26.ノクターン・アルテミス
26.ノクターン・アルテミス
スクラップネストを後にし、貨物船の待つスターポートを目指して走り出す。
後ろを振り返ると、スクラップネストを訪れていた観光客たちがざわついている。
誰も足を踏み入れないような辺境の地から、ピカピカの新品の月面ローバーを駆って現れた私たちに、皆一様に驚いた様子だ。中にはスマホを取り出し、動画を撮影して火星に向けて発信するヒューマノイドロボットもいた。
「なんか、私たち、火星で結構有名人になってるみたいだよ」
カナが無線端末を覗きながら楽しそうに教えてくれるが、私はまるで興味が湧かなかった。
とにかく、ドライブを続ける。
舗装されていない、でこぼこした真空深海の地表を、まるで車の妙技を披露するかのように駆け上がる。クレーターの縁まで登り、月面ローバーの残骸を掻き分けて突き進んだ。
ゼロ・ストライクは十分に頑丈で、残骸にぶつかっても軽々と踏み越え、時には跳ね返すようにして、力強く、快調に進む。しかも、かなりの高速で。
ナビゲーションやレーダー、ライダーは必要なかった。貨物船のスターポートははっきりと視界に捉えられ、地球を目指してまっすぐ進めばいいだけだった。
私はハンドルをゆったりと握り、路面の凹凸に合わせてアクセルを微妙に調整する。平均速度は、かつてカナと私が全力疾走した時の七倍以上。
ゆったりとした心の余裕を保ちながらも、驚くほど速く、楽に進めた。
視界を流れる風景は変化に富み、単調さを嫌うカナにとっても申し分なかった。目の前に広がる月の荒野、点在する残骸、遠くに浮かぶ地球の光――すべてが、純粋にドライブの喜びを高めてくれる。
カナは窓の外を眺め、時折小さく感嘆の声を漏らしながら、風景を心から楽しんでいるようだった。
静かの海を抜けると、まるで国境を越えたかのように風景が一変した。
そこには「静かの海 終点」と記された看板が立ち、まるでマラソン選手がゴールテープを切るように、ゼロ・ストライクを駆りながら両手を上げて勝利のポーズを取ってみた。
だが、周囲を見渡した瞬間、荒涼とした月の荒野が一瞬にして消え、ホログラムが切り替わるように夜の都会が広がった。
都市の入り口、ハイウェイの始点には、ネオンライトの電光掲示板が私たち三機を迎える。
「ようこそ、ノクターン・アルテミスへ」
その名に記憶がざわつく。
永遠の夜の街――人間が月で最後に築いたとされる都市。どれだけ太陽光を浴びても、まるでブラックホールのように光を呑み込み、人工の輝きで昼夜を逆転させた、狂おしいほどの喧騒に満ちた場所。
全人口がヒューマノイドロボットだけで構成され、月で最も人口密度が高いと言われる街。それが私の知るノクターン・アルテミスの全てだった。
「ノクターン・アルテミスか……」
カナが思案深げにつぶやく。
「私、銀森に引っ越す前はずっとここに住んでいたんだ」
「そうだったのか」私は驚く。「引っ越したんだ」
「うん」
「どうして?」
「ここ、めっちゃうるさいんだもん。ノクターンって名前なのに」
確かに、「ノクターン」という名は静かな子守唄を連想させるが、目の前に広がる街はまるで夜の繁華街そのものだ。
けたたましい音ではない。聴覚を刺激する騒音ではなく、視覚や五感を過剰に揺さぶる、計算された喧騒――まるでカクテルをシェイクするように感覚を混ぜ合わせ、強制的に高揚感を煽るような雰囲気だ。
「おお」ゼロ・ストライクが声を上げる。「タイヤが急に楽になったぞ」
地面を見ると、でこぼこだった月の地表が滑らかなアスファルトに変わっていた。
これまでダンパーや安定システムをフル稼働させていた環境から一転、磨き上げられた平坦な道に触れると、ゼロ・ストライクはまるでくすぐられたように速度を5キロほど落とした。
私は特にアクセルを緩めたわけではなかったが、その判断に文句はない。むしろ、余裕を持って街の風景を眺める観光客の気分に切り替えた。
派手な色彩と賑わいに満ちた街は、見どころに事欠かない。私はハンドルから手を離し、ゼロ・ストライクに自動運転を任せて、街の輝きに目を奪われる。カナがぽつりとつぶやく。
「変わってないね」
その声には、どこか寂しげな響きがあった。
私は初めて訪れるこの街に言葉を返す術もなく、彼女の頬をちらりと見る。ネオンの光に濡れたその横顔は、まるでこの街の一部のように溶け合っていた。
なぜ彼女はここを去ったのだろう。
「それで、貨物船のスターポートはこの街にあるのか?」
私は本題に切り込む。
騒がしい雰囲気に飲まれそうで、集中できる話題が必要だった。
「うん、あるよ」カナがすぐに答える。「でも、正確な場所は私も知らない。前に聞いた話だと、街の端の方にあるらしいけど」
「そうか。行ったことないんだ」
「うん、あそこはヒューマノイドロボットの立ち入りが禁止だから」
「へえ」私は首を傾げる。「変な話だな。ヒューマノイドロボットを地球に運ぶ貨物船なのに、ヒューマノイドロボットは立ち入り禁止なんて」
「正確には、人間に売られていないヒューマノイドロボットが禁止、ってことかな」
「ふむ……」
どこか皮肉な臭いが漂い、思わず鼻をつまみたくなる気分だった。
「なんか差別っぽいよね。売れてる子と売れてない子を分けるなんて」
「でも、売れてない子を売れてる子と同じ扱いにするのも、差別っちゃ差別だよね」
「まあ、そうかもな」
皮肉の二乗はなんだろう?
