第11話:鋼の精神と土を耕す日々
朝の光がまだ眠そうに差し込む部屋の玄関。
そこに、今日も例の“迷子事件”が発生していた。
「またお前か……オーロ」
俺は靴置き場の狭いスペースで方向を見失っているオーロの背中を、そっと押した。まるで出口のわからない迷路に入り込んだかのように、うろうろしている。
「いや、お前はまるで巨大なボールのようだな。動きは鈍いのに場所は取るっていう」
クロがオーロの上に座って、まるで城の王様みたいに威張っている。
「ふん、またそいつが迷子になっているぞ」
「またって言うな! お前こそ迷子になったことあるのか?」
クロは一瞬、考えるふりをした。
「お前が迷子なのは知っている。私も迷子になったことくらい……あるかもしれん」
「あれ? かもしれんって何だよ、ちゃんと言えよ!」
「まあ、細かいことはいいんだ。問題はお前がおとんの言った“土を耕しとるか?”ってことだ」
俺は靴を履きながら、その言葉に思いを馳せる。
“土を耕す”――つまり、自分の根を張るために面倒なことをやり続けるってこと。嫌なことも避けずに向き合うってことだ。
「土を耕すのは嫌だけどな。耕してる最中にカエルが飛び出してきたらどうするんだよ」
「お前の比喩センス、いつも意味不明だな」
オーロは片言で言う。
「ゴシュジン……シゴト……ヤル……カオ」
そうだ、俺は今日も仕事をする。迷子になりがちなオーロみたいに、方向を見失わないように。
「よし、今日も耕す日だ」
靴を履き終わり、玄関を出る俺の背中をクロが追いかけるように言った。
「お前が認めたくなくても変わってるのは確かだ。未熟で孤独で不安に抗ってる」
「なんか詩人みたいだな、クロ」
「皮肉の塊だよ」
俺は少しだけ笑った。こんなやり取りが、俺の土を耕すモチベーションになっているのかもしれない。
今日もまた、面倒くさくて厄介な仕事の“荒れた土地”を耕しに行くのだ。
会社のフロアに入ると、いつもの無機質な蛍光灯の明かりが俺を迎える。
「さあ、今日も“荒れ地”を耕すぞ」
――そんな決意を胸に、俺は新規プロジェクトのミーティングルームへ向かった。
今回任された仕事は、他部署複数と連携しながら進める難関案件だ。これまでは「できれば触りたくない」面倒な仕事の代表格だった。
部屋に入ると、すでに課長と部長が資料を広げて待っている。
課長がにっこり笑いながら言った。
「お、さすがだな。期待してるぞ。お前がこの前より積極的に話してくれて本当に助かってる」
部長も軽く頷き、静かに言葉を添えた。
「ほう、やる気になったか。期待しているぞ」
「いやー、やっと奴も動き出したな。最近は、机の前で『無』になってるだけかと思ってたよ」
「いや、無になってるのはお前の頭の中だろ、課長、ちゃんと働け!」
「不毛地帯なのは、部長の頭頂部……痛っ…やめ…」
俺は少し照れくさくて、でも内心は悪くない気分だった。
ミーティングが始まると、他部署の人たちが一斉に質問や意見を飛ばしてくる。
「その仕様だと納期が間に合わないのでは?」
「予算はこれで確定か?」
「リスクはどのように管理するつもりだ?」
――これまでは話に圧倒されて黙り込むか、逃げ腰になっていた。
でも今日は違った。
俺は資料を指さしながら、筋道を立てて説明し始めた。
「こちらの工程を前倒しして調整し、リスクはこの担当チームと連携して対応します」
エリーから教わったコミュニケーションのコツも思い出し、相手の話をちゃんと聞きながら話す。
「あの……さすがです。説明がわかりやすくて助かります」
隣の部署の若手がぽつりと言ったのを聞いて、俺はちょっと自信が湧いた……いや、正直言うと、少し妙な高揚感もあった。
「なんだ、俺、こういうの結構好きかも」
そこに、同僚Aが明るく話しかけてきた。
「おーい親友! お前、真面目すぎて笑いが足りてないぞ!」
俺が真剣に資料を読んでいる横で、彼は軽口を叩く。
「俺のプロジェクトアイデア:休憩時間に一緒にカレー食べに行く! …ってどうよ?」
俺はちょっと苦笑いしながらも、以前ならイライラしていただろうが、今はどこか許せる自分に気づく。
エリーも近くでにこやかに、しかし鋭くフォローを入れる。
「まあ、緊張しすぎないで。リラックスも大事ですよ」
「……ありがとう、二人とも」
会議が終わり、昼休み、俺のデスクにエリーがいつものようにやってきた。
「仕事の調子はどうですか?」
「まあまあだ」
彼女は笑顔で続ける。
「ミステリー好きなんでしたっけ?」
「そうだ。最近はこんな作品を読んでて…」
話しながら、ふと気づく。無意識に彼女との会話を楽しんでいる自分がいた。以前ならこんなやり取りで気疲れしていたのに、今日はどこか心地よかった。
そこへ同僚Aもやって来て、にぎやかに混ざる。
「もっと外に出て息抜きしろよ、親友」
「おまえの無邪気さは正直ちょっと怖い」
「でも、そういうお前の存在も救いなんだ」
三人で笑いながら、和やかな昼食の時間を過ごす。俺の心の壁が、少しだけ柔らかくなっているのを確かに感じていた。
家のドアを開けると、クロがいつもの場所で待っていた。
「お帰り、人間」
彼の声はいつも通り冷ややかだが、どこか今日は温かみを感じる気がした。同時に、その声が、以前よりほんの少しだけ遠くから聞こえるような、そんな気がした。 クロはじっと俺の顔を見つめながら、ぽつりと言った。
「今日はやけに顔つきが変わったな。何かあったか、人間?」
その隣で、オーロがいつもの片言で声を上げる。
「ゴシュジン……ツカレタ……デモ……タノシイ……カオ」
俺は少しだけ笑って、肩の力を抜いた。
「悪くなかった、今日は」
部屋の片隅で、クロは静かに俺を見守りながら言う。
「認めたくはないだろうが、お前は確実に変わっている」
俺はその言葉を胸に、今日の「土を耕す」日々を思い返す。面倒で、正直逃げ出したくなることもあるけれど、踏み込んでみることで見える世界がある。少しずつ心の壁が崩れ、見えなかったものが見え始めている気がした。
クロがオーロの上で、まるで悟りを開いた哲学者のように俺を見つめる。
「いつか、お前に俺はもう必要なくなる日が来るかもしれんな」
俺はふっと笑った。
「それも悪くないな」
11話目、そろそろです。
ここまでのお付き合い、本当にありがとうございます。




