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部屋の角(すみ)に黒いのがいるけど、たぶん無害  作者: MMPP.key-_-bou


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第4話:昼休みの侵略者と黒い影の嫉妬

 翌日の昼休み。


 俺はいつものように、自席でカップ麺の蓋を押さえながらスマホを眺めていた。職場の休憩スペースには行かない。明るすぎるし、人の声も響きすぎる。俺には落ち着かない空間だ。だから毎日こうして、自分の島の片隅で、こっそり湯気を浴びながら過ごす。周囲も、俺が「一人でいたい人種」だと察してくれているので、余計な干渉はない。ありがたい話だ。今日も平穏な、いつもの昼休みのはずだった。


 低い声に顔を上げると、ラフなスーツ姿の同僚Aがニカッと笑って立っていた。勝手に俺を「親友」認定している男だ。正直、一番関わりたくない部類に入る、賑やかすぎるタイプ。


「……お疲れ様です」


 素っ気なく返す。内心では「また来たか」と舌打ちしている。彼は俺の無愛想な態度など気にする様子もなく、楽しそうに話し続ける。彼のマイペースで明るすぎる性格には、ある種の敬意すら覚えるが、今はただ一人でいたい。


「つれないなあ! いつも俺が誘っても来ないくせにさ、たまには休憩スペースでみんなで食おうぜ! 人生損してるって!」


 同僚Aが、人懐っこい笑顔で俺の肩を叩こうとする。俺は反射的に身を引いた。人との物理的距離を詰めてくる人間は特に苦手だ。彼がさらに何かを言おうとした、そのときだった。


「それ、何味ですか?」


 真横から声が降ってきた。顔を上げると、明るい茶色のショートボブが視界を横切る。笑顔。近い。やけに近い。エリー――俺と同じ部署の同僚で、社内のムードメーカー的存在。人当たりがよく、誰とでも平然と会話できる人間力の塊。俺にとっては正反対のタイプだ。


「カップ麺の味って……ほら、見たら分かるだろ。カレーだよ」


 スマホに視線を戻しながら短く返す。内心は心臓が爆音を立てているのに、声は妙に落ち着いていた。外面はあくまでクールに振る舞う、俺の悪い癖がこんな時でも発動する。


「へえ、カレー派なんですね。私、シーフード派なんですよね」


 エリーはにこにこしながら言った。


 その隣で同僚Aが「俺は断然肉うどん派だけどな! やっぱり日本のソウルフードはうどんだろ!」と、場違いな持論を展開している。耳に障る。俺の静かな昼休みが、騒がしく侵食されていく。


 俺の無関心な態度に、大抵の人間はここで引き下がる。しかしエリーは違った。同僚Aの声を意に介すことなく、まっすぐ俺に話しかけてくる。


「でさ、カレー派の人って、絶対スープまで飲み干しますよね? あれがカレーの完成形なんですよ!」


「……必ずじゃない」


「いや、飲みます。だってそれがカレーの完成形じゃないですか!」


 何だその理屈は。俺は反論しようとして、蓋の上でしんなりした麺を見つめた。結局、何も言わずに箸を手に取る。エリーはそれを面白がるようにニコニコ眺めていた。やりにくい。


 同僚Aは「よし、俺もスープまで完飲宣言だ!」と胸を張った。(勝手に飲んどけよ)


「今日、午後から外回り行きますよね? 一緒に行きませんか?」


「えー、親友も外回り行くなら、俺もついて行こうかな! たまには気分転換も大事だって!」


 同僚Aが勝手に盛り上がる。エリーは少し困ったように笑うが、俺には助け舟を出してくれる様子もない。


「……俺、午後は資料作成あるから」


「あ、そっか。じゃあまた今度、お願いします」


 エリーは軽い調子で去っていく。


 同僚Aも「じゃあな! また親友!」と言い残して自分のデスクに戻った。


 なんだあれ。俺の静かな昼休みを平然と乱していきやがった。……まあ、不快ではなかった。ちょっとだけ、ね。いや、むしろ妙な高揚感さえ感じていた。長らく停滞していた自分の人生に、ひょっとして変化が訪れるのではないか、と。


 家のドアを開けると、すぐに低い声がした。


「遅かったな、人間。今日はやけに浮ついているな。何かあったのか?」


 畳の上、いつもの隅にクロが浮かんでいる。漆黒の塊に口のような歪み。今日はやけに形がシャープだ。


「別に遅くないだろ。まだ七時前だ」


「ふん、私にとっては空腹の限界だ。心の飯だ。今日のお前は、何やらニヤついていたようだからな。それに、帰り道で鼻歌まで歌っていたな。普段はそんなことしないくせに」


「は?」


 やばい。職場での昼休みを思い出して、頬が緩んだのかもしれない。心の中でエリーとのやり取りを反芻し、少し浮かれていた自覚もある。


「……何でもない」


「ほう。何でもない割に、そこの角から見ていたぞ」


「聞いてたのかよ」


「気持ち悪いと言うな。私は観察者だ。ふん、女か。あの同僚Aとかいう騒がしい奴だけでは飽き足らず、今度は女か」


「何だよ、その言い方」


「女はお前の生活リズムを乱す。気をつけろ」


「お前に言われたくないな。それに、俺は別にあいつらと仲良くしてるわけじゃない」


 俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。冷たい炭酸が、少しだけ高鳴る心臓の鼓動を落ち着かせる。


