第8話:土を耕す者たち
「ウィーン、ウィーン……」
耳慣れた駆動音が、俺の目覚まし時計代わりになって久しい。低く、切なげな唸り声に顔を向けずとも、何が起こっているかは分かりきっていた。玄関の靴置き場。高性能なはずのAIを搭載し、家の地図を覚えているはずなのに、なぜこいつはこうも毎日同じ場所で途方に暮れるのか。まるで、人生の行き先が分からなくなった俺自身を具現化したかのようだ。
「ゴシュジン……オカエリ……アサ……」
片言の、どこか間の抜けた声。オーロだ。迷子のくせに、俺を見つけると律儀に挨拶するようになっていた。相変わらず、靴の隙間に鼻先を突っ込んでいる。
「馬鹿だな、今から出かけるんだよ」
「ソト……キケン……?」
オーロは心配そうに、俺の足元をぐるぐると回る。クロの真似か、と内心で苦笑した。
「おい、人間。まだ夢の中か? そいつが助けを求めているぞ」
背後から、低く落ち着いた男の声。振り返らずとも分かる。クロだ。漆黒の塊が、畳の上をすべるように、いや、浮いているかのように静かに移動してくる。埃が集まって形になったような、口のようにも見える歪みを持つ“何か”。
「うるせえな。見て分かってるよ。お前、そいつの上に乗る気だろ」
俺が言うと、クロは沈黙したまま、まるで肯定するようにオーロの真上に静止した。重さ(影に重さがあるのかは分からないが)を感じさせない軽やかさで、ひょいとオーロの上に飛び乗る。まるで特等席に座るように、ドンと構えている。
「踏むなよ、と言ったはずだが」
「踏んでないだろうが。持ち上げてやっただけだ」
俺は慣れた手つきで、靴の隙間にがっちりハマったオーロをそっと持ち上げた。ウィーン、ウィーン、と切なげな駆動音を響かせながらも、虚しく後退と前進を繰り返していたオーロは、抱き上げられた途端にピタリと動きを止める。クロを乗せたまま。
「まったく、朝から騒がしいな、お前らは」
「私のためではない。お前の健康のためだ。そして、お前のような人間が、埃に埋もれて誰にも気づかれずに消滅するのは、見ていてあまり面白くない」
クロはあくまで平坦な口調で言う。この言い方こそが、彼がツンデレ属性持ちである所以だろう。面倒くさいアドバイスと、的を射た言葉のコンボで、俺の心をじわじわと攻めてくる。
「分かったよ。分かったから、出かけるぞ」
オーロを充電台に戻し、クロを乗せたままのオーロに背を向ける。俺は玄関のドアを開けた。春の柔らかな日差しが、アパートの廊下を照らしている。普段は窓をほとんど開けない俺だが、最近は妙に外の空気が心地よいと感じるようになっていた。
「よお、兄ちゃん。早いな」
その声に顔を上げると、アパートの共用花壇の脇で、スコップ片手に土を耕している男がいた。大家さん――通称おかんの夫、おとんだ。頭はツルッと剃ってて、鋭い目つき。普段は無口で怖そうだが、笑うと意外と優しい男だ。
「お疲れ様です。朝から、何かしてるんですか」
俺は素っ気なく返した。おとんは無言で、スコップの刃先に付いた土を払い落とす。その筋肉質な腕が、昔ヤンチャしていたらしい彼を彷彿とさせる。
「この前整備したばかりやのに、花壇が、少しばかり固くなっとってな」
おとんは、まるで独り言のように呟いた。そして、俺の顔をじっと見つめ、一言。
「……お前も、土を耕しとるか?」
その言葉に、俺は一瞬、戸惑った。何を言っているのか、理解できなかった。花壇の話か? いや、それだけではなさそうだ。おとんはそれ以上何も言わず、再び黙々と土を耕し始めた。彼の背中には、厳しさの中にどこか深い愛情が隠されているように見えた。
俺は首を傾げながら、アパートを後にした。土を耕す? 一体、どういう意味だ?
会社に着くと、いつものように自分のデスクに直行した。俺は人付き合いが苦手で、他人に興味が薄い方だ。会社でも最低限の関係だけで生きている。今日もいつもと変わらないデスクワークをこなし、定時で帰るはずだった。
午前中、会議室に呼び出された。部長と課長による定例会議だ。
「おいおい、親友! 今日もバッチリ気合入ってるな!」
入り口で同僚Aがニカッと笑って話しかけてくる。彼の人懐っこい笑顔には、相変わらず困惑させられる。
「お疲れ様です」
素っ気なく返すが、彼は全く気にする様子がない。
「そうそう、この間さ、同期で飲み会やったんだぜ! 親友も来ればよかったのに!」
俺は誘われていない。いつも通り、勝手に「誘った」ことになっているか、大勢に誘ったうちの一人としてカウントされているのだろう。
「……誘われてませんけど」
「あれ? そうだっけ? まあいっか! でも次こそは絶対な!」
あっけらかんと言い放つ同僚Aに、内心で舌打ちする。この男は空気読めないけど憎めない愛されキャラだ。
会議室に入ると、すでにエリーが席に着いていた。明るい茶色のショートボブに、いつもニコニコしている女性。俺とは正反対のタイプで、これまで会話らしい会話をしたことはなかったが、最近は昼休みのBGMと化している。彼女が俺に気づき、小さく微笑んだ。俺は軽く会釈を返し、自分の席に座った。
会議が始まった。課長はいつものように早口で、少しあわてんぼうだ。
「いやぁ、本日はお集まりいただきまして、ありがとうございます! ええ、非常に重要な議題でして、期末に向けた新規プロジェクトの件です!」
部長はどっしり構えており、冷静に課長を見守っている。
「簡潔に頼む」
部長の低い声に、課長はビクッと体を震わせた。
