第5話:カレー大会の悲劇
土曜の朝。俺のアパートの外は、妙に静かだった。
階下の道路を走るバイクの音も、隣の部屋からの派手な音楽も今日は聞こえない。――いや、静かなのは外だけだった。
「人間、今日は珍しく早起きだな」
部屋の隅から低く落ち着いた声。クロだ。黒光りする毛並みに鋭い瞳。今日もオーロの上にどっかり座っている。
「目覚ましが三回鳴っても起きなかったくせに、急にスイッチが入るとはな」
「洗濯物が限界だった」
「限界?」
「一週間分放置したシャツとタオルが、カビ臭発生寸前」
「……衛生面に問題があるな」
クロはそう言いながらも、オーロの上から動かない。俺は洗濯機を回しながら、ふと窓の外を見る。日差しはやわらかく、空は淡い水色。干すには申し分ない天気だ。
洗濯物を抱えてベランダに出ると、ひんやりした空気が肌を撫でた。シャツを一枚ずつ掛けながら、少しだけ満足感を覚えていた――そのとき。
「あら〜、おはようさん」
隣から艶やかな声。視線を横に向けると、隣室のオネーサンがベランダに立っていた。薄手のガウンの下にキャミソール、首には赤いスカーフ。雑誌のグラビアから抜け出してきたような格好だ。
「……おはようございます」
「朝から働き者やねぇ。合コンでも行くの?」
「行きません」
「じゃあデート?」
「違います」
「ふーん……でも白シャツって、着る人を誠実そうに見せるのよ」
「見せかけです」
「あら、自覚あるのね」
オネーサンはクスクス笑い、その拍子にピンッと何かが飛んできた。足元に落ちたのは黄色い洗濯ばさみ。
「ごめーん、落としちゃった」
「拾っておきます」
「ありがと。外側の通路に落ちたから、回ってねぇ」
俺はため息をつき、共用通路に向かった。日差しはすでに強く、アスファルトが熱を帯び始めている。黄色い洗濯ばさみは階段下に転がっていた。屈んで拾おうとしたその瞬間――
「おーい、そこの兄ちゃん! どけぇ!」
ドスの利いた声と共に、地響きのような足音が迫る。振り返ると、逆隣のニーさんが大型犬を引きずっていた。白い毛並み、光る瞳。首輪には長ったらしい名前――“アークエンジェル・フォール・オブ・ミッドナイト”だか、“アークティック・ヴォルテックス・リヴァイヴァー・オブ・ザ・シルバーストーム・エターナル・ガーディアン”だか刻まれている。
愛称はアーク。
「また暴れてんすか」
「暴れてんじゃねぇ、遊びたいだけだ!」
「十分暴れてる!」
その瞬間、アークは俺をロックオンし全力疾走。重い鎖がシャリンと鳴り、巨体が一直線に突っ込んでくる。
「わっ……!」
避ける暇もなく、アークの前脚が胸に当たり、尻もちをつく。手から離れた洗濯ばさみがまた転がった。
「おーおー、朝から仲良しやなぁ」
ベランダ越しにオネーサンが笑っている。
「笑ってないで助けてください!」
「だって犬好きでしょ?」
「好き嫌い以前に押し潰されそうなんですけど!」
「ほらアーク、やめろって! ……お、兄ちゃん匂いすんな?」とニーさん。
「何の匂いですか」
「カレー」
「朝から?」
「昨日作ったやつ」
そう言われてみれば、鼻の奥にスパイスの香りが届いていた。犬の体温と混ざり、妙に現実感のある“日常の匂い”となる。
アークに押し倒され、ニーさんに引き起こされ、息も整わぬまま洗濯ばさみを拾う。すると、階段の下から大家さん――通称おかん――の声。
「ちょっとあんたら! 揃ってんのならちょうどええわ!」
おかんは日傘も差さず仁王立ち、両手に大鍋とお玉。
「今日カレー作ったから、うち来な! はい、全員!」
「全員って……俺らもですか?」
「当たり前や! 隣やろ!」
「犬も?」
「アークも食べるやろ?」
「犬にカレーは……」
「じゃあ外で待たせとき!」
オネーサンもベランダから顔を出す。
「わぁ、カレー? 面白そう。行くわ」
「面白そうで決めるな……」
俺は小声でぼやく。
おかんの勢いは止まらない。
「ほら、あんたも早よ支度し!」
「俺、洗濯……」
「干すのは後! カレーは今!」
――拒否権は、やっぱりない。
おかん宅の玄関をくぐると、スパイスの香りが鼻を直撃。リビングのテーブルには山盛りのご飯と、大鍋のカレー。色は微妙に紫がかっている。
「なあ、これ……」とニーさん。
「隠し味や。ブルーベリージャム入れたんや」
「な、なんでそんな……」
「テレビで見たんや! フルーティーなコクが出るって!」
「ほんまかいな……」
オネーサンはカレー鍋を覗き込み、「面白いわねぇ」と笑う。
「見た目は奇抜やけど、香りは悪くない。スパイスも効いてそう」
「さすがオネーサン、こういうのに物怖じしない」
おとんは黙々と取り皿を並べ、淡々と動く姿は戦場の兵士のようだ。
「いただきまーす!」
おかんの号令で全員がスプーンを手に取る。一口目――確かにカレー。後味にほんのり甘酸っぱさが残る。
「うわ、ほんまにジャムの味する」
「これ……アリですね」と俺。
「やろ? でもちょっと甘すぎたかもしれんな」
オネーサンは優雅にスプーンを口に運び、「デザート感覚でいいじゃない」と余裕の笑み。
ニーさんは「俺はもっと辛いのが好みやけどな」とチリソースを取り出す。
「持ち歩いてんのかよ、それ……」
「辛党のたしなみや」
その時――
「ウィーン……ウィーン……」
オーロがリビングに侵入。テーブル下をくぐり、カレー鍋の匂いを追う。
「おい、やめ……ゴミの様にみえるけどゴミじゃない……か……ら…ゴメンない。」
ガンッ! とテーブル脚に激突、鍋がぐらり。
「きゃっ!」とオネーサン。赤いスカーフに黄色い飛沫が散る。
「まあいいわ、スパイスの香りが加わってセクシーよね」
「そんな感想初めて聞いたぞ……」
ニーさんが「あっ」と声を上げ、背負っていたケースからエレキギターを取り出す。
「うちのカレー会に楽器はいらん!」
「いやいや、この場の雰囲気に音楽は必要やって」
外からアークが吠え、突進。オーロが絶叫し、鍋が再びぐらつく。
「カレーが!」
「アーク! あかんやろ!」
「オーロ! 止まれ!」
おかんはお玉で鍋を支え、おとんが犬を外へ連れ出す。オネーサンは微笑み、クロはテーブルの端で尻尾を揺らしながらつぶやいた。
「平和とは、喧騒の中にこそある」
数十分後――。鍋の惨劇を片付け、俺はカレーを鍋ごと抱えて帰宅する。
玄関で待つオーロに警戒しつつ、クロがぽつり。
「カレーの匂いは、罪深い」
夜、鍋を温め直しながら、パソコンをそっとしまい込む――そんな静かで、ちょっと騒がしい土曜の一日だった。
ちょっとごちゃごちゃしてて、申し訳ないです。
今回も、最後まで読んでくれて、ありがとうございます。
次回、ついにオーラが…「ゴシュジン……アサ……ニヤニヤ……」「ソレ……ダイジ……モウソウ……?」




