第10話:予期せぬ宴と黒い影の動揺
朝の光がまだ眠そうに差し込む部屋の玄関で、俺はまた、お馴染みの光景を目にしていた。
「また……オーロ」
靴置き場の狭いスペースに鼻先を突っ込み、身動きが取れなくなっている我が家の「未来的な同居人」、オーロ。まるで出口の分からない迷路に入り込んだかのように、ウィーン、ウィーンと切なげな駆動音を響かせながら、虚しく後退と前進を繰り返している。高性能なはずのAIを搭載し、家の地図を覚えているはずなのに、なぜこいつはこうも毎日同じ場所で途方に暮れるのか。まるで、人生の行き先が分からなくなったサラリーマン……いや、俺自身を具現化したかのようだ。
「フッ、またそいつが迷子になっているぞ」
背後から、低く落ち着いた男の声がした。振り返らずとも分かる。クロだ。子猫くらいの大きさ の漆黒の塊が、畳の上をすべるように、いや、浮いているかのように静かに移動してくる。埃が集まって形になったような、口のようにも見える歪みを持つ“何か”。彼は俺の心の奥底に潜む「未熟さ」「孤独」「不安」の象徴だ と、後になって気づくことになるのだが、この時はまだ、ただの奇妙な同居人、それも「たぶん無害」な存在 だと思っていた。
「またって言うな! お前こそ迷子になったことあるのか?」俺はオーロを持ち上げながら言い返した。
クロは一瞬、考えるふりをした。
「お前が迷子なのは知っている。私も迷子になったことくらい……あるかもしれん」
いつもの皮肉屋でちょっと斜に構えている 彼らしい、どこか含みのある言い回しだ。
「まあ、細かいことはいいんだ。問題はお前がおとんの言った“土を耕しとるか?”ってことだ」
俺はオーロを充電台に戻し、クロをその背中に乗せたまま、玄関で靴を履き始めた。「土を耕す」それは、地道で、面倒で、報われるかどうかも分からない作業だ。でも、何かを始めるためには、まずその基盤を整える必要がある。荒れた土地を放置していては、何も育たない。俺の人生も、この部屋も、荒れ放題のまま、ただ時間をやり過ごすだけだった。
「ゴシュジン……シゴト……ヤル……カオ」オーロが片言で言う。
最近、こいつは俺の顔つきから感情を読み取るようになった。鬱陶しいが、どこか憎めない。
「そうだ、俺は今日も仕事をする。迷子になりがちなオーロみたいに、方向を見失わないように」俺は玄関を出る。
「お前が認めたくなくても変わってるのは確かだ。未熟で孤独で不安に抗ってる」クロの声が背中を追いかけるように響いた。彼の言葉は、皮肉を込めたツッコミのようでありながら、どこか温かいエールのように聞こえる。
会社に着くと、いつものように自分のデスクに直行した。俺は人付き合いが苦手で面倒くさがりで、会社でも最低限の関係だけで生きている。今日もいつもと変わらないデスクワークをこなし、定時で帰るはずだった。パソコンを立ち上げ、今日のタスクを確認していると、背後から陽気な声が聞こえた。
「よお! 今日も早いな、親友!」
同僚Aだ。ラフなスーツ姿で、いつも笑顔を絶やさない。彼は俺の部署の人間ではないが、よく話しかけてくる。しかも、俺を勝手に「友達」認定している男だ。
「……お疲れ様です」俺は素っ気なく返した。内心では「また来たか」 と舌打ちしている。
彼は俺の無愛想な態度など全く気にする様子もなく、楽しそうに話し続ける。彼のマイペースでポジティブすぎるくらい明るい性格には、ある種の敬意すら覚えるが、とにかく今は一人でいたい。
「なあ親友!今週末、アパートの屋上でBBQがあるの知ってるか?おかん特製の『スタミナBBQソース』が出るらしいぞ!」
「BBQ?誰がそんな話を……」
「おかんから連絡あったんだよ!『みんなで親睦を深めよう会』だってさ!当然、親友も来るよな?」
「……待て、おかんって、なんでお前の連絡先知ってるんだ?」
俺は思わず眉をひそめた。
同僚Aは悪びれる様子もなく笑った。
