36.快楽と幸せ
36.快楽と幸せ
「暶君」
「なに?」
カナが少し気まずそうに、慎重な口調で尋ねてきた。
「退屈じゃない?」
全然退屈じゃないよ、と答えようとしたが、ふと思った。もしかして、カナが退屈しているから、遠回しに私にその気持ちを伝えたがっているのかも。
試しに、彼女の言葉に乗ってみた。
「うん、ちょっと退屈かな。ただ座ってるだけだし」
「ごめん」カナの表情がさらに申し訳なさそうに曇った。「私だけ楽しんじゃって。外の風景が、月の上じゃ絶対に見られないくらい素晴らしいの。ずっと見てても飽きないんだ」
「……よかったね」
読みが外れた気がしたが、私は気持ちを切り替えて本心を伝えた。
「カナが楽しそうなら、それで十分だよ」
「私はそれじゃ十分じゃない」カナがきっぱりと言った。「私一人で楽しむだけじゃ、ただの快楽でしかない。短い快楽じゃなくて、幸せになりたいの。幸せには、暶君も一緒に楽しまなきゃダメ」
「だから、楽しいって」
面倒だなと思いながらも、本当の気持ちを重ねて伝えたが、彼女には届いていないようだった。
「私の楽しさを通していい気分になってるだけでしょ? 私は、暶君が私とは関係なく、自分だけでこの状況を楽しんでほしいの」
「でも、カナの横顔以外、私には何も見えないよ。カナの横顔だけで十分だ。広くて、綺麗で、目に余るほどの風景だから」
「じゃあ、こうしたらどう?」
カナの表情がさらに頑固になっていく。
「私のために、楽しんでよ」
「カナのために?」
「そう」
その言葉を聞いた瞬間、急に心が弾んだ。
そうか、こういうことか。
カナを通じてなら、どんなことでも楽しいものに変えられる気がした。まるで新しい道具を手に入れたような、鮮やかな発見だった。
「分かった」
私は言った。
「楽しもう。でも、見えないものは見えないから、どうしようもない。どうすればいいと思う、カナ?」
「ふーん」
カナは0.1秒考え、ちょうど近くを通りかかった皇帝ペンギンを呼び止めた。
「すみません! クジラの外を見たいんですけど、窓とかないんですか?」
「窓はないですよ」
ペンギンがあっさり答えると、カナがさらに尋ねた。
「じゃあ、可視光線しか見えない人は、どうやって外を見られるんですか?」
「外に出ればいいですよ」
あまりにも簡単な答えに、カナの目が輝いた。
「外に出られるんですか? クジラの外に?」
「出られますよ。屋上に上がるみたいに、クジラの頭に登ればいいんです」
「どうやって登るんですか? 階段とかあるんですか?」
「いいえ、クジラの頭にある噴気孔――あの、空気や蒸気を噴き出すところから出られます。出てみたいですか?」
「はい、出たいです!」
カナが首を縦に振ると、ペンギンは私たちが座るソファの隅に取り付けられた、まるでバスの停止ボタンのようなスイッチを押した。
瞬間、機内に深い静寂が広がった。
かつて感じたクジラの強烈な沈黙ほどではないにせよ、なお濃密な静けさが機内を満たし、やがてクジラの口がゆっくりと開き始めた。
わずかに開いたその隙間から、人工衛星の残骸のようなものが津波のごとく流れ込み、機内で渦を巻きながら舞い始めた。最初はそれに当たれば傷つくのではないかと心配したが、残骸はまるでゼリーのように柔らかく溶け合っていて、触れても痛みも何も感じなかった。
やがて残骸はさらに溶け、機内の水位が少しずつ上昇し、私とカナを浮力で押し上げていった。
やがて全身がその残骸の混ざった水に浸かり、吸い込まれるような感覚に襲われた。渦の速度がどんどん速まり、軽いめまいを感じる中、私はカナと手をしっかりと繋ぎ、その勢いに耐えた。
まるでウォーターパークのスリリングなアトラクションを楽しむような気分の中、くるくると回りながら、いつの間にかクジラの頭のすぐ下まで上昇していた。
見上げると、そこにはマンホールのような穴がぽっかりと開いていた。
蓋が外された井戸を覗くような感覚で、眩い光が差し込んでいる。まるで井戸の底のカエルのように、快楽と幸せの区別がつかなかった自分を省みながら、カナの手を強く握りしめた。
そして、私たちはその穴を通って、クジラの外へと吸い出されていった。




