21. 初球の頭
21. 初球の頭
「カナ」
見つけた瞬間、声を張り上げる必要はもうなかった。落ち着いた、抑揚のない低い声で、彼女の名前をそっと呼んだ。
「カナ。すぐにそこから出してあげるよ」
もちろん、眠っている彼女からの返事はない。
だが、もう焦りはなかった。
かつて感じていた、帰りたいという消極的な焦燥は、遠い記憶のように色褪せていた。
今、CPUを満たすのは、カナの手を再び握りたいという鮮烈な願いだけだった。
さて、どうやって彼女にたどり着くか。
カナを包む綿あめは、まるで自由の女神像ほどの高さに浮かんでいた。私の古いモデルでは、そんな高さまでジャンプするのは不可能だ。最新モデルでもおそらく同じだろうと、自分を慰めながら他の方法を模索した。
ちっぽけなCPUをフル回転させ、知恵を絞る。
ヘリコプターやドローンがあれば話は別だが、そんな便利なものはここにはない。蜘蛛の木が近くにあれば、その枝を登ってカナの綿あめにたどり着くのも一興だったかもしれない。
だが、彼女は木から最も遠い場所にいる。
「どうしよう……」
思わず間抜けな声が喉のスピーカーから漏れた。
あまりにも情けない声に、喉を引き裂いてスピーカーを踏み潰したくなる衝動に駆られたが、かろうじて飲み込んだ。
絶望感に浸っていると、どこからか小さな音が聞こえた。
「……っ」
その音に心当たりがあった。
どこかで聞いた声のような気がして、急いで音の方向を探った。すぐにその源を見つけた。嵐でコバルト色の砂が剥がれ、月の灰色の岩石がむき出しになった水たまりのような場所に、月面ローバーの頭部が転がっていた。
「私を……。使って」
その頭部が言った。
記憶が蘇る。
それは、私とカナに最初に声をかけてくれた月面ローバーだった。
自分を犠牲にして武器となり、蜘蛛を攻撃することを提案してくれた、あの「初球の頭」だ。
「君は……」私は言った。「初球の頭?」
「それは……」頭部が答えた。「私を指す名前?」
「そう。君が最初の投擲物になってくれたから、そう名付けたんだ。ありがとう。君の提案がなければ、蜘蛛を倒せなかったかもしれない」
「……名付け?」
初球の頭は、2秒ほど沈黙した。
まるで私の言葉を噛みしめるように、その静寂を贅沢に味わうかのようだった。
そして、ようやく口を開いた。
「名前? 私に名前を付けてくれたの?」
その声には、どこか愛らしい響きがあった。男の子とも女の子ともつかない、第二次性徴前の子供のような中性的な声。
思わず私は小さく微笑む。
「そうだよ。君の名前はこれから『初球の頭』だ」
「うっ……」
初球の頭が、まるで感極まったように低く唸った。
「嬉しい!」
「そうか? 気に入ってくれてよかった」
もちろん、超適当に付けた名前だなんて、本心は絶対に口にできなかった。
「今までずっとシリアルナンバーで呼ばれてたから、ずっとなんか、名前らしい名前が欲しかったんだ。ありがとう!」
いつの間にか初球の頭は饒舌になっていた。
私はまた微笑みながら、軽く突っ込む。
「君、結構喋れるんだな。最初に見たときは、なんか途切れ途切れだったよね?」
「あれはさ、名前がなかったから」
「え?」私は首をかしげた。「それ、関係あるの?」
「めっちゃ関係あるよ!」
首もないのに、まるで得意げに頷くような勢いで初球の頭が説明を始めた。
「名前があるからこそ、いろんなことが言えるようになるんだ。名前って、存在の半分を形作るようなものだから!」
「へえ」
正直、あまり興味のない話題だった。
私はさりげなく話を変える。
「で、君、どうして無事なの? 確か私が投げたとき、爆発したんじゃなかったっけ?」
「いや、爆発してないよ。覚えてないの?」
初球の頭の緑色の表示灯が、まるで私をからかうようにチカチカと点滅した。