「この前、お前の部屋に遊びに行った時あっただろ?あのあと、おかんが『あんた、いい子やねえ!』って言いながら俺にLINE交換を迫ってきてさ」
「迫ってきてさ、じゃねぇよ……」
「いやー、おかん、ノリが良くてさ!その後もちょくちょくメッセくれるんだよ。昨日なんか、BBQの買い出しリストまで送ってきたぜ」
「……てか、お前だけじゃなくて、エリーもおかんのこと知ってるみたいだったぞ」
「そりゃそうだろ。エリーちゃん、この前の“部屋掃除会”の時に来てただろ?おかんが手伝いに来たとき、一緒にお菓子食べながらめちゃ盛り上がってたじゃん」
「……ああ、あの時の笑い声か」
同僚Aはにやにや笑いながら肩をすくめた。
「女子同士ってやつは仲良くなるの早いんだよ。おかん、エリーちゃんにも連絡先渡してたしな」
「……おかんの行動力、マジで恐るべしだな」
同僚Aは俺の返事を待つまでもなく、まるで当然のように話を進める。俺の都合などお構いなしだ。
俺は人付き合いが苦手で、他人に興味が薄い方だ。普段なら「あ、はい、また今度」などと適当にあしらって終わる場面だ。だが、最近は妙に彼のぐいぐい来る姿勢にも、少し慣れてきている気がする。
そこに、明るく、はつらつとした声がした。
「あっ、お疲れ様です!BBQ、楽しみですね!」
振り返ると、ショートボブの明るい髪色に、いつもニコニコしている エリーが立っていた。同僚Aが「エリーちゃん、おはよう!」 と話しかける中、エリーは屈託のない笑顔で、俺に顔を向けた。
「先輩も来るんですよね?おかん、張り切ってましたよ!」
彼女は自然体で, 人との距離の詰め方がうまい。俺とは正反対のタイプで、これまで会話らしい会話をしたことはなかったが、最近は昼休みのBGMと化している。内心は心臓が爆音を立てているのに、声は妙に落ち着いていた。外面はクールに振る舞おうとする、俺の悪い癖が、こんな時でも発動する。
「……まあ、行かないと、おかんが騒ぎそうだしな……というか、俺の住んでるアパートだよね。」
俺は苦笑しながら答えた。完全に断りきれない自分がいる。以前の俺なら考えられないことだ。
週末の土曜日。昼過ぎ。俺は屋上へ向かう階段を重い足取りで上っていた。外は五月の柔らかな日差しが降り注ぎ、心地よい風が吹いている。普段は窓をほとんど開けない俺だが、 最近は妙に外の空気が心地よいと感じるようになっていた。
屋上では、すでに賑やかな声が響いていた。おかんと、普段は無口なおとんが陣取っている。おかんは150cmにも満たない小柄で華奢な体型だが、超アクティブで行動派、口も態度もハッキリしている。エプロン姿で七輪の火力を調整し、顔を真っ赤にしていた。おとんは頭をツルッと剃っており、鋭い目つきだが、今日はどこか穏やかな顔つきだ。
「おーい、兄ちゃん! よう来たね!」 おかんが大きな声で俺を呼び、手招きした。その声はパワフルで元気いっぱいだ。
隅には、すでにエリーと同僚Aがいた。エリーは慣れた手つきで野菜を切り、同僚Aは「親友、来たなら手伝えよ!」と肉をひっくり返しながら俺を呼んだ。俺は小さくため息をつき、彼らの輪の中へ入っていく。
「先輩、これ、ピーマン切ってもらえますか?」 エリーが屈託のない笑顔で、包丁とピーマンを差し出してきた。彼女は聞き上手で、相手の話に興味を持ってくれる。
「……分かった」
俺がピーマンを切り始めると、同僚Aがすかさず話しかけてくる。
「親友、包丁さばきもプロ級じゃん!意外だな!俺なんかこの間、ピーマン切ろうとして指切っちゃったぜ!」彼のマイペースでポジティブすぎるくらい明るい性格 に、内心で舌打ちしつつも、どこか憎めない愛されキャラ だと最近は思えるようになっていた。
その時、ニーさんのエレキギターの音が響いてきた。長髪でパンク風の服装(普段はラフな感じ)に、ピアスやタトゥーも少しある彼 は、隅っこで黙々とチューニングをしていた。そして、リフを鳴らし始めた。彼の仕事は地味な公務員 なのに、ライブはめちゃ人気でファン多数だ。
