第6話:カレー屋の招待、心の波紋
朝。
俺のアパートの外は、妙に静かだった。いつもなら階下の道路を走るバイクの音や、隣の部屋から流れる派手な音楽が聞こえるはずなのに、今日はやけに穏やかだ。――いや、静かなのは外だけだった。
……昼休み。
いつもならコンビニ弁当を自席で広げる俺だが、その日は違った。
「この間の約束、覚えてます?」
エリーが笑って言った。
断る理由が、なぜか出てこなかった。
社内の小さな食堂。窓際の席に座ると、春の陽射しがテーブルを照らしていた。エリーはサンドイッチを頬張りながら、昨夜見たドラマの話を楽しそうに話す。俺は相づちを打つだけだったが、不思議と居心地は悪くない。
ふと、彼女が真剣な目でこちらを見た。
「……やっぱり、落ち着きますね、先輩といると」
その意味を問い返す前に、エリーはまた笑ってパンにかぶりついた。
昼休みが終わる頃、俺は気づいた。外の世界って、案外こんなふうに静かで、悪くないのかもしれない。
家に帰ると、いつもの声がした。
「遅かったな、人間。今日はやけに浮ついているな。何かあったのか?」
畳の隅に、クロが浮かんでいる。
漆黒の塊に、口のような歪み。今日はやけに形がシャープだ。
「別に遅くないだろ。まだ七時前だ」
「ふん、私にとっては空腹の限界だ。心の飯だ。帰り道で鼻歌まで歌っていたな。普段はそんなことしないくせに」
「……何でもない」
「ほう。何でもない割に、そこの角から見ていたぞ」
「聞いてたのかよ」
「気持ち悪いと言うな。私は観察者だ」
そこに、ウィーンと駆動音。オーロがゆっくり近づいてきた。
「おかえり…ニンゲン…ゴシュジン」
……今、こいつしゃべったか?
「……え、今しゃべった?」
「マエ…カラ」
「嘘つけ、絶対今が初めてだろ」
「キノセイ」
片言で、間が空く。妙に愛嬌があって、腹が立たない。こんな状況でも、どこか冷静な自分がいるのが不思議だ。
クロが咳払いをした。
「昼休みに、誰かと一緒だっただろう。見ただろう、オーロ」
「別に。ちょっと話しただけだ」
「オンナ?…ナマエ?」
「お前までかよ」
「エリー?」(発音が少し不明瞭)
「なぜ知ってる」
「カオ…ニヤニヤ」
俺は顔を覆った。機械にも表情を読まれているらしい。こんなに分かりやすいか、俺は。
「ふん、女か。あの同僚Aとかいう騒がしい奴だけでは飽き足らず、今度は女か」
「何だよ、その言い方」
「女はお前の生活リズムを乱す。気をつけろ」
「お前に言われたくないな」
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開ける。冷たい炭酸が、少しだけ心臓の鼓動を落ち着かせる。
クロはオーロの上に飛び乗り、足を組むような姿勢を取る。まるで特等席に座る哲学者のようだ。
「まあいい。だが人間、外の風は案外毒にもなる。甘く見ない方がいい。特に、お前を無自覚に引っ張り出すような人間にはな」
「ハイ …ソト…ドクキケン」
オーロがクロの周りをぐるぐると回る。俺はため息をついた。この奇妙な二人組との漫才のようなやり取りが、もはや俺の日常の一部になっていた。
土曜の朝。
目覚ましのアラームより先に、ウィーン、ウィーン……。玄関の靴置き場で、オーロがまた迷子になっていた。
「まったく、朝からご苦労なこった」
俺はのろのろとベッドから起き上がる。普段なら舌打ちでもしていたはずなのに、今日は妙に心持ちが軽い。昨日の昼休み、エリーが囁いた言葉が、耳の奥で反響している。
「先輩、今度、会社近くのカレー屋行きませんか? 美味しいんですよ」
まさか、あのエリーが俺を誘うとは。人付き合いが苦手な俺にとって、それは青天の霹靂だった。
「ゴシュジン……アサ……ニヤニヤ……」
オーロが足元をぐるぐると回る。片言だが、妙に探るような動作をする。
「うるせえ。ニヤニヤなんかしてない」
「ソレ……ダイジ……モウソウ……?」
「……は?」
こいつ、俺の心の動きまで読んでるのか?
