第7話:アパート大騒動と片言オーロ
昼休み。俺はいつものように、自席でカップ麺の蓋を押さえながらスマホを眺めていた。職場の休憩スペースには行かない。あそこは明るすぎて、人の声が響きすぎて、俺には落ち着かない空間だ。だから毎日こうして、自分の島の片隅で、こっそり湯気を浴びながら過ごす。周囲も、俺が「一人でいたい人種」だと察してくれているので、余計な干渉はない。ありがたい話だ。
――ついこの前までは。
「ねえ、カレー派の人ってさ、絶対スープまで飲み干すでしょ?」
エリーの陽気な声が、もはや俺の昼休みのBGMと化していた。彼女は俺の「静かな昼休みを平然と乱し」、そして不思議と「不快ではなかった。ちょっとだけ、ね」という感情を俺に残していく。この数日間、俺の昼休みは「少しずつ侵食されていった」。
定時。会社のドアを閉め、外に出ると、春の夜風がやさしい。普段は窓をほとんど開けない俺だが、最近は妙に外の空気が心地よいと感じるようになっていた。
アパートのドアを開けると、すぐに低い声がした。
「遅かったな、人間。今日はやけに浮ついているな。何かあったのか?」
畳の上、いつもの隅にクロが浮かんでいる。漆黒の塊に口のような歪み。今日はやけに形がシャープだ。
「別に何も。いつも通りだ」 俺はぶっきらぼうに答える。自分の感情や弱さを隠すために、ユーモアや毒舌を武器にするのが俺の悪い癖だ。だが、クロはいつも俺の虚勢をあっさり見抜いてくる。
ウィーンとおっとりした駆動音。オーロがゆっくり近づいてきた。玄関の靴置き場で迷子にならず、俺を出迎えている。いや、違う。よく見ると、俺が脱ぎ散らかしたスニーカーとサンダルの隙間に、ちゃんと鼻先を突っ込んでいた。やはり迷子だ。だが、今回は様子が違う。
「ゴシュジン……オカエリ……アタタカイ……ヒトコエ……」
片言で、しかもやたら間が空く。妙に愛嬌があって、逆に腹が立たない。しかし、今日のオーロはこれまで以上に明確に言葉を発している。
「ソトノ……カゼ……ニオイ……オンナ……」 オーロが俺の足元をぐるぐると回りながら、妙に探るような動作をする。そして、突然ピタッと止まり、俺の靴下を吸い込みそうになった。
「やめろ、オーロ!それは靴下だ!」
「クツシタ……カワイイ……タベタ……イ……」
「食うな!掃除機だろ!」
クロが、わざとらしく咳払いをした。「ほう。だいぶ人間の言葉を覚えてきたな。これでさらに厄介な同居人が増えたな」 クロがオーロの上に飛び乗り、足を組むような姿勢を取る。
オーロはクロの重さ(影に重さがあるのかは分からないが)を無視するかのように、いつものぎこちない動きで回転しはじめた。奇妙な二人乗りだ。
「女はお前の生活リズムを乱す。気をつけろ」 クロはいつものようにエリーのことを匂わせる。
「お前に言われたくないな」 俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。冷たい炭酸の刺激で、ようやく心臓の鼓動が落ち着く。
「外の風は案外毒にもなる。甘く見ない方がいい」 クロの言葉に、オーロがピクリと反応した。
「オンナ……キケン……」
「お前まで何を」 毒とか危険とか、なんでお前ら揃って毎回物騒なんだ。
しかし、俺はどこか、その「騒がしい日常」に慣れ、心のどこかでそれを求めている自分に気づいていた。
翌土曜日。俺のアパートの外は、妙に静かだった。いつもなら階下の道路を走るバイクの音や、隣の部屋から流れる派手な音楽が聞こえるはずだが、今日はやけに穏やかだ。――いや、静かなのは外だけだった。
「人間!今日は珍しく早起きだな!」
