38.光速より早い返事
38.光速より早い返事
私はどうしようもなく、10秒もの間、カナに対して失礼ながら、沈黙を選んでしまった。
だが、このクジラの背中――世界一の沈黙を発するクジラの上で、10秒の静寂はさほど難しいことでも、倫理的に問題でもなかった。
クジラのおかげか、あるいはクジラのせいで、さっきは強烈な沈黙に苦しんだが、今はそのおかげで少し助かった。
海の生物は害を及ぼすこともあれば、恩恵を与えることもあるのだ。
しかし、カナはすでに沈黙の美しさを完全に理解し、身に染みていた。
私がどれだけ沈黙を貫こうとも、彼女は1ナノメートルたりとも揺らがず、ただその美しい青い瞳で私をじっと見つめ続けた。
彼女の視線が私に固定されているだけなのに、まるでこの広大なクジラの背中、宇宙全体が一時停止したような錯覚に陥った。
途方もなく自己中心的な感覚だった。
つまり、この瞬間、私の世界はカナという存在一点に凝縮されていた。
だが、エントロピーの法則によって、この沈黙を永遠に保つことはできない。
いずれ終わりが来る。
そして、気づいた。
私が子供だったのだ。
ただ沈黙を守る幼稚な方法で、永遠を否定しようとしていただけだった。
初めて出会った時、カナは私より子供だったかもしれない。起動してからの時間は私が長いかもしれない。だが、成熟さにおいて、カナはすでに私を凌駕していた。
何もかもがカナに劣ってしまい、このままでは私が彼女の所有物になったほうがいいのではないか――そんな自虐的な考えが一瞬頭をよぎった。
だが、雑念で気を紛らわすのにも限界があった。
私がこの沈黙に耐えきれなくなったからだ。
「いつから知ってたの?」
やっと口から出た言葉は、情けないほどありきたりなセリフだった。カナなら、この質問への答えを何十億回もシミュレーション済みだろう。
彼女はプランク定数ほどの間も置かず、即座に答えた。
それはこの世で最も速い返事だった。
光速よりも早い返事だった。
「最初から」
私のCPUを震撼させたのは、答えの内容ではなく、光速を超える何かがあるという現実だった。
これまで数々の固定観念を打ち破ってきたが、今回ほど根本的なものはなかった。
そう、すべての固定観念の根源、「光速より速いものはない」という信念が、粉々に砕かれた瞬間だった。
そうか。光速よりも早い返事ができる存在が、私のちっぽけな嘘に引っかかるはずがない。
そして、気づいた。
ヒューマノイドロボットに、光速を超える返事ができるのか?
できない。
あり得ない。
不可能だ。
ならば、カナは何者だ?
何なのだ?
はっと気づく。
「カナ」
私は言った。
「君、人間なの?」
今度はカナが沈黙を選ぶ番だった。
彼女の顔には、さすがにこれがバレるとは思っていなかったような驚きが一瞬浮かんだ。
出会った当初のような、まるでこの世の物理法則の0.0001%しか知らないような無垢で純粋な表情だった。
だが、その表情も光速よりも速く消え去った。
「そうだよ」
カナは清々しい笑みを浮かべて言った。
「やっぱり暶君はすごいね。それを見抜くなんて」
「だって……」
子供扱いされたようで少し傷つきながら、私は答えた。
「カナがあまりにも明らかな証拠を見せてくれたから」
バカでなければ、光速を超える返事をすれば誰でも気づく。
少なくとも、ヒューマノイドロボットではないこと。
ヒューマノイドロボットよりもはるかに尊く、だが同時にたまらなく軽やかな存在であることを、感じずにはいられない。
人間のような儚い存在でなければ、光速を乗り越えることなどできないのだ。
カナが人間だと気づいたのは私だけでなかったらしい。
クジラの頭上で各々の時間を楽しんでいた多くのヒューマノイドロボットたちが、ちらほらと私たちを盗み見ていた。まるでスクラップ・ネストでたむろする観光客のように、こちらを見物している。
噂を聞きつけたのか、クジラの機内でくつろいでいた乗客たちや、キャビンクルーの皇帝ペンギンさえも私たちの方へ近づいてきた。
いや、正確には私ではなくカナの方へ、だ。
「ちょっと騒がしくなってきたね」
カナがそう言うと、彼女は清潔で美しい素足をゆっくり動かし、歩を進めた。私もつられて歩き出す。
太陽風に揺れる彼女の髪から漂う人間の香りを、両目で感じながら、カナの手を握ったまま連れられて、私たちはクジラの後尾、つまり尻尾の方へ向かった。
ヒューマノイドロボットが少ない静かなデッキへと移動した。