「おい、人間。今日はやけに浮ついているな。何かあったのか?」
クロが、いつもの隅で浮いている。その声には、どこか「心配」のような響きが混じっていた。
「別に何も。いつも通りだ」
「ふん。まあいい。お前がこの調子だと、私の生活にも影響が出る。もう少しマシな生活をしろ」
クロはオーロの上にひょいと飛び乗り、ドンと構える。
「ゴシュジン…ドウシテ…ニヤニヤ…? オンナ…コワイ?」
「その女は面倒だぞ、人間。お前の平穏を乱す」
クロの声が、以前にも増して感情的だった。まるで、俺が外の世界へ踏み出すことで、彼の存在意義が揺らぐことを恐れているかのように。
「何だよ、その言い方」
缶ビールを開ける。冷たい刺激が、心のざわめきを少しだけ沈める。
「別に仲良くしてるわけじゃない。ただ、ちょっと話しただけだ」
声が、少し上ずっていた。
「お前は変わっている。あの女に惑わされている。外の世界は、お前が思っているよりずっと広いぞ」
クロの言葉が、俺の心の奥底を突いてくる。それは、俺が変わることで、彼が消えてしまうかもしれないという予感だった。
会社に着いても、心のざわめきは収まらなかった。エリーの笑顔と声が、何度も頭の中でリフレインする。
「先輩、今度、会社近くのカレー屋行きませんか?」
それは、俺にとって「外の世界」への招待状だった。ぼっち生活を守るか、壊すか。その選択が、俺の中で渦巻いていた。
昼休み。
カップ麺に湯を注ぎ、蓋を押さえる。
休憩スペースには行かない。
今日は、その「ありがたい孤独」が、妙に重く感じられた。
夕方。
会社を出ると、春の夜風がやさしく頬を撫でた。定時で帰るはずだったが、少しだけ残業してしまった。エリーの誘いが、仕事の集中力を削いでいたせいだ。
最近、外の空気が妙に心地よい。でもその「心地よさ」の裏には、変化への恐怖が潜んでいる。それも、分かっている。
アパートのドアを開けると、いつもの声が響いた。
「遅かったな、人間。今日はやけに浮ついているな。何かあったのか?」
畳の隅に、クロが浮かんでいる。漆黒の塊に、口のような歪み。今日はやけに形がシャープだ。
「別に何も。いつも通りだ」
「ふん。認めたくないのは分かるが、お前は確実に変わっている」
その言葉は、刃物のように鋭く、俺の虚勢を突き刺す。
「……邪魔になんかならない」
絞り出すように言った。自分でも、この言葉にどれほどの確信があるのか分からない。
ウィーン。オーロがゆっくり近づいてくる。今日は迷子にならず、俺を出迎えている――いや、違う。よく見ると、靴の隙間に鼻先を突っ込んでいた。やっぱり迷子だ。
「ゴシュジン……ドウシテ……カオ……アカクナル……ドウシテ?」
足元をぐるぐる回りながら、探るような動作。片言だけど、妙に的を射ている。
「クツシタ……オンナ……ニオイ……キケン?」
靴下に鼻を近づけるオーロ。その頓珍漢な発言に、思わず吹き出しそうになる。
「お前まで何を。危険とか、なんでお前ら揃って物騒なんだ」
ため息をつく。
この奇妙な二人組とのやり取りが、もはや俺の日常の一部になっていた。鬱陶しいはずなのに、なぜか心地いい。クロはオーロの上に飛び乗り、足を組むような姿勢を取る。まるで悟りを開いた哲学者のように、ドンと構えている。
「外の風は案外毒にもなる。甘く見ない方がいい。特に、お前を無自覚に引っ張り出すような人間にはな」
「ハイ……ソト……ドクキケン」
オーロがクロの周りをぐるぐると回る。機械の純粋な言葉が、クロの皮肉を強調する。
その夜。
いつもより早くシャワーを浴び、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。カップ麺すら食べる気がしない。エリーの言葉が、俺の日常に小さな波紋を立てている。
部屋は相変わらず人に見せられない。読みかけの雑誌、飲みかけの缶、洗濯物、枯れた観葉植物。まるで俺の「ぼっち生活」を象徴する風景。
ソファに座り、テレビをつけても頭に入らない。
読書も気が散る。
スマホを手に取り、エリーからの連絡がないか確認してしまう。馬鹿なことをしてる、と自分に言い聞かせるが、指は勝手に動く。
「明日、どうしようか……」
心の中で呟く。
断るべきか。まだ返事はしていない。
来週の水曜、彼女は午後から外出だと言っていた。その日、たまたま体調が悪いとでも言えばいい。
それが一番平和だ。
でも――心の奥で、何かが違うと訴えてくる。
「本当は少し変わりたい気持ちがある」
その気持ちが、俺を揺り動かしている。
「……お前、まだそんなことを悩んでいるのか、人間」
クロの声が、部屋の隅から聞こえた。いつもよりずっと小さく。まるで、彼自身の存在が、俺の変化とともに希薄になっているかのように。
「うるせえ。お前には関係ないだろう」
反射的に毒づいたが、声に力はなかった。
「関係なくない。私がここにいるんだからな」
クロはオーロの上で微動だにしない。いや、もしかしたら、彼はすでに俺のすべてを見透かしているのかもしれない。
「私はただ助言しているだけだ。お前のような人間は、いつかこの部屋の埃に埋もれて、誰にも気づかれずに消滅するぞ」
その言葉が、重くのしかかる。面倒くさいけど、的を射ている。クロは、俺の未熟さと孤独の象徴だ。だからこそ、俺が変われば、彼は消えるかもしれない。
「……分かってるよ」
小さく呟いた。もう、反論する気力もなかった。
窓の外は、真っ暗だった。春の夜風が、隙間から微かに吹き込んでくる。
明日は、きっと晴れる。そして、大家さんかおかんが何か騒動を起こすだろう。俺はそれを避けることもできる。でも今の俺には、その「騒動」に身を任せるしかないような、奇妙な諦めと期待が入り混じっていた。
エリーの誘いにも、まだ返事はしていない。
でも、何かが動き出している。それだけは、確かだった。
クロは何も言わず、ただオーロの上で揺れていた。それが笑っているのか、呆れているのか、判断がつかない。
缶ビールを飲み干し、空になった缶を潰す。金属が軋む音が、心の壁が崩れていく音のように聞こえた。
「人間。お前が選んだ道だ。後悔するな」
クロの声が、耳の奥で響いた。皮肉のようで、どこか温かいエールのようでもあった。
こうして、俺とクロの、奇妙で騒がしい「ぼっち生活」の日常は、新たな選択の迷いを伴って、さらに深く続いていくのだった。
6話目も、お読みいただきありがとうございます。