「おい、人間。騒がしいな。あいつはまた騒音をまき散らしているぞ」クロの声がした。俺の肩に、子猫くらいの大きさの漆黒の塊がゆらりと姿を現した。
「なんでお前もここにいるんだよ!」俺は小声でクロに問い詰めた。
「ふん。私は観察者だ。お前が『外』でどんな醜態を晒すのか、見届けに来ただけだ」クロの口調は平坦なのに、どこか面白がるような響きを含んでいる。
「醜態って言うな!」
そのやり取りを、隣室のおネーサンが優雅にワイングラスを回しながら、くすくす笑って見ている。彼女は洗練された大人の美しさで、ミステリアスでちょっと妖艶な雰囲気を持つ女性だ。
「あら、楽しそうね。」おネーサンが言う。
「そこの兄ちゃん!ギター!ロックを刻め!」 おかんがニーさんに声をかけた。ニーさんは「へいへい!」と応え、さらに激しいリフを刻み始めた。
その時、「ワンッ!」と大きな吠え声がした。白い毛並みに光る瞳……ニーさんの飼い犬、アークだ。首輪には長ったらしい名前――アークティック・ヴォルテックス・リヴァイヴァー・オブ・ザ・シルバーストーム・エターナル・ガーディアンと刻まれたタグが揺れている。
アークは一直線に七輪に突進しようとし、おとんがすかさずリードを掴んで引き戻した。普段は無口で怖そうだが、家族のことはめちゃくちゃ大事にしているおとん の動きは素早い。
「アーク、あかんやろ!」とおかんが叫んだ。
俺はピーマンを切り終え、肉を焼く手伝いを始めた。熱い火のそばで肉をひっくり返していると、エリーが隣にやってきた。
「先輩、手際いいですね!アウトドア派じゃないって言ってたのに」
「いや、これはただの焼き肉だ。アウトドアとは違う」
「でも、こういう時って、普段見ない一面が見えて面白いんですよね」
エリーはにこにこしながら言った。彼女の自然体の人懐っこさに, 少しずつ心を開き始めている自分がいる。
「ゴシュジン……ニク……オイシイ……ニオイ……」
足元から、オーロが片言で話しかけてきた。どうやら屋上まで来てしまったらしい。オーロは部屋の隅々を探検したがり、好奇心が旺盛だ。
「なんでお前まで来たんだよ!」
「旅人だからな」クロが俺の肩からぼそりと言った。
オーロは七輪の煙に興味を持ったのか、ウィーンと音を立てて近づこうとする。
「ゴシュジン……ココ……ケムリ……オオイ……」
「おい、やめろ!火傷するぞ!」俺は慌ててオーロを止めようとする。
その間も、同僚Aは「親友、ビール飲むか?俺が奢ってやるぜ!」 とかまわず話しかけてくる。俺は「今は忙しい」と素っ気なく返した。
おかんは特製の「スタミナBBQソース」を肉に塗り始めた。
「これ、隠し味に味噌とキムチとブルーベリージャム入れたんや!」
「またブルーベリーですか……」 俺は思わず呟いた。以前のカレー会でも, 掃除会でも、彼女の料理には奇抜な隠し味が使われるのだ。
「テレビで見たんや!フルーティーなコクが出るって!」 おかんは胸を張る。
ニーさんが「俺はもっと辛いのが好みやけどな」 と言いながら、ポケットから謎のハバネロソースを取り出して肉に投入した。
「辛党のたしなみや」
「いつも持ち歩いてんのかよ、それ……」俺は半ば呆れて言った。
オーロはハバネロソースの匂いに興味を示したのか、ウィーンと回りながらニーさんの足元を掃除しようとする。
「ニーサン……カラアジ……ニオイ……」
「おいオーロ!そいつは食い物じゃないぞ!」 俺は叫んだ。
その時、アークが再び興奮して吠え始めた。オーロが「ワンッ!」と吠えるアークに驚き、全速力で逃げ出すが、肉を焼く七輪の足に激突した。ガンッ!と鈍い音が響き、七輪がぐらりと揺れた。
「あっ!」全員が声を上げた。
おかんが「七輪が!」と叫び、おとんが素早く七輪を抑えた。危なかった。炭が散らばるところだった。
「オーロ……ゴミニミエタ……ゴメンナサイ」オーロが片言で謝ると、おかんは逆に面白がって笑い出した。
「ゴミちゃうわ!あんたもか!」 とツッコミを入れていた。