数学は得意じゃないから、すぐ考えるのを放棄した。代わりに、これからのことに意識を切り替える。
「じゃあ、スターポートの場所に詳しそうなヒューマノイドロボットや情報源、いるかな? カナ、この街に知り合いや友達はいなかった?」
「いたけど、だいぶ時間が経っちゃってるし、みんな今頃売られて地球に行っちゃったかも」
自嘲気味なカナの口調に、私は彼女の頬をモールス信号でも打つように軽く3.5回ほどつついて、強引に笑みを浮かべさせた後、提案する。
「まだ私たちみたいに売られてない子もいるかもしれない。とりあえず、カナの知り合いのところに行ってみない? 情報が必要だよ」
「でも、会えたところで意味ないかも」カナは渋々答える。「この街の住人は、スターポートの場所なんて知らないよ。市長がその情報を知るのを禁じてるから。人間に売られない限り、スターポートの住所は普通知れないんだ」
「じゃあ、この街のほとんどの住人がスターポートの場所を知らないってこと?」
「うん」カナが頷く。「興味もないし。人間に興味があるだけで、スターポート自体はどうでもいいんだ。あくまで人間のための道具みたいな場所だから」
「道具そのものが面白いのに」
今度はカナが私の頬を軽くつついてくる。
「そんな変わった考え方、この月じゃ多分暶君だけだよ」
「まあ、私は人間だからね」
一瞬、CPUが発作を起こしたかのように胸がぎゅっと締め付けられる痛みが走るが、0.0001秒で消えた。
嘘の小さな代償だったらしい。
まるでわざと免疫をつけるかのように、嘘に嘘を重ねる。
発作に発作を重ねる。
「人間は、ヒューマノイドロボットとは思考回路がまるで違うから。互いに理解し合うのは難しいんだよ」
「え、じゃあ、私、暶君のこと一生理解できないまま? そんなの嫌だよ」
カナの目が今にも涙をこぼしそうになるが、わざとらしい演技だとすぐに気づく。だから私も、まるでオペラの役者みたいな大仰な表情を装って反論する。
「理解できないからこそ、惹かれるんだよ」
すると、前を走るゼロ・ストライクが首を振り返らせ、言ってくる。
「雑談はそこまでにしない? これからどうするの?」
その声には、どこかイライラした響きがあった。
「目的地が設定できないと、私、なんか調子狂うんだよね。今このままじゃ放電しそう。早く行き先決めてよ」
「あ、ごめんごめん。じゃあ、まず街のインフォメーションセンターに向かって」
「どこだよ、それ」
「一番人の行き来が多い駅の近くにありそうじゃない? 適当に探してみて。検索機能くらいついてるだろ?」
「そりゃ、もちろん。カナが作ってくれたんだから」
ゼロ・ストライクが少し得意げに言うと、しばらく自分の検索の世界に没頭し、黙々と静かになった。
3秒後、答えが返ってくる。
「見つけた。じゃ、インフォメーションセンターに向かうよ」
「うん、頼んだ」
私たちは、深い夜に溶け込みながら、知らず知らず高揚しつつ、スターポートの場所を知るため、インフォメーションセンターへと向かった。




