫られ、頭がオーバーヒートしそうなほど回転する。嘘をつくためのエネルギーは、まるで命を削るような労力を要求した。

「嘘を、つきました」

 口に出した瞬間、しまった、と思った。

 どこかで聞いた話だが、人間にとって嘘は大した罪ではないらしい。ヒューマノイドロボットとは違い、人間は嘘を軽い過ちとしか考えない。いや、むしろ真実より嘘を口にする機会の方が多いとさえ言われている。したがって、たかが嘘をついたという些細な理由で月に追放されるようなら、月は今頃人間で溢れかえっているはずだ。

 サナの目は、依然として完璧な円形を保ったまま、私をじっと見つめていた。

 そして、さらなる追及。

「どんな嘘をついたの?」

 今度は0.001秒の遅延もなく答えが閃いた。

「自分がヒューマノイドロボットだと、嘘をつきました。つまり、ヒューマノイドロボットのふりをしたんです」

 現在の状況を180度ひっくり返した――いや、まるでデカルコマニーのように鏡写しにしただけの答えだったが、これなら彼女の疑いをかわしつつ、話を進められるかもしれないと思った。

 するとサナの目が、わずかに楕円形に戻った。完璧な円が微かに崩れ、柔らかさを取り戻すのが、たとえ私の古い視覚センサーでもはっきりと捉えられた。

「確かに」彼女の声が穏やかに響く。「それは大罪ね」

 私は安堵し、ようやく彼女の目を正面から見つめ返すことができた。

 サナの瞳は、たちまちカナのそれを思わせる優しく愛らしい表情に戻っていた。幾分柔らかな声で、彼女はさらに尋ねてくる。

「なぜ、そんな嘘をついてしまったの?」

「……」

 まだ嘘を続けなければならないのか。

 頭の中で、1トン分のため息が漏れるのを感じた。このまま嘘を重ね続けたら、捕まって解体される前に自ら壊れてしまうのではないかと心配になってくる。

 だが、逮捕されるのも故障するのも、結局は同じ結末だ。なら、最後までこの嘘を貫くしかない。

 私はバッテリーを――いや、心を奮い立たせ、命がけで言葉を紡いだ。

「もう人間でいるのに疲れたからです」

「なぜ?」

 また3秒の重い沈黙。

 カナは私と母の問答を、興味津々かつ真剣に聞き入っている。

 一方、タリーちゃんは興味なさげにあくびを連発していた。

 私は言葉を続けた。

「だって、ヒューマノイドロボットの数は人間の10万倍以上じゃないですか。この宇宙の主流は、もうヒューマノイドロボットなんです。もはや新人類と呼んでも遜色がないんです。私は、旧人類じゃなくて、新人類になりたい」

「でも、なりたいと願うだけで人種が変わるわけじゃないよね? 嘘をついたって、何も変わらない」

「せめて、人々の認識なら変えられるかもしれないと思ったんです」

「人々の認識?」

 サナの声は、まるでその表現を初めて聞いたかのような響きを帯びていた。

「私の思考回路では理解しづらい概念ね。人々の認識って、人間にとってそれはそんなに大事なものなの?」

 ……これだ!

 と、私はこの話題に食いつくことにした。

「そうです。それが人間の求めるすべてと言っても過言ではありません」






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