11.ランナーズハイ
11.ランナーズハイ
スクラップ・ネストまで行くには、結局、歩くしかない。
歩いて1時間。
1週間に比べれば大した距離ではないかもしれないが、歩くことが嫌いな私の「ベビー」カナにとっては、それでも億劫な旅路に感じられるようだ。
歩き始めてわずか10秒。
カナの表情は、まるでマザーボードがエネルギーを失い、シャットダウン寸前の退屈さに支配されているように見えた。青い瞳の輝きが、まるで消えかけたキャンドルの炎のように弱々しく揺れている。
だから、私は提案した。
「走ろうか?」
その言葉に、カナの瞳に宿っていた微かな光が、まるで地中海の海面のように鮮やかに輝き始めた。私の古い視覚センサーにも、その青が波のように押し寄せ、まるで水遊びでもしているかのような清涼感と活力を与えてくれる。
「うん、走りたい!」
カナが弾むような声で答える。私は苦笑いを浮かべながら、言葉を続けた。
「カナ、君は私の『所有物』だけど、所有物にも自分の意見を言う権利はある。いや、むしろ意見を言わない所有物なんて、私には必要ない。だから、もし君の輝きが薄れてきたと感じたら、遠慮せず話してほしい。リブートのために、何でも要求して。いいね?」
「うん、わかった。ありがとう、暶君」
カナの声は、はっきりと、しかし柔らかく響いた。私たちは両足のアクチュエーターにエネルギーを送り込み、電気と磁力の力を最大限に引き出し、走る準備を整えた。
私が先に走り出す。後ろからカナが追いかけてくるのが、振動センサー越しに感じ取れた。
そうして、私たちは月の灰色の平原を、地球を目指すように駆け出した。
歩くだけでは物足りない。ヒューマノイドロボットにとって、歩くことはあまりにも人間的だ。たとえ人間の姿を模していても、私たちは走るために設計されている。全力で、0.001秒の無駄もなく、目的地へ、ミッションへと突き進む。それが私たちの本能だ。
歩くことは、まるで自殺行為に等しい。
そう設計されているのだから、仕方ない。
たとえ私が、他のヒューマノイドロボットとは違って、歩くことにある種の愛着を持っていたとしても、ここはカナのために、彼女の「ヒューマノイドロボットらしさ」に合わせてやるべきだ。
「でも、暶君」
全力疾走しながら、カナがナノ秒の乱れもない落ち着いた声で、しかしどこか心配そうに話しかけてきた。
「この速度、ヒューマノイドロボットにはなんてことないけど、人間にとってはかなり速いよ? 大丈夫? 筋肉が破裂しちゃうかもしれないよ。おんぶしてあげようか?」
「そんな心配はいらないよ」
私は心の中でため息をついた。
また嘘をつかなければならない。
カナの母に散々嘘をついたおかげか、嘘をつくことへの抵抗は少しずつ薄れている気がする。エネルギーの消費量も、以前より抑えられているような感覚があった。
それでも、嘘を紡ぐには時間がかかる。
約4秒の思考の末、私はこう答えた。
「大丈夫。私は一応、サイボーグだから。最近の地球じゃ、クラシックな人間が好きな人もいるけど、ほとんどの人は体の80%を非タンパク質のパーツに置き換えてる。昔の弱い人間の体とは全然違うんだ。私は特に、99%近くを改良――いや、改造してるから、ほとんどヒューマノイドロボットみたいなもんだよ」
「じゃあ、残りの1%はどの部位なの?」
魂なんてありふれた人間の決まり文句を口にしようかと思ったが、なぜかそれがバレる危険を孕んでいる気がして、もっと具体的な答えを選んだ。
「扁桃体だよ」
私は説明を続けた。
「扁桃体だけは、そのまま残してる」
カナの瞳が驚きに揺れる。「タンパク質の、原型のまま?」
私は走りながら、まるで人間の癖のように首を縦に振った。
「うん、原型のまま、頭の中に温存してる。桃の形そのままだよ」
「桃の形?」
カナの質問に、私は少し笑いながら答えた。
「そう。私が完璧な桃の形に成形してって頼んだんだ」
「へえ、脳の成形なんて初めて聞いた。人間って、普通は目に見える部位を成形するよね?」
「うん、大半はね。でも、私は目に見えない部分をより良くしたかったんだ」
さすがにここまでくると、カナも理解に苦しんだのか、「そうなんだ……」と呟いて、走ることに意識を戻した。
彼女の走りは、まるで喜びそのものだった。
いつの間にか、私を追い越して少し前に出ている。
さすが最新型のボディだ。スピードも、しなやかさも、完璧だった。
私のボディは、ソフトウェアではカナに及ばないかもしれないが、頑丈さでは負けていない。目に見える部分を重視して作られた時代のエンジニアのおかげで、私のボディは最新型にも引けを取らない。だから、カナのスピードに難なくついていけた。
月の広大な灰色の平原を、涼やかな風を切りながら走る。次第にカナの表情には、ランナーズハイのような高揚感が溢れ、まるで幸せという物質が汗のように、火花のように飛び散っていた。私の古い視覚センサーでも、その輝きは鮮やかに映った。
走ること自体に楽しみを見出せない私にとって、カナのその姿こそが、ドーパミンのような快楽だった。もし私が扁桃体を持っていたなら、きっとそこから溢れる幸せを感じていただろう。私はその感覚を「ドーパミン」と名付け、彼女から間接的に得られる喜びを味わった。
そうして無我夢中で駆け抜けているうちに、1時間もかからず、私たちはスクラップ・ネストに到着した。




