32.面談
32.面談
私たちは中に入り、ドアを閉めた。
すると同時に、雨の音が聞こえてきた。
喫茶店の外では雨など降っていないのに、室内から見える外の景色は雨が降り注いでいた。
どういう仕組みかと考えると、さっきの落ち着いた子供の声が飛んできた。
「この喫茶店の外は月じゃないんだよ」
「じゃ、どこですか?」
カナが好奇心いっぱいの顔で尋ねると、その子が答える。
「地球だよ」
カナの声がさらに輝く。
「地球?! 私たち、もう地球に着いたんですか?」
「違う、違う」少女が否定する。「この喫茶店の外が地球ってこと。ここ自体は地球じゃないよ」
「じゃ、ここから出たら地球に行けるんですか?」
私が懐疑的に尋ねると、変わらず落ち着いた声が返ってくる。
「いや、出たら月だよ。ちょっとややこしい仕組みなんだ、ここは」
「そうですか……」
訳のわからない話はそこまでにして、私は喫茶店の室内を見回した。
雨の日にぴったりな、こじんまりとしながらも広々とした空間。古い木の温もりと、マスターの落ち着いた声に似た、穏やかな香りが漂う心地よい場所だった。
「いい店ですね」
ぽつりと呟くと、マスターが愛らしい笑みを向けてくれる。
「ありがとう」
マスターは9歳くらいにしか見えない幼い少女だった。
まるで小学校から帰ってきたばかりのような顔つきだが、深く淹れたお茶のような色の瞳は、何万年、何十万年も生きてきたウミガメのような落ち着きを湛えていた。
私よりずっと古いモデルだと直感した。
「何を飲む?」
マスターが、控えめな少年のような短い白髪を片手でかきながら尋ねてくる。
「水、ありますか?」
私が尋ねると、彼女は答える。
「もちろん、あるよ。彼女は?」
「私も暶君と同じものでお願いします」
マスターは後ろを向き、厨房――いや、シンクや調理台、あるいはカクテルカウンターのような場所で、30秒ほどかけて丁寧に水を2杯用意し、カウンターに置いた。
「どうぞ。座って、座って」
飲み物が出されてから、私たちは席に着いた。長いバーカウンターの右から3分の2あたりだ。
「飲んでみて」マスターが言う。「水、飲んだことある?」
「いいえ、初めてです」
私が言うと、カナも続く。「私も」
「じゃ、ゆっくり飲んだ方がいいよ。お腹壊さないようにね」
私は緊張しながら、透明なグラスに入った水を手に取った。酸素2つと水素1つでできたその液体を、月に運ばれたこの場所で飲んでみる。
一口含むと、味覚センサーが即座に反応した。これまで一度も使ったことのない舌のセンサーが、「味」という未知の現象にパニックを起こし、膨大なエラーを吐き出し始めた。
「っ……!」
急に頭痛が襲い、CPUが過熱し始めた。
私は両手で頭を抱える。
0.5秒後、頭痛が収まり、ようやく「味」という感覚を味わえるようになった。
一つの感覚が目覚める瞬間だった。
「うまい……」
私が素直に感嘆を漏らすと、隣で一気にグラスを飲み干したカナが続ける。
「美味しい!」
マスターは茶色の瞳を輝かせ、軽くお辞儀するように首を傾けてくれた。
「ありがとう」
私たちは水に夢中になり、飲む行為に没頭した。カナは何度もおかわりを頼み、飲み続ける。
たくさん飲んでも腹に余裕がなくなった頃、ようやく本題に入った。
雨の音が少し強まった気がする。
「それで?」
マスターが頬杖をつき、興味深げな表情で尋ねてくる。
「貨物船に乗りたいんだよね?」
「え」私は驚く。「知ってたんですか?」
「私、ヒューマノイドロボットの心を読める能力があるんだ」
「えっ」さらに驚く。「それって、ハッキングですよね?」
「人聞きが悪いな」マスターが小悪魔的な笑みを浮かべる。「読心術だよ」
私は大いに焦った。
ヒューマノイドロボットなのに、背中に冷や汗をかくほど狼狽した。
すると、マスターはまるで私の心を覗き込むような、柔らかくも鋭い声で言った。
