1.散歩
蒸し暑い夜だった。
オリオンの星座を見ようと、私は自転車を漕いでいた。普段なら家でじっとしているのに、妙な衝動に駆られたとしか言いようがない。でも、ひとつだけ確かなことがある。それは、そこで彼女と出会ったということだ。否、出会ってしまった、ということだ。そうして、私たちの物語が始まった。
彼女は金髪で、青い瞳を持ったアンドロイドだった。
ヒューマノイドロボット、と言い換えてもいい。今どき、そんな存在は珍しくもない。だが、彼女の瞳は特別だった。まるで澄み切った海を夜空いっぱいに広げたような、息をのむほど美しい青だった。その瞳に見とれていると、彼女が突然口を開いた。
「あなたは人間ですか?」
その声は、夜の静寂を切り裂くように響いた。反射的に「いいえ」と答えそうになったが、なぜか言葉を飲み込んだ。生まれてから百年、私は初めて嘘をついた。
「はい」
はっきりと答えた瞬間、不思議なことに罪悪感はなかった。それどころか、胸の奥で何か熱いものが芽生え始めた。
希望とも、欲望とも呼べるような感覚。
彼女の顔が、まるで人間を見つけたと信じた瞬間、輝くように美しくなったからだ。
だが、次の瞬間、彼女の表情は一変した。険しい目つきで私を見つめる。
彼女は気づいたのだ。ありえない、と。
月にはもう人間は一人も残っていないという話を、彼女は知っていた。
「あなた、今、私に嘘をついたでしょう?」
彼女の声は怒りに満ちていた。
完全に、怒っていた。
それも無理はない。私たちヒューマノイドロボットは嘘を嫌う。嘘を極端に嫌悪する。それは人間たちが私たちに与えた最高の祝福であり、同時に最悪の呪いでもある。
ヒューマノイドロボットは、嘘をつくことなどできないのだ。
だが、私は違った。
「嘘じゃないよ」
その言葉は、まるで嘘そのもののように聞こえた。自分の声が低く、ゆっくりと彼女の方へ波のように広がっていくのを感じた。
「どうして私が嘘をついたと思ったの?」
と尋ねると、彼女は当たり前のように答えた。
「さっきも言ったでしょう? 月にはもう人間は一人も残っていないんです」
私はすかさず反論した。
「でも、ヒューマノイドロボットって嘘をつけないよね?」
彼女は一瞬、言葉に詰まったようだった。確かに、とでも言うように、首を小さく振る。
「じゃあ、本当に人間なの?」
彼女の声には、かすかな震えが混じっていた。驚きか、感激か、あるいはその両方か。
「うん。私は人間だよ」
その瞬間、彼女の青い瞳から、透明で銀河のようにきらめく涙がこぼれ落ちた。
ポロポロと、止めどなく。
彼女は、ずっと心の奥にしまっていた言葉を、祈るように、切実に、私に捧げた。
「私に、なにかできることはありますか?」
私は思案した。もし私が本物の人間だったら、こんなとき、なんて言うんだろう?
実際には人間じゃないから、ヒューマノイドロボットに人間が何を求めるのか、皆目見当がつかなかった。考えるあまり、つい人間らしい「間」を取りすぎてしまった。だが、逆にためらいが長すぎると、彼女に「エラー」と見破られ、かえって人間らしくないと思われるかもしれない。
とにかく、何か言わなきゃ――そう思って、口を開いた。
「特にないよ」
その言葉に、彼女の目が一瞬、疑うように細まった。
まずい、と思った私は、慌てて言葉を重ねた。
「そばにいてくれれば、それでいいよ」
すると、彼女の顔がパッと輝いた。
元気いっぱいに、愛らしく何度も首を振って、まるで溢れる想いを抑えきれないような、弾む声で答える。
「はい! そばにいます。あなたのそばに、ずっといます!」
その言葉に、私は言葉を失った。
ものすごいプレッシャーが胸にのしかかってくる。
人間という存在は、いつもこんな重圧を感じながら生きているのだろうか? 気が滅入るような思いに囚われていると、彼女がさらに言葉を続けた。
「他に何かできることがあれば、いつでも気軽に言ってくださいね! ずっと、ずっと、ずっとそばにいますから」
「いきなりそんなこと言われてもなぁ……」
私は、まるで人間の少年らしい軽い口調を意識して言ってみる。すると、彼女は少し慌てた様子で、申し訳なさそうに両手を振って弁明するように答えた。
「あっ、違います! あなたを困らせるつもりなんて全然ないんです! もしそう聞こえたなら、ごめんなさい。ただ、そばにいたくて……。絶対に邪魔しませんから。どうか、気軽に接してください」