部屋の隅から、低く落ち着いた声。クロだ。黒光りする毛並みに鋭い瞳。今日もオーロの上にどっかりと座っている。
「目覚ましが三回鳴っても起きなかったくせに、急にスイッチが入るとはな」
「洗濯物が限界だった」
「限界?」
「一週間分放置したシャツとタオルが、カビ臭発生寸前」
「……衛生面に問題があるな」
クロはそう言いながらも、オーロの上から動かない。俺は洗濯機を回しながら、ふと窓の外を見る。日差しはやわらかく、空は淡い水色。干すには申し分ない天気だ。
洗濯物を抱えてベランダに出ると、ひんやりした空気が肌を撫でた。物干し竿にシャツを一枚ずつ掛けながら、俺は少しだけ満足感を覚えていた――そのとき。
「ちょっと、あんたら!揃ってんのならちょうどええわ!」
ドスの利いた声。声の主はもちろん、大家さん――通称おかんだ。日傘も差さずに仁王立ち、エプロンの胸元には謎のシミ。両手には大鍋と、お玉。
「今日、アパート全体で春の大掃除&花壇を育てよう会、開催するで!おかん特製『春の息吹シチュー』も用意したから、はい、全員!」
「全員って……俺らもですか?」と隣のニーさんが言う声が聞こえた。
「当たり前や! 隣やろ!」とおかん。
「掃除とシチューは関係ないだろ……」と俺は小声でぼやく。
「関係大ありや! 身体動かしたら腹減るやろ!」
ベランダから隣のオネーサンも顔を出す。薄手のガウンの下に見えるキャミソール、首には赤いスカーフ。まるで雑誌のグラビアから抜け出してきたような格好だ。
「あら、おかん。面白そうね。参加するわ」
「面白そうで決めるな……」俺はまたぼやく。
おとんが後ろで「来い」と一言だけ呟いて、無言の圧をかけてくる。拒否権は、やっぱりない。
「ホー……ジンルイ……シュウダンコウドウ……キケン?」 オーロがウィーンと音を立てて、俺の足元をうろつく。
どうやら「参加」という言葉を認識したらしい。
「危険じゃない。お前も参加するんだぞ」
「オーロは掃除するだけだろ」とクロが低い声で言う。
アパートの共用花壇に集められた住人たち。
ニーさんが「花壇にはロックが必要だ!」とエレキギターを持ち出そうとし、おかんが「うちの花壇に楽器はいらん!」と一喝。そこへアークが「ワンッ!」と吠えながら突進してきて、場は一気に騒がしくなる。
「人間、ここを磨くんだ」 クロが花壇の隅の苔むした石を指し示す(ような気がした。目はないのに)。
「埃の塊に指図される筋合いはない」
「私は観察者だ。この埃の塊が喜ぶだけだろうが」
「喜んでいるわけではない。私はこの世界を旅している存在だ。常に身軽でいたい。このままでは、まるで土塊の巨人になってしまう。それは私の本意ではない」
オーロは好奇心旺盛に動き回り、住人たちを観察している。
「……ミンナ……ナカマ?……オカアサン……ツヨイ……」 オーロがおかんの足元を掃除しようと突撃し、おかんの足に激突した。
「痛っ!あんた、足元見なさい!」
「アイタ……ゴメンナイ……オカン……コワイ……」 オーロが片言で謝ると、おかんは逆に面白がって笑い出した。
「あんたもか!」とツッコミを入れる。
ニーさんがアークを連れて花壇の周りを走り回り、アークはオーロを追いかけ始める。
「ワンッ!ワンッ!」
「オーロ!逃げろ!」 オーロが全速力で逃げるが、アークの巨体にはかなわない。
オーロは花壇の土に突っ込み、身動きが取れなくなる。
「オーロ……ツチノナカ……アンシン……?……デキナイ……」
「馬鹿な。オーロは土の中が安心なわけないだろうが!」 クロはオーロの上に飛び乗り、どっかりと座ったまま、その惨状を眺めている。