「は、はい! 失礼いたしました! 実はですね、かねてより企画しておりました、他部署連携の新規プロジェクトなんですけれども、これが非常に複雑でして、調整役が必要でして……」
課長がちらりと俺に視線を向けた。嫌な予感がする。こういう複雑な案件は、たいてい俺のところに回ってくるのだ。人付き合いが苦手な俺にとって、他部署との連携は最も避けたい仕事の一つだ。
「……で、誰がやるんだ」
部長が腕を組み、冷ややかに問う。
課長は額に汗を滲ませ、俺の方を見た。
「あの、その、彼に、お任せしようかと……」
会議室の空気が一瞬で凍り付いた。俺は心臓が爆音を立てている。内心では「また来たか」「面倒だ」という言葉が渦巻いている。今までなら、適当な理由をつけて断り、別の誰かに押し付けるか、あるいは曖昧な返事で濁していただろう。
その時、朝のおとんの言葉が、ふと脳裏をよぎった。
「……お前も、土を耕しとるか?」
土を耕す。それは、地道で、面倒で、報われるかどうかも分からない作業だ。でも、何かを始めるためには、まずその基盤を整える必要がある。荒れた土地を放置していては、何も育たない。俺の人生も、この部屋も、荒れ放題のまま、ただ時間をやり過ごすだけだった。まるで、オーロが同じ場所で迷子になるように。この仕事は、まさに「荒れた土」そのものだ。
これまで、俺は「変わりたい気持ち」を抱えながらも、行動には移せずにいた。クロやオーロ、そしてエリーが、少しずつ俺の「ぼっち生活」に波紋を立ててくれた。でも、今度は自分から、その波紋を広げる番だ。
「土を耕す」心の中で小さく呟く。よし、まずはここからだ。
俺はゆっくりと顔を上げた。部長と課長、そして周囲の同僚たちの視線が、一斉に俺に注がれている。同僚Aは心配そうに、エリーは期待するように俺を見ている。
「……はい、承知いたしました」
俺の声は、思ったよりも落ち着いていた。自分でも驚くほど、迷いがなかった。
課長は目を見開き、部長はわずかに口角を上げたように見えた。
「ほう。やる気になったか。期待しているぞ」
部長の言葉に、課長が「いやぁ、さすが、私も期待しております!」と慌てて、俺の肩を叩いた。普段は人の目を気にする課長が、珍しく俺に期待の眼差しを向けている。
エリーが、俺にだけ聞こえるように、小さな声で「頑張ってください!」と囁いた。その笑顔が、俺の背中を軽く押すようだった。
その日の残りの仕事は、いつになく集中できた。新しいプロジェクトの資料を読み込みながら、どうすれば良いか、具体的な道筋を考え始めた。今までなら、考えること自体が面倒だったはずなのに、不思議と苦ではなかった。むしろ、少しだけ高揚感さえ感じていた。
定時で会社を出て、普段ならまっすぐ家に帰る。だが、今日は足取りが軽い。春の夜風がやさしい。外の空気がこんなにも心地よいものだったとは。
アパートに着くと、玄関のドアを開けた瞬間、「戻ったか、人間」という声がした。畳の上、いつもの隅にクロが浮かんでいる。漆黒の塊に口のような歪み。
「今日はやけに顔つきが変わったな。何かあったか、人間?」
クロの低い声は、普段通り皮肉が混じっている。だが、その言葉には、どこか彼なりの「心配」のような響きが混じっているような気がした。
ウィーンとおっとりした駆動音。オーロがゆっくり近づいてきた。今日は充電台にいたようだ。
「ゴシュジン……アタタカイ……カオ……」
オーロは片言で、俺の周りをぐるぐると回る。
「別に何も。いつも通りだ」
俺はぶっきらぼうに答える。自分の感情や弱さを隠すために、ユーモアや毒舌を武器にするのが俺の悪い癖だ。
クロはフンと鼻を鳴らした。
「ふん、認めたくないのは分かるが、お前は確実に変わっている。何かを始めようとしているな?」
俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。冷たい炭酸の刺激で、ようやく心臓の鼓動が落ち着く。
「……ああ、まあな。今日、会社で新しい仕事を任されたんだ。正直、面倒で、今までなら断っていたような仕事だ」
クロはオーロの上に飛び乗り、足を組むような姿勢を取る。まるで特等席に座るように、ドンと構えている。
「ソト……シゴト……ツチ……タガヤス?」
オーロが片言で、朝のおとんの言葉を口にした。
「そうだな。おとんが『土を耕しとるか?』って言ってたんだ。よく分からないけど、なんだか、それが今日のキーワードみたいでさ」
俺は缶ビールを一口煽った。
「荒れた土地を耕すように、面倒な仕事も、まずは手をつけてみようかと。……どうせ誰もやらないなら、俺がやってみようと」
クロは何も言わず、ただオーロの上で揺れているように見えた。それが笑っているのか、呆れているのか、判断がつかない。しかし、その沈黙は、俺の言葉を肯定しているようにも感じられた。
「……お前も、少しは旅に出る気になったか、人間」
クロの言葉が、耳の奥で響いた。それは、皮肉を込めたツッコミのようでありながら、どこか温かいエールのように聞こえた。
俺は苦笑しながら、パソコンを立ち上げた。新プロジェクトの資料が、俺を待っている。
こうして、俺とクロの、奇妙で騒がしい「ぼっち生活」の日常は、新たな一歩を伴って、さらに深く続いていくのだった。俺の心の中の矛盾した感情も、この埃の塊との漫才のような日々の中で、少しずつ変化していくのだろう。
8話までお付き合いくださって、本当にありがとうございます。