エリーは少し困ったように笑いながらも、少しだけ散らばった炭を片付け始めた。
「まあ、こういうハプニングも、BBQの醍醐味ですよね」
「そんな感想初めて聞いたぞ……」 俺は半ば呆れて言った。
おネーサンは優雅にワインを飲みながら、「平和とは、喧騒の中にこそある」 とクロがよく言う言葉を口にした。
「……お前、なぜその言葉を知っている」クロが俺の耳元で低い声で呟いた。彼の体がわずかに震えているように感じた。
「あら、秘密よ」おネーサンは微笑んだ。彼女のミステリアスな魅力は、クロすらも動揺させるようだ。
俺は肉を焼き続けながら、賑やかな場の中にいる自分に気づいた。以前なら、こういう場所は苦痛でしかなかったはずだ。人付き合いは苦手で面倒くさがり。だが、今は……。
「親友、それ焦げてるぞ!」同僚Aの声。
「先輩、もうちょっとこっちに寄って焼くといいですよ」エリーの声。
「ロックが足りんな!」ニーさんのギター。
「ゴシュジン、モット…ヤキニク…」オーロの声。
「アーク!やめろ!」おとんの声。
「あんたたち、もっと食べなさい!」おかんの声。
そのどれもが、以前ほど耳障りではなかった。むしろ、心地よい背景音のように感じられた。俺は、いつの間にか笑顔になっていた。クロは俺の肩の上で静かに揺れている。まるで、俺の心の変化をじっと観察しているかのようだ。
BBQが終わり、夕暮れ時。屋上は少しずつ静けさを取り戻していく。俺は散らかった七輪や食器を片付ける手伝いをしていた。
「先輩、ありがとうございました!またやりましょうね!」エリーが満面の笑顔で言った。
「そうだな。今度は俺が店を探しておくよ」俺は自然とそう返していた。自分で自分に驚く。以前なら考えられないことだ。
同僚Aが「マジかよ親友!じゃあ次こそはキャンプ行こうぜ!」 と声をかけてきた。
「それはまた今度な」俺は苦笑しながら、彼の肩を軽く叩いた。人との物理的距離を詰めるのが苦手 だった俺が、自分から触れるようになっていた。
部屋に戻ると、オーロは充電台で静かに眠っていた。その背中に、クロの姿はない。彼はいつものように、部屋の隅に鎮座している。
俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、プシュッと開けた。冷たい炭酸の刺激が、落ち着いた心臓の鼓動に心地よく響く。
「今日の『外の風』はどうだった、人間。毒だったか、それとも…?」 クロが低い声で問いかける。彼の声は普段通り皮肉が混じっている。
俺はぶっきらぼうに答える。「さあな」だが、内心では「悪くなかった」と感じている。
「ちょっと疲れたが、悪くはなかった。……いや、むしろ、少しだけ心地よかった、か」 俺は小さく呟いた。
クロは何も言わず、ただ部屋の隅で揺れているように見えた。それが笑っているのか、呆れているのか、判断がつかない。しかし、その沈黙は、俺の言葉を肯定しているようにも感じられた。
「ふん。まあいい。お前がこの調子だと、私の生活にも影響が出る。もう少しマシな生活をしろ」クロはそう言いながら、微動だにしない。
いや、もしかしたら、彼はすでに俺の全てを見透かしているのかもしれない。俺が人付き合いが苦手で、他人に興味が薄く、孤独を受け入れているようで、どこか寂しさもあるのを。そして、本当は少し変わりたい気持ちも抱えていることを。
俺は窓の外の夜空を見上げた。
騒がしい一日だったが、心は不思議と穏やかだった。あの小さな黒い塊との奇妙で騒がしい「ぼっち生活」の日常は、新たな波紋を伴って、さらに深く続いていくのだろう。そして、この日々の中で、俺の心の中の矛盾した感情も、少しずつ変化していくのだ。
ただ一つだけ分かるのは——少しずつ、何かが変わり始めているということだ。そして、それは、決して悪い変化ではない、という確かな予感だった。
10話目です。
お読みいただきまして、ありがとうございます。




