10.歩くことは嫌
10.歩くことは嫌
「というわけで」
私は頭を整理するように口を開いた。
カナと二人、月の地面に突き出た岩の頂上に腰を下ろし、遠く青く輝く地球を眺めながら――その光景を、風景を、じっくりと味わいながら、地球への計画を話し合う。
「地球に行こうと思うんだけど、どうすればいいかな?」
カナが少し考えてから答えた。
「まずは移動手段を考えるべきじゃないかな」
「そりゃ、まあ、ロケットでしょ」私はすぐに思いつく。「もしくはシャトルかな」
「地球と月を往復するシャトルなら、会社の貨物船が一番頻繁に運行してるかもね」
「確かに。それ以外に選択肢ってある?」
「いや、たまに人間が月の生産ラインを点検しに来ることもあるらしいよ。稀だけど」
「なるほど」
少し考えを巡らせ、私は結論を出した。
「じゃあ、とりあえずその貨物船――ヒューマノイドロボットを地球に運ぶシャトルに、こっそり潜入して乗っちゃうってのはどう? バレないように、密かに」
「うん、うん」カナも頷く。「私もそれが一番現実的で実現可能な方法だと思う」
「さすがにゼロからロケットを作るなんて無理だしね。イーロン・マスクじゃないんだから」
「そうだね」カナも笑いながら同意する。「すでにあるものに便乗する方が絶対いいよ」
「じゃあ、カナ」私は尋ねた。「月と地球を往復するシャトルの情報って何か知ってる?」
「ちょっと待ってて」
カナはそう言うと、わずか0.15秒後に情報を話し始めた。
「今、一番頻繁に往復してるシャトルは『ルナ・フレイター』ってモデル。 全長は約200メートルで、コンテナ式の貨物倉を複数搭載してる。核融合エンジンを使ってて、月の重力を離脱してから地球に到着するまで、だいたい3日から5日かかるらしいよ」
「セキュリティはどうなってる?」
「もちろん、AI監視カメラはたくさん設置されてるけど、そんなに厳重な体制じゃないみたい。なんせ、ヒューマノイドロボットは基本的に大人しいから。カメラがあるのは、人間やエイリアンが紛れ込んでないかをチェックするためで、ヒューマノイドロボット自体への監視は結構緩いんだって」
「なるほど」私は頷いた。「要するに、一度乗っちゃえば、あとは楽勝ってことか」
私は頭の中で想像してみる。
貨物船の貨物倉に積み込まれ、他のヒューマノイドロボットたちと一緒に、じっと座ったまま黙々と地球に運ばれる自分の姿。隣にはカナがいて、二人で手を繋いでいる――いや、手を繋ぐなんてイレギュラーな行動は、カメラの注意を引くかもしれないから控えた方がいいか。実際、シャトル内の雰囲気や状況が分からない以上、慎重になるべきだ。
「問題はね、」カナが少しトーンを落として続ける。「どうやってそのシャトルに乗るか、なんだけど」
その言葉に、会話が途切れ、二人とも黙って地球を眺めることにした。
青く、白く、眩しく輝く地球は、まるで楕円形の宝石のよう。
どれだけ見つめても飽きることのない、息をのむ美しさだった。
私の古い視覚センサーは可視光線しか捉えられないけれど、この景色は、きっと私が受け取れる情報の集大成の中で最も美しいものだと直感していた。
「普通にその貨物船に乗るには、どうすればいいんだろう?」
私はあえて会話を続けるために、すでに分かっていることを尋ねてみた。
カナは律儀に答えてくれる。
「まず、誰かに――人間に購入されないとね」
「購入か……」
「購入されると、案内係のロボットが迎えに来てくれるらしいよ。人間型じゃなくて、自動運転車みたいなやつ。それに乗って、祝福の言葉をかけられながら貨物船まで運ばれるんだって」
「じゃあ、私たちの場合は、その自動運転車が来てくれないから、自分たちで歩いて行くしかないよね。歩くと、どのくらいかかりそう?」
「結構かかるよ」
カナは少し考えるように視線を地球から外し、0.015秒ほど停止してから答えた。
「ここから一番近いローンチポートは『静かの海』のポート。距離は1,004キロメートルだから、急いで歩いてちょうど一週間くらいかかるよ」
「一週間か……」
私はため息をつくふりをして呟いたが、正直、それくらいなら大したことないと思っていた。だが、作りたての最新型であるカナにとっては、まるで人生の半分にも感じられる長い時間なのかもしれない。
「じゃ、歩こうか」
私がそう言うと、カナは少し渋々といった様子で、でもちゃんと付き合ってくれた。
こうして、私たちは地球をただ眺めるのをやめ、座りっぱなしの姿勢から解放され、立ち上がって地球の方向へ歩き始めた。
「この方向で合ってるよね?」
私が確認すると、カナは0.001秒以内に頷いた。
「合ってるよ。このまま直進すれば、『静かの海』のローンチポートに着く。月の表面では一番大きいポートらしいから」
「じゃ、シャトルに乗れるチャンスも多いかもしれないね」
「でも、逆に警備が厳重かもしれないよ」
「急にネガティブになったな」
私は少し驚いた目でカナを見た。これまで明るい雰囲気だったカナが、珍しく慎重な物言いをしたからだ。その変化に、どこか新鮮さを感じつつも、モチベーションが下がるのは避けたかったので、声をかけ直す。
「そんなに気が乗らない?」
「いや、行くのはいいよ」カナは素直に答える。「ただ、歩いて行くのがちょっと嫌い。体を動かすの、あんまり好きじゃないんだよね」
「さっき家を出る時、充電しなかったの?」