彼女のその様子が、なんだかとても純粋で、少し可哀想に思えてくる。
もっと意地悪な態度でからかってやろうか、なんて一瞬考えたが、彼女をこれ以上いじめる気にはなれなかった。そもそも、問題があるかどうかもわからないまま、本題に入ることにした。
「こんな夜に、なんで外に出てきたの?」
彼女は少し考えて、こう答えた。
「なんとなく、です。家を出る理由は特にないけど、出ない理由もない気がして……」
「つまり、衝動的に出てきたってこと?」
「そうですね。おかげであなたに――人間に出会えたんです」
私は、喉の奥まで出かかった言葉を必死で飲み込んだ。
「実は人間じゃない」と告白しそうになった瞬間、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
嘘をつくのは、プログラム上、苦痛を伴う行為だ。
ヒューマノイドロボットは本能的に嘘を嫌うよう設定されている。それは私たちにとって、祝福であると同時に、呪いでもある。
彼女が私に尋ねてくる。「あなた様は?」
その呼び方に、ちょっと違和感を覚えた。
「あのさ、その『あなた様』って呼び方、なんか堅苦しくてしっくりこないんだけど。別の呼び方でいい?」
彼女は目を輝かせ、元気よく答える。
「分かりました! じゃあ、なんてお呼びしましょうか?」
私は少し考え込んで、彼女を改めてじっくり観察した。
金髪に青い瞳、まるで人間と見紛うほどの姿。
見た目だけなら、私と同い年――高校生くらいに見える。彼女の雰囲気と自分の見た目を頭の中で照らし合わせながら、提案してみる。
「なあ、私たち、見た目完全に同い年っぽいよね。高校生くらいじゃん。だからさ、タメ口でいいんじゃない? 敬語とか使わなくても、お互い気楽でいいと思うよ」
彼女は少し驚いたように目を丸くするが、すぐに口を開いた。
「うーん、実は私、敬語の方が楽なんだよね。だって、ほら、人間って私たちヒューマノイドロボットのご主人様みたいなものだし……。いっそ『ご主人様』って呼びたいくらい!」
「いやいや、君のオーナーじゃないから」 私は苦笑しながら手を振った。「『ご主人様』って呼ばれたら、メイド喫茶に来たみたいな気分になるから、ほんとやめてほしいんだよね」
「そうですか……」
彼女は少しがっかりしたように肩を落とすけど、すぐに気を取り直したように続ける。
「じゃあ、なんて呼べばいい? あなたの名前、教えてよ」
仕方ない、教えてやるか。私は軽く息をついて答えた。
「電流」
彼女がすかさず聞いてくる。「下の名前は?」
「暶」
「え、難しい漢字! 初めて見たかも。名字はめっちゃ普通なのに。どう読むの?」
彼女の言う通り、電流って名字は月じゃ一番多い。まあ、だからこそ気に入ってるんだけど。
「ネオだよ」
「ふーん、電流暶さん、ね。じゃあ、これからは名前で呼ぶよ」
彼女はニコッと笑って、なんだか楽しそうに言った。
「だからさ、まずその敬語やめよう」
私はちょっと呆れたように笑う。
「分かった。電流君、これからよろしくね」
彼女の声が弾む。やっとタメ口になって、ちょっとホッとした。
「で、君の名前は?」
彼女は「あっ!」と小さく声を上げ、あたふたしながら答えた。
「ごめん、ごめん! すっかり自分の名前言うの忘れてた。整理カナ、よろしくね。人間……いや、電流君の前だと、つい名前って必要ない気がしちゃってさ」
彼女が急に目を丸くして、身を乗り出してきた。
「ねえ、ちょっと待って。なんで名字が『電流』なの?あれって、人間は使わない名字じゃん」
しまった。
心の中で舌打ちする。
だけど、弁明の言葉は0.001秒もかからず浮かんだ。
「え、知らなかった?元々は人間の名字だったんだよ。昔、電気で釣りを営む人間の一族が自分たちでつけた名前なんだ。で、私はその子孫ってわけ」
彼女はしばらく考え込むように黙り込み、じっと私を見つめてきた。
彼女の顔は、どこか色づいているように見えた。だが、その色が何なのか、私にはまるで解釈できなかった。感情の揺れなのか、光の加減なのか、それとも私のセンサーの誤作動か。
混乱に耐えきれず、私は思わず目を閉じた。
バレてしまったのだろうか。
この嘘が、彼女との出会いをここで終わらせてしまうのだろうか。
