第3話:オフィスに吹く、場違いな春風
「ウィーン、ウィーン……」
耳に慣れた駆動音が目を覚まさせる。玄関の靴置き場。昨日脱ぎ散らかしたスニーカーとサンダルの間に、オーロ――我が家の“未来的同居人”――が鼻先を突っ込み、動けずにいる。AI搭載で家の地図も覚えているはずなのに、なぜ毎日同じ場所で途方に暮れるのか。
「おい、人間。まだ夢の中か?」
低く落ち着いた声。振り返ると、クロがそこにいる。子猫ほどの大きさの漆黒の塊。埃で形作られたその姿は、恐ろしいけれど、なぜか見慣れた安心感もある。鬱陶しいが、いないと寂しい――そんな存在だ。
「うるせえな。見て分かってるだろ。お前、そいつの上に乗る気だろ」
クロは黙ったまま、オーロの上で特等席のように構える。俺はオーロをそっと抱き上げ、充電台へ戻す。クロはそのまま座り込み、動かない。
「お前の生活、もう少しマシにしろ」
「なんで俺が掃除しなきゃならねえんだよ」
「私のためではない。お前の健康のためだ」
毎朝のやり取りは定型文。俺は毒舌で応戦し、クロは冷静に突っ込む。この小さな騒動が、俺の「ぼっち生活」の日常の幕開けだ。
会社に着くと、いつものように自分のデスクへ直行した。
エレベーターを降りると、廊下に資料の束が無造作に落ちていた。誰も気づかないのか、通り過ぎる足音だけが響く。ため息をひとつつき、しゃがんでそれを揃え、近くの机に置いた。その瞬間、視界の端で誰かの視線を感じた気がした。しかし顔を上げると、廊下にはもう誰もいなかった。
俺は人付き合いが苦手で、他人にあまり興味がない。会社でも最低限の関係だけで生きている。今日もいつも通りのデスクワークをこなし、定時で帰るつもりだった。パソコンを立ち上げ、今日のタスクを確認していると、背後から陽気な声が聞こえた。
「よお! 今日も早いな、親友!」
振り向くと、ニカッと笑った同僚Aが立っていた。ラフなスーツ姿で、いつも笑顔を絶やさない。俺の部署の人間ではないが、よく話しかけてくる。そしてなぜか俺を「友達」と認定している男だ。
「……おはようございます」
素っ気なく返す。内心では「また来たか」と舌打ちしている。俺は彼を親友だと思ったことは一度もない。むしろ、関わりたくない部類だ。
「相変わらずクールだな! でもさ、それじゃ人生損してるって! この間さ、週末にキャンプに行ったんだけど、お前も来ればよかったのに!」
同僚Aは俺の無愛想など気にする様子もなく、楽しそうに話し続ける。
俺が誘われた記憶はない。おそらく、勝手に「誘ったこと」にされているか、大勢の中の一人として俺がカウントされているのだろう。
「いや、誘われてませんけど」
冷静に事実を告げると、同僚Aは「あれ? そうだっけ? まあいいか! 次は絶対な!」とあっけらかんに言い放つ。この男はマイペースで明るく、空気が読めないけれど憎めない。俺は彼の熱意に困惑しながらも、どこか嫌いになれなかった。
「今日さ、午前中少し時間できたんだけど、一緒にコーヒーでもどう?」
同僚Aは返事を待たず、給湯室へ向かおうとする。
「いや、俺はまだ……」
「なんだよ! つれないな! いいからいいから!」
有無を言わさぬ勢いで腕を掴まれそうになるが、間一髪で避けた。人との距離を詰める人間は特に苦手だ。それでも仕方なく、彼の後について給湯室へ向かう。
だが、そこで見慣れない――いや、見慣れてはいるが俺にとっては“未知”の存在に出会った。
「あっ、お疲れ様です! いつも朝早いですよね!」
振り返ると、ショートボブの明るい髪の女性が立っていた。笑顔が屈託なく、誰にでも自然に接するタイプ。エリー――フロアのムードメーカー的存在だ。俺とは正反対で、これまでまともに会話をしたことはなかった。
「……お疲れ様です」
予想外の出来事に、内心は心臓が爆音を立てているのに、声は妙に落ち着いてしまう。普段の悪い癖――クールに振る舞う――が、こんな時でも出てしまう。
隣の同僚Aがすかさずエリーに話しかけた。
「あ、おはようございます! まだご挨拶してませんでしたね! この方、いつも黙々と作業されてて、すごいなぁって思ってました! 私、エリーです!」
「……前からちょっと気になってたんです。朝、一番に来てパソコン立ち上げてますよね? そういうの、いいなって」
冗談なのか本気なのか分からないまま、彼女は屈託のない笑顔で返事を待っている。自然な親しさに、俺は戸惑いを隠せない。
「……えっと」
不器用な返事に、エリーはさらに顔をほころばせた。
「先輩、今度よかったらお昼ご一緒しませんか?!」
突然の誘いに動揺する。普段、昼食はデスクかコンビニで済ませるだけだ。人と一緒に食べるなど考えたこともない。
間の悪いことに同僚Aが割り込む。
「おお! いいね! 親友、よかったじゃん! 俺も混ぜてよ!」
エリーは少し困った笑顔を見せつつも、笑顔を絶やさない。
「あ、もちろんです! みんなでワイワイ食べるのも楽しそうですもんね!」
「だろ?! 次こそはマジでキャンプも来いよ! エリーちゃんも誘ってさ!」
同僚Aは俺の都合などお構いなし。俺は遮ることもできず、ただ戸惑うばかりだった。
「あ、無理なら全然大丈夫ですよ! でも良かったら! じゃあ、私これで!」
エリーは手を振って給湯室を出ていく。残った「良かったら!」の言葉が妙に頭に響いた。
熱いコーヒーを淹れながら、さっきの出来事を反芻する。同僚Aの押しの強さには慣れているが、エリーの自然な親しさには別の衝撃を受けた。自分から“外”に足を踏み出すきっかけをくれた人間は、これまでいなかった。
定時に会社を出る。普段ならまっすぐ家に帰るが、今日は少し遠回りをした。春の夜風が心地よい。窓をほとんど開けない俺だが、外の空気がこんなにも心地よいとは思わなかった。
アパートに着くと、玄関のドアを開けた瞬間、「戻ったか、人間」という声。クロだ。オーロの上でデンと構えている。
「今日は浮ついているな。何かあったのか?」
クロの低い声には皮肉が混じるが、どこか心配のような響きもある。
「別に何も。いつも通りだ」
ぶっきらぼうに答える。自分の弱さを隠すため、ユーモアや毒舌でごまかす癖が出てしまう。しかしクロは、そんな虚勢を簡単に見抜いてしまう。
「ふん。まあいい。お前がこの調子だと、私の生活にも影響が出る。もう少しマシな生活をしろ」
オーロの上で微動だにしないクロ。彼は俺の孤独や未熟さ、少し変わりたい気持ちまで見透かしているのかもしれない。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開ける。冷たい刺激で心臓が落ち着く。
「……そうだな。明日、ちょっとだけ、いつもと違うことをしてみるか」
小さく呟くと、クロは何も言わず、オーロの上で揺れているように見えた。笑っているのか、呆れているのか、判断がつかない。
こうして、俺とクロの奇妙で騒がしい「ぼっち生活」は、新たな小さな波紋を伴って、さらに続いていくのだった。
今週も水曜日に更新できました。今回も、読んいただきまして、ありがとうござます。