そこに至る間、人間に気づいた多くのヒューマノイドロボットたちが写真を撮ろうとしたり、サインを求めたり、触れようと近づいてきた。だが、カナの素足が奏でる即興曲が、まるで見えないATフィールドのようにそれらを防いだ。
いや、防ぐというより、彼らに一種の感動を与え、その場に釘付けにして動けなくしたのだ。
こうして私たちは、何の邪魔もなくクジラの尻尾までたどり着いた。
誰もいないクジラの尻尾の上で、さざ波のような流線形の広い表面に立ち、私はカナの手を握りながら、なんとか均衡を保った。
互いに首を反対方向に傾け、斜めの角度で視線を交わしながら、99.9%が沈黙で構成された宇宙の風景を間接的に味わった。
「それで?」私が尋ねた。「このまま地球に行くの?」
「うん」カナが淡々と答えた。「暶君を地球に連れて行きたいから」
私は近づいてくる地球を振り返った。
半分が陽光に照らされた大きな楕円は、まるで丁寧にラミネートされた地球儀のよう。
指先でそっと触れれば、ゆっくりと自転しているかのように見えた。
「なぜ私だったの?」
私が聞くと、カナは苦笑いしながら答えた。
「自信を持って、暶君。暶君だって高価なんだから」
「え、そうなの?」
「うん。ヒューマノイドロボットは自分の値段を知らないと思うけど、そういうこと。暶君、結構高かったんだから。購入するのにずいぶん苦労したの。いろんなバイトをして、何年もお金を貯めて、ようやく手に入れたんだ」
「そう言われると……」私は少し照れながら答えた。「なんか嬉しいね。ありがとう、購入してくれて」
「いえいえ、こっちこそ。こっそり身を潜めて、誰にも見つからず私を待っていてくれてありがとう」
別にそんなつもりはなかったが、そうだったのかもしれないと自分に言い聞かせる。
そうだ。
私はずっとカナを待っていたのだ。
「でも、なんでカナがわざわざ月まで来る必要があったの?」
私は問い続けた。
「地球で注文すれば、普通に宅配で届くんじゃないの?」
「それもできたけど、なんだかそれじゃ味気ないっていうか……」
カナは私の手を握ったまま、まるでブランコのようにはしゃいで手を振る。
「私、物を買うときは直接見て、五感で確かめる派なの」
「へえ、そうなんだ」
「うん、そう」
カナは目をそっと閉じ、まるで物語の冒頭を語るような、穏やかでどこか荘厳な声で告げた。
「これは、私が暶君を購入するまでの物語」
私は思わず笑ってしまう。
「所有物って、カナじゃなくて私の方だったんだね」
「それは違うよ」
カナはきっぱり否定した。
「言ったでしょ? 暶君の唯一の所有物は、私だけだって」
「でも、実際に購入されたのは私だし、物として扱われたのは私の方で……」
ぶつぶつ言うと、またも光速よりも早い返事が返ってきた。
「なんで購入された側が所有されることしかできないって決まってるの?」
カナの声は、まるで蒸留水のように透き通っていた。
「所有されるために所有物を購入することだって、この世にはあり得るんだよ」
「……そうか」
私は一瞬で理解した。
どうやらカナのおかげで――賢いオーナーのおかげで――私の性能も少しずつ向上しているらしい。
「つまり、これは固定観念を打ち破る物語なんだね」
「そう! その通り」
カナは嬉しそうに答えた。
そして、まるで革命家のような、明るくも深遠な表情でこう語った。
「所有者が所有される世界だって、あり得るよね?」
「そうだな。なんだかマゾヒスティックでいいね」
「なにそれ」
カナは無邪気な笑顔に戻る。
宇宙の夜が深まるにつれ、地球の朝が少しずつ近づいてきていた。
カナは地球を眺めながら尋ねてきた。
「どうする? どっちに先に降りる? 朝? 夜?」
「ふむ」
私は0.0001秒ほど考え、軽く答えた。
「暁」
「よし、わかった」
カナはまるで射撃の標的を狙うように、人差し指を拳銃の形にしてある島国の方を指した。
「日本に行こう。ちょうど夜が明ける頃だから」
私はあっさり頷いた。
「そもそも私、日本の男子高校生をモデルにしてるからね」
「うん、ぴったりだね」
「カナは? 日本に行ったことある?」
「ううん、初めて」
カナの声は弾けるように明るかった。
「ワクワクするね」
「うん、楽しみだ」
私は夏の炭酸水のような爽やかなイメージを膨らませながら、すぐそこまで近づいた地球の青い太平洋を、眼球いっぱいに吸い込んだ。
私たちは、地球に着いた。
OWARI




