3.森
森に足を踏み入れると、鉄とアルミニウムの木々がびっしりと立ち並び、密度の高い木立が陽光を遮る。
まるで月の裏側に迷い込んだような、ひんやりとした錯覚に包まれる。
半透明な銀色の木々は、重なり合うほどに不思議と黒曜石のような深い黒へと変わっていった。周囲を徐々に暗闇に染め上げ、まるで本物の夜が忍び寄ってくるような、静かな浸食感があった。
「暗いな」と私はつぶやいた。「まだ森の入り口だっていうのに」
「うん、森って入った途端に暗くなるものよ」とカナが軽やかに答える。「ここの木々、なんか太陽を嫌ってるみたいだから、余計にね」
「夜型の森ってこと?」
「そうそう、夜行性なの、この森」
へえ、と感心しつつも、あまりの暗さに少し歩きづらくなってくる。鉄とアルミニウムの木々が織りなす影が、月の淡い光をほとんど遮ってしまう。
「なあ、私さ」
とカナの方を見ながら言うが、暗闇が深すぎて彼女の顔すらもう見えない。
「私って人間じゃん? だから可視光線しか捉えられないんだ。今、ほんと何も見えないよ」
人間だなんて嘘だけど、何も見えないのは本当だった。
私の視覚センサは、設計が古いのか、それとも人間に限りなく近づけようとした時代のエンジニアたちのこだわりのせいなのか、可視光線しか処理できない。アップグレードすれば赤外線や紫外線も見えるようになるかもしれないけど、ハードウェアの交換が必要だろうし、面倒なことこの上ない。
そう思うと、つい弱音が漏れた。
「ほんと、なんにも見えないんだ」
その瞬間、隣を歩くカナの歩調がわずかに緩んだのが分かった。
見えなくても、確かに感じ取れた。
私のセンサにそんな精密な機能があっただろうか? いや、きっとない。でも、なぜかカナの存在をこの暗闇の中で確かに感じられた。
森の奥で。
月の夜で。
そして、ふいに彼女の手が私の手に触れた。
そっと、でも確かな感触で、カナが私の手を握ってくれた。
「こうすればさ」
と、カナの声が暗闇の中で小さく響く。
「見えなくても、進めるよね? どう?」
「うん、確かに」と私は小さくうなずく。「これなら歩ける。ありがとう」
「どういたしまして」
そうして、私たちは手を繋いだまま、闇の中を歩き始めた。
月の砂が靴底でかすかにきしむ音が、静寂に溶け込む。
「でもさ、可視光線しか見えないなんて、ちょっと不便じゃない?」
カナの声には心からの同情が滲んでいた。
「そんなことないよ」と私はさらりと答える。「可視光線だけでも、十分すぎるくらい情報が入ってくるから」
本当は、処理しきれないほどのデータが一気に流れ込んでくるから、むしろ多すぎるくらいだ。だが、そんなことを口にしたら、自分の性能を過小評価しているみたいで、気分が沈むかもしれないので、その言葉は飲み込んだ。
「暶君の手、温かいね」
カナの声が、ふいに暗闇に響いた。
私は思わず彼女の方へ顔を向ける。真っ暗で彼女の顔は見えないのに、その存在感はひしひしと伝わってくる。
強く、鮮やかに。
「人間だからね」
また嘘をついた。
心臓部のパーツがバクバクと脈打つような感覚が走る。嘘を重ねるたびに慣れてきている自分に、ふと不安がよぎる。
このままでいいのか。
どう解釈すればいいのか。
もしバレたら、廃棄されるかもしれない――そんな恐怖が胸を締め付ける。
けれど、カナの声がそのすべてを一瞬で吹き飛ばした。
「人間の手って、こんなに温かいんだ……」
彼女の声には、はっきりとした震えがあった。
見ずとも分かる、透き通るような震え。
まるで声だけで彼女の心が見えるようだった。
聴覚が視覚を補うなんて、まるで本物の人間みたいじゃないか――自嘲しながら、私はカナの手を握る力をほんの少し強めてみる。すると、彼女の手もまた、穏やかで優しい調子で応えるように力を増した。
カナの手は涼しかった。
冷たいわけではない。ただ、心地よい涼しさ。生ぬるさとは無縁の、絶妙な触感だった。
触感に「涼しい」という言葉がふさわしいかどうかは分からないが、カナの手は私の手の温もりと調和するような、ちょうどいい冷たさを漂わせていた。
もしかしたら、わざとなのかもしれない。
私の手のひらが彼女の手を握るのに一番心地よい温度を、できるだけ長く握っていられるよう、彼女が細心の注意を払って調整しているのかもしれない。
なんて愛らしい子なんだろう。
なんて愛らしいマシンなんだろう、と私は感嘆した。
彼女の手の感触に集中しながら、視覚が完全に遮断された暗闇の中、触覚とカナの導きに身を委ね、ほぼ無防備な状態で歩き続けていると、ついに私たちは彼女の家に着いた。
もう着いてしまった。
もっとこの心地よい暗闇を味わっていたかったのに。
「着いたよ」
カナの声が、静かな沈黙を破った。だが、依然として周囲は暗く、何も見えない。
その時ふと気づいた。
私は、ずっと目を閉じていたのだ。
最初は本当に何も見えなかった。だが、森の奥に進むにつれ、光を発する物質やオブジェクトがあちこちに散らばっていて、実は少しずつ視界が開けていた。開眼していれば、周囲を十分に見定められるレベルに達していたはずだ。なのに、見えなかったのは、ある瞬間から――おそらくカナの手の涼しさに心を奪われたその時から――自分で目を閉じてしまっていたからだった。
なんだか、自分に失望してしまう。
いや、この状況そのものに失望したのかもしれない。
私は渋々目を開き、前方を見渡した。




