4.契約
彼女の家は、まるでガラスでできた彫刻のようだった。
森を構成する鉄やアルミニウムなのにもかかわらず半透明になっている不思議な素材とどこか似ているが、冷たく硬質な金属とは異なり、柔らかな光をたたえたガラスでできていた。壁も屋根も庭も玄関も、さらには表札まで、すべてが色とりどりのガラスで形作られている。完全に透き通っているわけではないが、濃淡さまざまな色がにじむように重なり、ほのかに透けるその姿は、まるで夢の中の家のように幻想的だった。
「不思議な家だね」と私は感想を漏らした。「それに、すごく綺麗だ」
二階建ての一軒家は、ガラスの表面に光が踊るように反射し、視覚を満たす鮮やかな色彩で彩られていた。洗練された曲線と直線が調和した構造は、まるでアートと伝統的な住まいが融合したような美しさだった。
早く中に入って、この家の内側も見てみたい――そんな衝動が、じわじわと胸の奥で膨らんでいく。
「ありがとう」
カナは少し誇らしげに言った。
「実はお父さんが建築家なんだ。この家、最初は、こんなスケスケの家でプライバシーどうするの?って思って嫌だったんだけど、この森には誰もいないからね」
「え、そうなの?」
「うん。この森には私たち三人家族しか住んでないの。そもそも、この森自体をお父さんが作ったんじゃないかって話もあるくらい」
「話もあるって?」私は首を傾げた。「直接聞けば分かるんじゃない?」
「もちろん何度も聞いてみたよ。でも、なぜか答えてくれなくて」
「なんで?」
「分からないんだよね。お父さん、この森のことになると、なんか話したがらないの。まあ、そこまで気になって仕方ないわけじゃないから、もう聞くの諦めたけど」
「そうか。じゃあ、私が聞いてみようか?」
「たぶん答えてくれないと思うよ。それに、今はお父さん、家にいないんだ。超忙しいから」
そんな話をしながら、私たちは家に向かうことにした。
ガラスの門扉をくぐり、庭とも呼べるガラスでできた空間に足を踏み入れる。きらめく地面が足元でかすかに光を反射し、歩くたびに微かな音が響いた。私はカナに尋ねた。
「じゃあ、今、家にはお母さんだけ?」
「ううん、ペットのタリーちゃんもいるよ」
「ペット?」私は興味をそそられた。「何でできてるの? タンパク質?」
「まさか」カナがくすっと笑った。「タンパク質ペットなんて高すぎるよ。法律の規制も厳しいし。うち、そんなお金持ちじゃないって」
「じゃあ、どんなペット?」
「普通にカーボン素材でできてるよ」
「へえ、種類は?」
「猫」
「いいね」私は少しホッとした。「犬だったらちょっとアレルギーがあるから、まずかったかもしれない」
「え、そうなの?」カナが目を丸くした。「アレルギーって、不思議だね。人間でもカーボンペットにアレルギーって出るの?」
「……」
しまった、と私は心の中で舌打ちした。自分が人間を装っていることを、金魚並みの速さで忘れてしまっている。古くて性能の低いモデルだという自虐的思考が頭をよぎるが、なんとかそれを振り払い、ポーカーフェイスを保った。
「いや、物理的なアレルギーってわけじゃないんだ。犬って種に、なんか心理的な抵抗があるってだけ」
「え、犬嫌いなの? めっちゃ可愛いのに」
「そのわざとらしい可愛さに抵抗を感じるんだよね」
「……そうなんだ」
すると、カナの表情が一瞬で変わった。
それまで漂っていた愛らしい雰囲気や、慇懃な可愛げが、まるで真空掃除機に吸い込まれたように消え去ってしまったのだ。
まるで別人に変貌したかのような、急激な変化だった。
私の拙いポーカーフェイスなど比べ物にならないほど、ほとんど別人格に生まれ変わったかのようなその姿に、私は思わず息をのんだ。
「……整理さん、だよね?」
「そうです」
カナが答えた。
その声は、まるで機械の冷たい響きを帯びていた。
これまで彼女が聞かせてくれた、ホワイトチョコレートのような甘く柔らかな口調はどこにもなく、まるで無糖のアイスブラックコーヒーのような、冷たく突き放すような響きに変わっていた。
「私は整理カナです。何か問題でも感じましたか?」
「問題ってわけじゃないけど……。急に別人みたいになったから、ちょっとびっくりしたっていうか、正直、混乱してる。どうしたの? ホログラムでも使ったの?」
「違います。ただ表情の設定を少し変えただけです。気に入らない点等ございますか?」
「いや、そういうんじゃなくて」
私はますます戸惑いながら言葉を続けた。
「なんていうか、前のカナの方がよかった気がする。今のは、クールすぎるっていうか。格好いいとは思うけど、ちょっと……冷たすぎるかな」
すると、カナの表情がまた変わった。
最初に出会った、愛らしい女子高生のようなカナとも、今の冷たく鋭い印象とも異なる、どこか中間的なもの。
まるで両者が混ざり合って、味も感情も感じられない無機質な存在に変わってしまったような――そんな印象だった。
もちろん、どちらの姿にもそれぞれ魅力はある。でも、私にはどうしても「これじゃない」感が拭えなかった。
