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部屋の角(すみ)に黒いのがいるけど、たぶん無害  作者: MMPP.key-_-bou


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第12話:黒が消えた日

 朝の光がまだ眠そうに差し込む部屋の玄関。そこに、今日も例の“迷子事件”が発生していた。


「またお前か……オーロ」


 俺は靴置き場の狭いスペースで方向を見失っているオーロの背中を、そっと押した。まるで出口のわからない迷路に入り込んだかのように、うろうろしている。以前なら、こんな些細なことにも舌打ちしていたはずだが、今はもう慣れたものだ。


 いつものように、オーロの上にクロが座って、まるで城の王様みたいに威張っているかと、視線を向けた。だが、そこには彼の姿はなかった。いつもの定位置であるオーロの上も、部屋の隅も、ただ空間があるだけだ。


「ふん、またそいつが迷子になっているぞ」


 いつもの皮肉が、今日は聞こえない。耳を澄ませば、微かに声が聞こえるような気がしたが、それは単なる自分の思い込みかもしれない。クロの存在感は、以前から少しずつ希薄になっていた。認めたくないのは分かっていたが、彼は俺が「もうクロはいらない」と感じる日が来ることを予感させるように、姿をぼやけさせていたのだ。


「ゴシュジン……シゴト……ヤル……カオ」オーロが片言で言う。


  そうだ、俺は今日も仕事をする。迷子になりがちなオーロみたいに、方向を見失わないように。靴を履き終え、玄関を出る俺の背中を、いつもならクロが追いかけるように言葉をかけるはずだった。


「お前が認めたくなくても変わってるのは確かだ。未熟で孤独で不安に抗ってる」


 だが、今日は何も聞こえない。空っぽになった空間を見つめ、俺は小さく息を吐いた。彼の言葉はなかったが、この言葉を胸に、今日もまた面倒くさくて厄介な仕事の“荒れた土地”を耕しに行くのだ。


 会社のフロアに入ると、いつもの無機質な蛍光灯の明かりが俺を迎える。デスクに着くと、新規プロジェクトの資料を開いた。他部署複数と連携しながら進める難関案件は、もはや俺にとって「できれば触りたくない」面倒な仕事の代表格ではなかった。むしろ、妙な高揚感さえあった。

午前中、大規模なプロジェクト会議が開かれた。これまでなら話に圧倒されて黙り込むか、逃げ腰になっていた場面だ。だが、今日は違った。俺は資料を指さしながら、筋道を立てて説明し始めた。


「こちらの工程を前倒しして調整し、〇〇部署のリソースを最大限活用します。リスクについては、〇〇担当チームと連携し、週次で進捗を確認することで対応可能です」


 エリーから教わったコミュニケーションのコツ、相手の話をちゃんと聞きながら話すことを意識し、周囲の意見を冷静に聞き入れ、的確に返していく。課長と部長も、俺の言葉に深く頷いている。


 会議が終わり、昼休み。俺のデスクにエリーがいつものようにやってきた。そして同僚Aも…。


「……ありがとう、二人とも」


 以前なら素直に言えなかった感謝の言葉が、自然と口から出た。俺の心の壁は、もはや存在しないかのように、彼らの言葉をまっすぐに受け入れることができた。


 定時で会社を出て、春の夜風が心地よく感じられた。いつもならまっすぐ帰るだけの道だが、今日は遠回りをする必要もなかった。もう、意識して外の空気を吸いに行く必要もなかったのだ。外の世界は、もはや「毒」ではなく、心地よい「風」になっていた。


 アパートのドアを開けた。部屋は静まり返っていた。


オーロは充電台で静かに眠っている。その背中に、あの漆黒の塊がデンと構えている姿は、どこにもない。


「クロ……?」


 再び、声を出す。だが、やはり返事はない。部屋の隅にも、玄関にも、あの「埃が集まって形になったような、口のようにも見える歪みを持つ、“何か”」 の姿はなかった。


 ああ、そうか。彼はもう、ここにいないのだ。いつからだろう。彼の声が小さくなったのは。彼の姿がぼやけていったのは。そして、今朝、微かに聞こえたあの皮肉も、もう二度と聞くことはないだろう。


 彼の言葉が脳裏をよぎる。


「いつか、お前に俺はもう必要なくなる日が来るかもしれんな」


 そうだ。彼は俺の心の奥底に潜む「未熟さ」「孤独」「不安」の象徴だった。そして、俺はもう、それらを乗り越えつつある。人付き合いが苦手で面倒くさがりだった「俺」は、仕事を通じて、人々との交流を通じて、少しずつ「私」へと変わっていった。


 部屋の隅を見つめる。そこにクロの姿はないが、その空間が、もう私にとっての「行き止まり」ではないことを知っている。オーロが今日も玄関で迷子になったとしても、私が助ければいい。埃だらけだった部屋は、以前よりずっとましになった。昼夜逆転の生活も改善された。カップ麺だけだった食事も、今ではたまにエリーや同僚Aと外食するようになっている。


 私は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。冷たい炭酸の刺激が、落ち着いた心臓の鼓動に心地よく響く。


 オーロが、充電台からゆっくりと動き出した。ウィーンと、おっとりした駆動音。私の足元をぐるぐると回る。


「ゴシュジン……ヒトリ……ジャナイ……」


 オーロの片言の言葉が、静かな部屋に響いた。私はその言葉に、静かに頷いた。


 一人ではない。だが、もし、仮に一人になったとしても、もう私は大丈夫だ。 私は、もう、自分一人で「土を耕す」ことができる。 荒れた土地に自ら踏み込み、新しい道を切り拓いていける。 私自身の足で、この世界を旅していけるのだ。


 夜空を見上げた。


 あの小さな黒い塊がいなくても「   」。

 

12話目、最終話です。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


あと、エピローグも用意しております。

同時に更新していますので、お時間がよろしければ、そちらものぞいてやってください。

 


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