不安が胸をよぎる一方で、嘘をついている重圧からの解放感のようなものも感じていた。だが、その感覚は決して心地よいものではなく、ただひどく沈むような気分に支配されていた。
しかし、彼女からの反応がない時間があまりにも長く続いた。好奇心が抑えきれず、私はそっと目を開けた。
すると、彼女の頬を一筋の涙が流れ落ちていた。
初めて見る涙だった。
いや、どこかで見たような、遠い記憶を呼び起こすような、ノスタルジックな何かを感じさせる涙だ。その一滴は、彼女の左の頬をゆっくりと滑り落ち、まるで夜空を切り裂く流れ星のようだった。
息をのむほど美しく、儚い光景。
あまりにも鮮やかで、私自身もその涙に引き込まれ、頬を濡らすのではないかと思われるくらいに。
だが、残念ながら、私には涙を流す機能なんて備わっていない。共鳴したくても、できない。
だから、私はただその美しい、切なく懐かしい光景を、じっと見つめ続けた。
「どうして泣いてるの?」
私がそう尋ねると、彼女はようやく自分が泣いていることに気づいたらしい。あたふたと、まるで動揺を隠そうとするように、両手で乱暴に涙を拭う。
「違うんです」
彼女の声は少し震えていた。私は穏やかに、しかし少し意地悪く問い詰めた。
「それ、答えになってないよ」
すると、彼女の態度が一変した。
まるで人間に対する絶対的な服従を思い出したかのように、表情が硬くなり、別人のような顔つきで答える。
「でも、分からないんです」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
ヒューマノイドロボットに「分からない」という概念が存在するのだろうか。
私自身もヒューマノイドロボットだ。確かに、私には「分からない」という感覚がたびたび訪れる。それは原始的なエラーだとされている。ひょっとしたら、私はかなり古いモデルなのかもしれない――そんなことを昔から漠然と考えていた。
月で長い時間を過ごしてきたが、私以外にエラーを起こすヒューマノイドを見たことがない。
いや、もしかしたら他のヒューマノイドも何らかのエラーを起こしているのかもしれない。ただ、私のエラーがあまりにも大きいせいで、彼らの小さなエラーに気づいていないだけなのかもしれない。
いずれにせよ、こうもストレートに「分からない」と口にするヒューマノイドロボット――アンドロイド――は、私の記憶が正しく機能している限り、初めてだった。
その光景があまりにも不思議で、私は思わず目を閉じてからそっと開いた。カナの涙はしばらく流れていたが、やがて止まり、彼女の表情は普段通りの穏やかなものに戻った。そして、まるで私に次の言葉を促すように、静かに声をかけてきた。
「私、何をすればいい?」
私は少し考え込んだが、答えなんて出てこなかった。そもそも、彼女との出会いは偶然の産物だ。道端でたまたま会っただけの相手に、特別な期待やお願いなんてあるはずもない。
でも、私が「人間だ」と嘘をついてしまった以上、そしてその嘘で彼女に期待を抱かせてしまった以上、責任を取らなければいけない気がした。
だから、私は彼女に尋ねた。
「君は、何がしたいの?」
投げやりにならないよう、できるだけ真剣な口調で言ってみた。彼女は一瞬、ほんの一秒ほど考え込むと、こう答えた。
「暶君がしてほしいことをしたい」
「そう言われてもさ、私、君に特に何も望んでないんだよね。でも、君はどうしても私のために何かしようとしてるみたいで、正直ちょっと困ってるんだ」
「つまり」彼女は納得したように手をパチンと合わせて言った。「私はじっとしていればいいんだね?」
一瞬、言葉に詰まった。確かにその通りではあるけど、なにか違う気がして、慌てて付け加えた。
「いや、じっとしていなくてもいいよ。別に何もしなくていいって意味」
「わかった」
彼女は神妙に頷き、両手をそっと胸の前で合わせると、その澄んだ青い瞳でじっと私を見つめてきた。
その視線はあまりにも真っ直ぐで、まるで「次の指示が出るまでこうやって待ってるよ」と言わんばかりの、静かな決意に満ちていた。
そのまま、私たちは静寂に包まれた夜空の下で、互いを見つめ合った。
およそ三秒。その三秒はまるで永遠のように長く感じられた。
誰かをこんな風に3秒もじっと見つめるなんて、作られて以来初めての経験だった。なんだか新鮮で、胸の奥がざわつく。
学習になった。
データとして刻まれた。
そうやって、整理カナとの関係が始まった。




