第1話 黒い影は話しかけてくる
まただ。
オーロが玄関の靴置き場で迷子になっているのは、これで何度目だろう。もはや日課と化している。朝、出勤前にスイッチを押してわずかな期待と共に放っておくと、夕方帰宅したときには、必ずといっていいほど玄関の隅か、洗面所のドア前で動かなくなっている。
「ウィーン、ウィーン……」切なげな駆動音を響かせながら、虚しく前後に揺れるオーロの姿は、まるで人生の袋小路に迷い込んだ人間のようだ。
高性能AIを搭載し、家の地図を覚えているはずなのに、なぜか同じ場所で途方に暮れている。その光景は、自分の部屋の片隅で、毎日をやり過ごすだけの俺自身の姿を見ているようで、ふと虚無感が胸をよぎる。
いや、オーロはまだ動こうとしているだけマシか。俺はただ、止まっているだけだ。
慣れた手つきで靴の隙間に鼻先を突っ込み、身動きが取れなくなったオーロをそっと持ち上げる。重さはさほどないが、その沈黙した姿を見ると、やはり虚しさを感じる。
引っ越して三日目の夜に、「やっと気づいたか、人間」という低い声と共に現れた“何か”のことも思い出す。あれは夢だったと思いたかったが、記憶は妙に鮮明で、現実感を伴って脳裏に焼き付いていた。
オーロを充電台に戻し、背を向けたその瞬間、視界の端で黒い塊が動いた。
漆黒の塊は明確な輪郭を持ち、子猫くらいの大きさで、畳の上をすべるように、いや、浮いているかのように静かに移動している。ぞくりと背筋に冷たいものが走った。
「おい、そこの人間。踏むなよ」
背後から低く落ち着いた男の声。部屋には俺しかいないはずだ。慌てて辺りを見回すが、見えるのは壁、埃をかぶった本棚、そしてオーロだけ。
「え、まさか……」
恐る恐る黒い影に視線を戻す。目はないのに、じっと見られている感覚がある。埃が集まって形になった口のような歪みを持つ“何か”。
「そうそう、私だ。見えてるんだろ?」
影がこちらに顔らしきものを向けた。
普通の人間なら、叫び声をあげるか、スマホを握って警察に電話するだろう。だが、俺の口からは勝手に言葉が出た。外面は冷静だが、内心では心臓が爆音を立てている。
「……おまえ、何者?」
影は体を揺らした。笑っているのか呆れているのか、判断はつかない。
「名乗るほどの者じゃないが、まあ“クロ”とでも呼んでくれ。黒いしな」
クロはオーロの上に飛び乗り、特等席のように構える。オーロはいつものぎこちない動きで回転し、黒い影とロボット掃除機の奇妙な二人乗りが完成した。
「あのさ、オーロ、迷子になるのやめてくれない?」
「それはこいつに言え。私は操縦士じゃない。ただの旅人みたいなもんだ」
クロはオーロの上で微動だにせず、平然とした口調で俺を見下ろす。
「旅人って、どこから来たんだよ」
「‘外’からだ」
その“外”という言葉に、心臓がひやりとした。外ってこの部屋の外? それとも世界の外……?
クロは何も言わず、オーロの上で足を組むように見えた。その沈黙は、俺に考える時間を与えた。幻覚か現実か。だが、こうして会話をしている以上、幻覚では片付けられない。
俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。冷たい炭酸が喉を刺激し、ようやく心臓の鼓動が落ち着く。
俺の「ぼっち生活」は引っ越して以来、昼夜逆転気味で、食事は適当、部屋は人に見せられない状態だ。平日は会社でデスクワーク、週末はひたすら引きこもる。窓はほとんど開けず、埃が舞い込み、観葉植物は咳き込みそうだ。人付き合いを避け、会社でも最低限の関係だけで生きている。孤独を受け入れているつもりだが、どこか寂しい。
本当は少し変わりたい気持ちもある。誰かに気付いてもらいたい、でも干渉されたくない。矛盾した感情が、常に俺の心を支配していた。
クロは、そんな俺の生活をじっと観察しているかのようだ。オーロの上で微動だにせず、俺の「未熟さ」「孤独」「不安」を見透かしているのかもしれない。
「それにしても、ずいぶんな部屋だな、人間」
「放っておけ。お前には関係ないだろ」
ぶっきらぼうに答える俺に、クロは目がないはずの顔をゆっくり向けた。
「関係なくない。私はここにいるんだからな」
「は? お前、何の権利があってそんなこと言うんだよ」
「私は助言しているだけだ。お前のような人間は、いつかこの部屋の埃に埋もれて消えるぞ」
図星すぎて反論できない。
「私の存在を認めたんだ。もう後戻りはできないぞ、人間」
クロはオーロの上で静止した。その言葉は、宣戦布告にも、俺の人生に介入する意思表示にも聞こえた。
こうして俺とクロの、奇妙な同居生活が始まった。
半年後には、この黒い埃の塊が俺の心を揺さぶり、外の世界へ押し出す存在になるとは、この時はまだ知る由もなかった。
新たな物語『部屋の角に黒いのがいるけど、たぶん無害』(略称:『すみクロ』)を書き始めました。
更新は週1回(目標)、引き続き、お読みいただけたら嬉しいです。