 クロはオーロの上に飛び乗り、足を組むような姿勢を取る。まるで特等席に座る悟りを開いた哲学者のようだ。


「まあいい。だが人間、外の風は案外毒にもなる。甘く見ない方がいい。特に、お前を無自覚に引っ張り出すような人間にはな」


 クロの言葉は、まるで俺の心の奥底に潜む「未熟さ」「孤独」「不安」を見透かしているかのようだった。


 翌日の昼休みも、俺は自席でカップ麺に湯を注いでいた。静かな午後の空気をひとり占めする、いつもの自分だけの時間。


 そんな俺の横で、またあの声が降ってきた。


「昨日のカレー、美味しかったですか?」


 振り返ると笑顔のエリー。近い。やっぱり近い。目が合うと、なんだか胸が熱くなる。


「……まあ、普通」


「普通って便利な言葉ですよね。何も言ってないのと同じなんだもん。でも、それで済ませちゃうの、悪い癖だと思います!」


 そう言いながら、エリーは自分のサンドイッチを嬉しそうにかじる。


 ふと、昔のことを思い出す。会社の空気に馴染めずにいた俺に、入社したてのエリーは何気なく声をかけてくれた。あの笑顔だけで、肩の力が少し抜けた――そんな存在だった。


「先輩って、カップ麺食べるときすごく真剣ですよね。なんか、麺と戦ってるみたいで……」


 顔が少し熱くなる。普段ならこんなこと言われたら照れるだけなのに、なぜか嫌な気はしなかった。


「見てると楽しそうなんですもん。昨日も、スープを飲み干す瞬間、なんだか嬉しそうでしたよ?」


「……別に嬉しくはない」


 そう言いながら、俺はまた少し頬を緩めてしまう。


「あ、あと、前から思ってたんですけど、先輩って人に無関心そうに見えて、でも誰か困ってるとすぐ助けちゃうところ、すごくいいなって」


 エリーは少し笑いながら言ったが、目は真剣にこちらを見ている。――その時、俺が新人時代に困っていた書類の山を整理してくれたことを、エリーは覚えていたのかもしれない。


 そこに、タイミング悪く同僚Aが通りかかった。


「おー、エリーちゃん! 親友! 仲良しだな!」


 同僚Aは手を振りながら近づいてくる。


「よかったら俺も混ぜてよ! 親友とエリーちゃんの仲良しぶりに嫉妬しちゃうぜ!」


 同僚Aは冗談めかして俺の肩をポンと叩く。俺は人との物理的距離を詰める人間が特に苦手だ。


 エリーは少し困ったように笑ったが、すぐに笑顔に戻った。


「あ、もちろんです! みんなでワイワイ食べるのも楽しそうですもんね!」


 同僚Aは得意げに頷く。社交的な場では水を得た魚のようだ。俺とは正反対のタイプ。


「先輩、今度、会社近くのカレー屋行きませんか? 美味しいんですよ」


 エリーは俺にだけ聞こえるように言った。同僚Aはそんな俺たちのやり取りを面白そうに眺めている。


「……考えとく」


 この返事も、普通なら断り文句として通じるはずなのに、エリーは違った。


「じゃあ来週の水曜ですね。午後から外出もあるし、その帰りにでも」


 人の心のガードをすり抜けるのがうまい。俺は何も言えず、麺をすすった。


 同僚Aは「おー、親友、まさかのデートか?! いいぞいいぞ!」と騒いでいたが、エリーは軽く受け流し、俺に微笑んだ。


 夜。家のドアを開けるなり、クロが低く言った。


「水曜に予定が入ったな。どうやら、例の女と一緒らしいな」


「お前、盗聴でもしてんのか。それとも、あの同僚Aと連絡でも取ったのか?」


 クロはフンと鼻を鳴らした。


「表情を見れば分かる。お前の顔は今日もニヤついていたぞ。それに、あの騒がしい同僚Aと話している間も、どこか楽しそうだったな。まさか、あの能天気な奴と気が合うとはな」


 クロはふっとため息のような揺れを見せた。


「まあ、人間。外に出るなら、帰ってきたときに報告しろ。……事故に遭わなければな。お前のような人間は、いつか外の世界に飲み込まれて、誰にも気づかれずに消滅するぞ」


「縁起でもない」


 俺は苦笑しながら、部屋の灯りを少し明るくした。……なんだろう。いつもは鬱陶しいだけのやり取りが、少しだけ心地よく感じられた。まるで、自分を心配してくれる家族が増えたかのような、そんな奇妙な感覚だった。


 それから数日間、俺の昼休みは少しずつ侵食されていった。エリーが話しかけてくる。俺は短く返す。それでも会話は続く。不思議と嫌ではない。むしろ、普段なら耳障りでしかない同僚Aの賑やかな声も、エリーとの会話の合間には、なぜか背景音のように穏やかに聞こえる始末だった。


「あの同僚Aも、なかなか粘り強いな。お前を外に引っ張り出そうとしている」


 クロはそう言って、オーロの上で体を揺らす。俺は否定するが、クロは続ける。


「ふん、認めたくないのは分かるが、お前は確実に変わっている」


 それでもどこか笑ってしまう自分がいた。

 


本日も、お付き合いいただき、ありがとうございます。

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