「もしかして、私がわざとらしい可愛さに抵抗があるって言ったのを、気にしすぎたんじゃない?」
「そりゃ、気にするよ。暶君に嫌われたくないから」
私は小さく笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。抵抗があるってだけで、嫌いじゃない。むしろ、可愛いものは好きだよ。ただ、犬はあまりにも『やりすぎ』な可愛さだから、そこにちょっと抵抗があるってだけ。カナは全然やりすぎじゃなかったから、元のままでいいよ。今のままじゃ、なんだか少し寂しく感じるかな」
「……そうなの?」
カナの表情が一瞬、大きなミスを犯したかのような後悔の色に染まった。だが、すぐに彼女は元の整理カナに戻った。その姿を見て、私は心の中で確信した。
うん、やっぱりこれが整理カナの「デフォルト」として一番似合う、と。
そんな風に、まるで他人を評価するような傲慢な思考に陥ってしまう。
古いモデルの悪い癖かもしれない。新世代に対する漠然とした不安を、評価という理性的な行為で中和しようとする、防御本能のようなものなのかもしれない。
いや、単に私の思考回路が妙なだけか。
だいたい、カナがどれくらい新しいモデルなのかも知らないのに。
結局、私はまだ何も知らない。
そして、こんな「何も知らない」状態が、実は結構気に入っていた。
そんな、まるでソフトウェアが軽いバグを起こしたような思考を何秒も巡らせていると、頭がエラー状態に陥ったような感覚に襲われた。良くあることだ。
そして、カナの澄んだ声が暗闇を切り裂くように響き、私を現実へと引き戻してくれた。
「これでいい?」
そうして改めて見つめた彼女の顔は、元の「デフォルト」に戻っていた。
金髪と青い瞳が織りなす、愛らしい整理カナそのものの表情。
知っているその姿に、胸の奥で安堵が広がる。まるで心臓部のパーツが静かに脈打つような、関節のモーターがそっと回転を始めるような、温かな感覚が全身を巡った。
私は、変化を――特に急激な変化を――本能的に嫌っているのかもしれない。新しさを渇望しているはずなのに、こんなにも変化が怖いなんて。バカバカしい。
「二度と……」
私は低く、唸るように言った。いや、これは命令だった。
初めて、彼女に命令を下した瞬間だった。
「二度と、その姿から離れないで」
するとカナは目を輝かせ、弾けるような笑顔で何度も頷いた。
「うん。絶対に、離れない」
「……変わらないで」
「変わらないよ、絶対。安心して」
彼女の声は、まるで月の砂を優しく撫でる風のようだった。
そして私たちはそのまま、互いの目を見つめ合った。
たぶん、10秒ほど。私の処理速度では一瞬に感じられたけど、きっとカナの高速なプロセッサにとっては、星が生まれて超新星爆発で消えるまでの、途方もなく長い時間だったかもしれない。少し悪い気もするが、これからは私のペースに合わせてもらうつもりだ。
低速の味を、彼女にも感じてほしい。
「じゃあ、整理さんの家、案内してもらっていい?」
私は視線を彼女の家――ガラス細工のような幻想的な建物――に戻し、穏やかに尋ねた。だが、カナはなぜか動こうとしなかった。
じっと立ち尽くし、私を真っ直ぐに見つめている。
その青い瞳には、ほのかに不満の色が滲んでいた。でも、その不満すら、彼女のデフォルトである愛らしい慇懃さを損なわないものだった。
私は尋ねた。
「どうした? 入らないの?」
カナが少し唇を尖らせ、口を開いた。
「その前に、ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
「なんで急に名字で呼ぶの?」
「え? そうだったっけ?」
「そうだよ」
今回の彼女の声には、明らかに不満が滲んでいた。いや、不満を超えて、怒りと言ってもいいほどの感情が込められていた。整理カナが私に対して初めて見せた、はっきりとした怒りの瞬間だった。
それを感じ取りながらも、私は少し意地悪く聞き返した。
「いけなかった?」
「いけません!」
彼女がきっぱりと言い放つ。
「私からもお願いがある。絶対に、名字で呼ばないこと」
「なんで?整理って結構かっこいい名字だと思うけど」
「そういう問題じゃないから! 暶君、わざとでしょ? 見え見えなんだから。私、最新型のソフトウェア搭載してるんだから、こんなの瞬時に見抜けるよ。だからふざけないで」
「……ごめん」
私は素直に謝った。
「分かった。これからは名前で呼ぶよ」
「呼んでみて」
「カナ」
「もう一回」
「カナちゃん」
「ちゃん付けしないで!」
また怒られてしまった。私は反省しつつ、訂正する。
「カナ」
「うん」
「カナ。これでいい?」
「うん。これでいい」
カナの顔から、さっきまでの可愛らしい憤りが、まるで潮が引くようにゆっくりと消えていった。彼女の表情は元の柔らかな輝きを取り戻し、どこかホッとしたような笑みを浮かべていた。
「これ以外の呼び方は、絶対に許さないからね」
「分かった。絶対に守る」
こうして、私たちの間に、ささやかな――でも確かな――契約が生まれた。