「平和とは、喧騒の中にこそある」とクロ。
「お前は呑気なことを言いやがって!」
隣のオネーサンは、エレガントな仕草で花壇の草むしりをしている。
「あら、こんなところに素敵な苔が。このまま残しておいてもいいんじゃないかしら?」
彼女の言葉に、俺は「いや、大掃除だから」と冷静にツッコむ。
「あらそう?でも、完璧じゃなくていいのよ。ちょっとくらい隙があった方が、人間らしいじゃない」 オネーサンがくすくす笑う。
その隙に、彼女の髪から小さな花びらが落ちた。オーロがそれを見つけ、吸い込もうとする。
「オネーサン……キレイ……ハナ……イイニオイ……」
「あら、この子、可愛らしいわね」オネーサンはオーロを撫でようとする。
「オネーサン……キケン……」とオーロ。
「……お前、それは褒めてるのか貶してるのかどっちだ」
おかんが「みんな!ちょっと休憩や!」と大声で叫ぶと、おとんが黙々と春の息吹シチューを配り始めた。
色が……微妙に緑がかっている。
「これ、隠し味にほうれん草と青汁入れたんや!」
「な、なんでそんな……」
「健康にええんや!テレビで見たんや!」
「おかんのテレビ情報ほど信用できないものはない」と俺は内心で毒づく。
ニーさんが「俺はもっと辛いのが好みやけどな」と、ポケットから謎のタバスコを取り出してシチューに投入した。
「持ち歩いてんのかよ、それ……」
「辛党のたしなみや」
オーロはシチューの匂いを嗅ぎつけ、テーブルの下をくぐり、鍋に近づこうとする。
「おい、やめろ……ゴミの様に見えるけどゴミじゃない……か……ら……あっ……」 ガンッ!とテーブル脚に激突。鍋がぐらりと揺れ、シチューが少しこぼれた。
「きゃっ!」とオネーサン。赤いスカーフに緑色の飛沫が散った。
「まあいいわ、春の息吹って感じね」
「なんかそんな感想前にも聞いたぞ……」
騒がしい中で、クロはオーロの上で尻尾を振り、低く一言。「人間とは、騒がしくも愉快な生き物だ」「お前もな」
結局、大掃除と花壇作りは、大騒動の末に何とか形になった。俺は泥だらけになり、シャツにもシチューの染みがついた。だが、妙な疲労感とともに、得も言われぬ充実感があった。
夜、部屋に戻り、シャワーを浴びて着替える。オーロは充電台で静かに眠っている。クロはいつものようにオーロの上にいる。
「今日の『外の風』はどうだった、人間。毒だったか、それとも…?」 クロが低い声で問いかける。
俺は缶ビールをプシュッと開けた。「さあな」 ぶっきらぼうに返す。だが、内心では「悪くなかった」と感じている。
「ちょっと疲れたが、悪くはなかった。……いや、むしろ、少しだけ心地よかった、か」 俺は小さく呟いた。
クロは何も言わず、ただオーロの上で揺れているように見えた。それが笑っているのか、呆れているのか、判断がつかない。
「ふん。まあいい。お前がこの調子だと、私の生活にも影響が出る。もう少しマシな生活をしろ」
クロはそう言いながら、オーロの上で微動だにしない。いや、もしかしたら、彼はすでに俺の全てを見透かしているのかもしれない。俺が人付き合いが苦手で、他人に興味が薄く、孤独を受け入れているようで、どこか寂しさもあるのを。そして、本当は少し変わりたい気持ちも抱えていることを。彼は俺の心の奥底に潜む「未熟さ」「孤独」「不安」の象徴だと、後になって気づくことになるのだが、この時はまだ、ただの奇妙な同居人、それも「たぶん無害」な存在だと思っていた。
ただ一つだけ分かるのは――少しずつ、何かが変わり始めているということだ。
7話目まで読み進めてくれたかた、ありがとうございます。