「ううん、バッテリーは満タンだよ。一週間歩くくらい、ぜんぜん問題ない。ただ、非効率っていうか……」
「なるほど」
私はすぐに理解した。
カナは最新型だ。
技術が進化すればするほど、効率性が重視される。
効率を追求する哲学で作られた製品には、自然と効率を求める傾向が染みついている。作りたてのカナには、その哲学がまだ体にまとわりついているのだろう。
一方、旧型モデルの私には、そんな効率へのこだわりはすっかり抜け落ちている。むしろ、非効率さを厚かましく楽しむことさえできる。それゆえ、カナの効率を求める感覚は、どこか共感しづらい領域だった。
効率の心地よさを、私はすっかり忘れてしまっていたのだ。
でも、納得はできた。
つまり、カナはまだ「子供」なのだ。
子供のヒューマノイドロボット。
人間はかつて、子供をベビーカーで運んだという。なら、カナを運ぶには、ベビーカーが必要になる――そんな結論に至った。
だが、私は今、無一文だ。
家に帰れば、物々交換に使えそうなものはあるかもしれないが、帰るのは面倒だ。それに、家はここから遠すぎる。
ローンチポートに行くより時間がかかるかもしれない。
そんなことをしたら、カナの表情はますます曇るだろう。
彼女の暗い顔も見てみたい気はするが、面倒くさいのは私自身が嫌だ。
じゃあ、どうやってベビーカーを手に入れるか。
私はカナをじっと見つめながら、考えを巡らせた。
だが、私の低性能なCPUではどうにも良い案が浮かばない。
結局、カナに頼ることにした。
「カナ、歩いて行くの嫌だよね? 遠いし。さすがに一週間は長いって、私も思う。人間の体感だと、10年以上の歳月に感じられるかもしれない。山の形が変わり、川の流れが変わるような、永遠に近い時間だ。そんな長い間歩くのは、拷問に近いよね」
「いやいや!」
カナが慌てて両手を振る。
「そこまで言ってないよ! 全然平気だよ。暶君と一緒なら、一週間でも一年でも、永遠でも、ぜんぜん退屈しない。むしろ、嬉しいくらい!」
私は思わず笑みを浮かべた。
「そう言ってくれてありがとう。カナ、ほんと優しいね。大好きだよ」
「……っ」
カナの顔が赤く染まる。最新型ならではのリアルなビジュアル反応に、見ているこっちまで楽しくなるような気分だった。
「そんなカナが大好きだから、カナのボディを無駄に酷使したくないんだよね。私の正直な気持ち。だからさ、乗り物があったらいいと思うんだけど、何かいいアイデアない?」
「乗り物?」
カナの顔の赤みが、歓喜や嬉しさのピンク色に変わっていく。その愛らしい変化を微笑ましく見守りながら、私は彼女の答えを待った。すると、0.0005秒でカナが答えてくれた。
「そういえば、この辺に月面ローバーがあるはずだよ」
「月面ローバー?」
私はあえて繰り返して言ってみた。なんというか、ずいぶん古臭い響きの言葉だ。
「それって、昔、人間が月を探査するために持ち込んだあの乗り物のこと?」
「そうそう。その残骸を集めたゴミ収集所みたいな場所があるの。そこに行けば、なんとか乗り物を工面できるかもしれない」
「そんな場所があったんだ」
私はほとんど家にこもっていたから、近所のことは何も知らなかったなと反省しつつ、もっと詳しく聞いてみる。
「知らなかった。もう少し詳しく教えてくれる?」
「うん、いいよ」
カナが詳しく説明してくれる。
「そこは『スクラップ・ネスト』って呼ばれてて、ヒューマノイドロボットたちの間ではちょっとした観光地として有名なんだ。月面ローバーにはまだ人間の匂いが残ってるから、間接的に人間の気配を感じられるって人気なんだよ」
「観光地か……」
観光はあまり好きじゃないけど、今回は観光が目的じゃない。
「じゃ、そこに行けば、ヒューマノイドロボットが結構うじゃうじゃいるかもしれないね」
「うん、最近はちょっと人気が落ちたみたいだけど、それでもそれなりに賑わってるはず。暶君、人の多いところって苦手?」
「うん、あんまり好きじゃない。でも、乗り物を手に入れるためなら仕方ないよね。ここからどのくらいかかる?」
「たぶん、歩いて1時間もかからないよ。でも、方向はここから正反対」
「じゃ、早速行ってみようか」
私は歩く向きを180度変えた。カナも一緒にくるりと向きを変えてついてきてくれる。そして、こう言ってきた。
「でも、人が多いから、月面ローバーを手に入れるのは難しいかもしれないよ」
「でも、全部捨てられたゴミみたいなものだろ? 誰かが所有してるわけでも、管理してるわけでもない。ただ集められて放置されてるだけだよね?」
「それはそうね」
カナは納得したように頷いてくれる。理にかなってると思ったのか、共感してくれたようだ。
「じゃ、私たちが拾ったところで、問題はないはずだ」
「確かに、そうだね」
カナの顔がますます活気づいてきた。
「問題は、そのポンコツな――ただの鉄の塊みたいなローバーがちゃんと動くかどうかだけど」
「それは、着いてからなんとか組み合わせて、修理したりすれば動かせるかもしれないよ」
おお、さすが最新型らしい自信に満ちた発言。
カナの頼もしさと可愛さに、私は心の中で感嘆した。まるで理想的なヒューマノイドロボットだ。
同時に、自分がだんだんヒューマノイドロボットらしくなくなっているような、微かな気配が鼻孔をよぎった。
それを無視して、とりあえず足を進めることにする。
こうして、私たちはスクラップ・ネストに向かって歩き始めた。