「心配しなくていいよ、少年。私の口は、太陽より重いんだから」
「……」
「知ってる? この太陽系に、太陽より重いものなんて存在しないのよ」
「それは分かってますけど……」
「じゃあ、もう心配しなくていいよね?」
「……分かりました」
一瞬の沈黙が、水の入ったグラスに映る光のように静かに流れた。
次に、カナがマスターに尋ねた。
「じゃあ、私たちがなぜ貨物船に乗ろうとしているのかも、全部ご存じなんですね?」
「そうね……」
だが、マスターの少女らしい顔は、複雑な数学の証明に直面したかのように一瞬曇った。
彼女は私とカナを交互に見つめ、思案するように言葉を続けた。
「つまり、人間を知りたい、ってこと?」
「知りたいというか……」私が慌てて口を開いた。「地球に戻りたいんです。私は人間だから、元々は地球にいたはずなんです。でも、なぜか今は月にいる。どうしてこうなったのか、記憶にはないんですけど……とにかく、地球に戻れば、なぜ私がここにいるのか、昔の記憶が戻るんじゃないかって」
「ふむ」マスターが腕を組み、じっと私を見つめる。「つまり、失った記憶を取り戻すために、地球に行こうとしてるんだね?」
「そうです!」私は強く頷いた。「地球は私の記憶のデータベースみたいなもの、外部メモリみたいなものだと思ってるんです。きっとそこに……」
だが、言葉を重ねるほど、自分の説明がしどろもどろになっていることに気づいた。
まるで嘘をついている人間の典型的な、言葉に詰まる瞬間。
焦りながらカナの顔をちらりと盗み見ると、彼女の青い瞳が心配そうに揺れている。
私は慌てて言葉を繕った。
「とにかく、記憶を取り戻すために、地球に行きたいんです」
「でもさ、」マスターが静かに割り込んだ。「記憶って、月でも作れるよね?」
「それはそうなんですけど……」少し苛立ちが混じる。「なぜか月の記憶は、すぐに消えてしまうんです。たぶん、月の重力が弱いせいか……」
ふと、ひらめいたように言葉が勢いづいた。
「そう! 重力です! 月の重力が弱いから、記憶がちゃんと定着しないんだ。地球にいた時の記憶も、月に来てから全部、ふわっと宇宙の彼方に溶けちゃったんです。だから、地球に行けば、強い重力に縛られた私の記憶が、どこかに保存されてるはずなんです!」
「いや、少年」マスターが首を振った。「記憶と重力は関係ないよ」
「……」
その言葉に、私は何も言い返せなくなった。
気まずさを紛らわすように、半分残ったグラスを手に取り、冷や汗を飲み込むように一気に水を飲み干した。
「とにかく」マスターが話を引き取った。「事情は分かった。君たちは地球に行く貨物船に乗ろうとしてるんだよね?」
「はい」
言葉を失った私の代わりに、カナがはっきりと答えた。
マスターは組んでいた腕をほどき、スツールから降りた。
バーカウンターの高さのせいで、彼女の小さな姿が一瞬視界から消える。だが、軽やかな足音がバーの向こうから響き、やがて彼女はカウンターを回って私たちの前に現れた。
背広を着た彼女は素足で、歩くたびに不思議な音が響く。
まるでピアノのFコードが穏やかに鳴り、私が彼女を見るとFの音が、視線を外すとCの音に変わるような、奇妙な調和を奏でていた。
「ついてきて」
マスターはあくびでもするような気怠い表情で、私とカナを手招きした。
私たちはスツールから降り、彼女に近づいた。彼女は一瞬、私たちを天秤にかけるような計算的な視線を送った後、踵を返して歩き出した。
私とカナは彼女の後ろをついていく。
マスターは店の表側ではなく、裏手へと向かった。そこには、店と厨房を隔てるような、厚手のビロードのカーテンが揺れている。彼女がそれをそっとめくると、私たちも続いて中に入った。
そこはもうキッチンではなく、広大な裏庭のような空間だった。
アイボリー色にほのかに発光する芝生が敷き詰められ、高校の運動場を十倍に広げたような滑走路が広がっていた。