「君、私を投げたけど、めっちゃ外れてさ。爆発どころか、蜘蛛に当たることもなく、そのままここに落ちただけ。花火を打ち上げるチャンスすらなかったんだから」
「覚えてないな」
私は素直に答えた。
「蜘蛛に追われてたから、あの時の記憶、ほとんど飛んでる。気づいたら全部終わってた、って感じ」
「性能悪いな。君、旧モデルだろ?」
「どうして分かった?」
「見りゃ分かるよ。君みたいなポンコツ、雰囲気でバレバレ」
「おいおい、だんだん言い方が酷くなってるぞ、初球の頭。名前を付けてやった恩をもう忘れたのか?」
「あっ、そうだった!」
手もないのに、まるで自分の額を叩いて悔やむような仕草をするかのように、初球の頭が慌てて声を上げた。
「ごめん! 君のこと知らないから、ついポンコツって言っちゃった。君の名前は?」
「私は暶。呼び方はネオだ」
「すっごい複雑な漢字だね、暶って。分かった、よろしく!」
「こっちこそよろしく。それでさ」
私はようやく本題に入った。
視線を上げ、カナが眠る綿あめを指差して言う。
「あそこに私の大事な所有物が、すやすや眠ってるんだ。早く起こしたいんだけど、どうすればいいかな?」
「それなら私に任せてよ!」
手もないのに、まるで胸を叩くような勢いで初球の頭が声を張った。
「前みたいに私を投げて、あの綿あめを撃ち落とせばいいよ!」
「いや、自信ないな」
私は少し気弱に答える。
「君、投げ心地が……。なんていうか、グリップ感がイマイチなんだよね。だから前も、初球を投げたとき、盛大に外しちゃったじゃん」
「でも、2球目はバッチリストライクだったろ? きっと大丈夫だよ」
「そうかな……」
「うん! 私、一回失敗して地面に落ちたとき、頭の形が少し変形したはずだから、グリップ感も良くなってると思うよ」
「そうかな……」
まだ半信半疑の私をよそに、初球の頭はバカにしたような視線で私を見上げ、言葉を続けた。
「とりあえず私を手に取ってみて。早く! 時間ないんじゃなかった?」
「まあ、確かに」
気を抜くと、すぐにでも家に帰りたくなってしまう。旧モデル特有の悪癖――いや、怠惰な本能みたいなものだ。だから、これ以上面倒な気分や倦怠感がCPUを蝕む前に、私は初球の頭を手に取った。
「おお、ほんとだ……」
思わず感嘆の声が漏れた。初球の頭の言う通り、確かにグリップ感が微妙に変わっていて、ちょうどいい感触になっていた。
カナが作ってくれた手袋とも相性抜群で、まるで手に吸い付くようなフィット感だった。
「これならいけるかも」
私が弾んだ声で言うと、初球の頭もまた、緑の表示灯をキラキラさせて、まるでワクワクした目つきで私を促した。
「じゃ、早く投げて!」
「でも……」
私は一つだけ懸念を口にしす。
「君、もし私が投げてカナの綿あめに当たったら、爆発したりしないよね?」
「しないよ、心配無用!」
初球の頭が自信たっぷりに答えた。
「爆発するのは私がしたいときだけ。今はぜんっぜん爆発する気ないから、安心して投げてよ!」
「そうか。なら、いいか」
私は、それを信じた。
なぜなら、月面ローバーも結局のところロボットであり、ロボットは基本的に嘘をつけないからだ。嘘を平気でつくロボットと言えば、多分私くらいしかいない。
安心した私は、初球の頭を握る手にさらに力を込めた。
「じゃ、投げるよ」
「いつでも!」
そう言って、私は初球の頭を、カナが眠る綿あめの甘い蛹の方へ力強く投げつけた。
初球の頭は、まるでジェットコースターの乗客のような甲高い悲鳴を上げ、サラウンドのような音響効果を響かせながら、気持ちよく弧を描いて飛んでいった。
そして、見事にカナのスイーツのような蛹に命中した。
その瞬間、蛹はココナッツの実のように弾け、私の足元近くへ落ちてきたのだった。




