17.戦い
17.戦い
巨大な蜘蛛は、空中に張り巡らせた銀色の糸を滑るように降りてきた。
無数の長い脚が、まるでピアノの鍵盤を弾くような優雅さで動く中、その一本が突如、槍を投げるような鋭い勢いで私たちに向かって伸びてきた。速度は目に見える範囲を超え、まるで時間が一瞬だけ歪んだかのようだった。
私とカナは咄嗟に反対方向へ飛び、攻撃をかわす。
蜘蛛の脚は、私たちが直前まで立っていた地面に、注射針のように鋭く突き刺さった。その衝撃で淡いピンク色の煙が小さな雲のようにふわりと広がり、月の灰色の地表に儚く溶けた。
「暶君!」
カナの声が、さほど遠くない場所から響いてくる。
「大丈夫?」
「うん、俺は平気だ!」 私も叫び返す。「カナこそ大丈夫か?」
「うん、平気!」
刺さった脚は、まるで蛇が獲物を逃がすのを嫌うように、ぬるりとした滑らかな動きで蜘蛛の本体へと戻っていった。
私たちはピンクの煙を避けながら、互いに近づいた。幸い、二人とも怪我はない。だが、攻撃を避けるために地面に身を投げたせいで、制服は月の砂で泥だらけになってしまった。
「どうしよう……」
カナが少し泣きそうな顔で呟く。
「この服、どこで洗えばいいの?」
「地球に着いたら、きっと洗濯機を借りられるよ。コインランドリーだってあるはずだ」
「じゃ、早く地球に行かなきゃね!」
「うん、でもその前に……」
私は視線を上げ、蜘蛛の本体を睨みつける。
宇宙服に包まれた人型のシルエットが、まるで悠然と王座に座する支配者のように、蜘蛛の中心で私たちを見下ろしている。
「あいつをなんとかしないと、な」
カナもまた、泣き顔を押し殺すようにして蜘蛛を睨み返した。
だが、考える暇も与えられなかった。蜘蛛の攻撃は、まるで嵐の前の雷鳴のように間断なく続いた。最初の脚が地面から抜けるや否や、別の脚が即座に襲いかかってくる。
私たちは慌てて身を翻し、矢継ぎ早に降り注ぐ攻撃を回避するしかなかった。
その攻撃は、まるでにわか雨のように執拗で、巨大な脚の速さは目に見える範囲ではあったものの、休む間もない連続攻撃に私たちは翻弄された。
蜘蛛は意図的に私たちを分断しようとしているのか、攻撃のたびに私とカナの距離がじわじわと離れていく。まるで、運命に引き裂かれる恋人たちのように、否応なく引き離されていく感覚だった。
「暶君!」
「カナ!」
互いに叫び合うが、声は次第に遠ざかる。
ふと、このままカナと永遠に離れてしまうのではないかという予感が胸をよぎった。だが、驚くべきことに、その予感は強い寂しさや嫌悪感を呼び起こさなかった。
私はその事実に、内心で小さく驚いた。
そうか。
このままカナと別れれば、また一人に戻れる。
蜘蛛の攻撃を連続で回避しながら、私は頭の片隅でそんなことを考え始めた。
一人が好きだった。
カナが突然私の人生に飛び込んできて、地球を目指すなんて突飛な計画を思いつかなければ、こんな危険な目に遭うこともなく、月の静かな地表で、まるで廃棄された機械のように穏やかに放電しながら、永遠とも思える時間を過ごしていただろう。
そして、何より、嘘をつく必要もなかったはずだ。
蜘蛛の36本目の脚の攻撃をかわしながら、私は「嘘」について考えを巡らせてみる。
記憶に残る限り、数え切れないほどの年月を生きてきたが、嘘をついたのはカナと出会ってからが初めてだった。それまでは、嘘は死と同義であり、死ぬまで口にすることはないと信じていた。
月の世界では、嘘は最も異質な出来事だ。
嘘という言葉を口にするヒューマノイドロボットすら、見たことがなかった。
学校でも、嘘について学ぶことはなかった。嘘をつかないのが当たり前で、私たちのCPUにはその本能が深く刻み込まれていたからだ。
初めて嘘をついた瞬間を思い出す。
カナに「自分は人間だ」と告げた、あの突飛で途方もない嘘。
107本目の脚の攻撃をかわしながら、私はその記憶を追う。まるで千年も前の出来事のように遠く、どこか懐かしい高揚感に浸り始める。
そのせいか、私は108本目の攻撃を避けきれなかった。左腕に鋭い脚が直撃し、衝撃で地面に倒れ込む。
たかが腕一本の損傷だったが、嘘をつき続けたことによるソフトウェア的なダメージが、着実に私のシステムを蝕んでいた。
カナと出会ってから積み重なった嘘の代償が、私を脆く崩れ落ちさせた。
その倒れ方があまりにも劇的だったのか、蜘蛛が私への攻撃を止める。
すでに息絶えた獲物と見なしたのだろう。だがその代わり、カナへの攻撃が倍増する。
彼女の姿はすでに私の視界から消え、遠くから「暶君!」と叫ぶ声がかすかに聞こえるだけだ。1キロメートル以上離れているかもしれない。彼女の速さでも、私の元に戻るには時間がかかるだろう。それよりも、攻撃が彼女に集中していることが気がかりだった。
腕一本を失い、動けなくなった私は、このままCPUがシャットダウンしてしまうのではないかという漠然とした不安に駆られた。だが不思議なことに、エネルギーが少しずつ回復し始めていた。太陽も発電装置もないこのクレーターで、いったいどこからエネルギーが供給されているのか。
ふと、すぐ隣に目をやると、ひどく損壊した月面ローバーが横たわっているのが見える。
2メートル四方の太陽光パネルが、まるで捨てられた看板のように転がっている。それに、私の危機感知システムが勝手に作動し、脊髄のような部分から細い銅線が無意識に伸び、月面ローバーのパネルに接続されていた。疑問だったのは、太陽光パネルが機能するには光が必要なはずだが、どこから光を得ているのかという点だった。
見上げると、クレーターを照らす無数のスポットライトが、まるでザクロの実のように密集した光を放っていた。その光がパネルに当たり、私の体にエネルギーを供給していたのだ。
徐々に体が回復していくのを感じながら、私は立ち上がる準備を始めた。




