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部屋の角(すみ)に黒いのがいるけど、たぶん無害  作者: MMPP.key-_-bou


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第9話:カレー屋の試練と黒い影

 水曜日の午後、外回りの帰り道。駅から少し離れた商店街を歩いていると、横から元気な声が飛んできた。


「ここです!」


 エリーが立ち止まった先には、小さなガラス張りのカレー屋があった。

 金色の象のマークが描かれた看板。店先から漂うスパイスの香りに、俺の胃が小さく鳴る。

 昼のピークは過ぎたはずなのに、まだ香りだけで腹を刺激してくる。


「……ここって、この前君が言ってた“激辛チャレンジ”の店じゃないのか?」


「そうですそうです! 辛さレベル30まであるんですよ」


「……30? もう食べ物じゃなくて兵器だろ」


「じゃあ今日はレベル20から挑戦します?」


「おまえ、俺を社会的に葬る気か」


 このところ仕事は妙に順調だった。以前なら緊張して固まっていた商談でも、筋道を立てて話せるようになった。

 ……が、エリー相手だとそういう自信は秒速で崩れ去る。


「じゃあ先輩、いけるのは何レベルです?」


「せいぜいレベル2だな。辛さより胃袋の耐久力の問題だ」


「えー、男らしくない〜。私なんかレベル10いけますよ」


「なんでそんなに誇らしげなんだよ」


「だって、辛さに強い女ってかっこよくないですか? “炎の女”って感じ」


「炎上しそうなのは君のSNSだろ!」


 くだらないやり取りをしながら歩くうちに、赤い看板の下へたどり着いた。

 横の黒板には「本日のおすすめ:チーズナンとレベル35カレー(自己責任)」とある。


「……35? 上限30じゃなかったのか」


「きっと特別メニューですよ。頼みます?」


「無理だ。なんで笑ってんだ」


「だって先輩、小心者みたいで可愛いなって」


「褒めてないだろ、それ」


 エリーは笑いながらドアを押し開け、俺を促す。

 店内はカウンターとテーブルが数席だけ。壁際には色とりどりのスパイス瓶が並び、空調に乗って異国の香りが漂ってくる。

 奥の席に案内され、エリーは早速メニューを開いた。


「見てください、“ドラゴンブレスカレー”!」


「名前からして危険だろ……食後に火を噴くやつじゃないか」


「挑戦してみましょうよ!」


「やだ。俺の胃は平和主義だ」


「じゃあ私が頼みますね、見学していてください」


「その見学も危ない気がする」


 ページをめくると、1辛から10辛までの通常ラインナップもある。

 俺は1辛に指を止めたが、視線を感じて顔を上げると、エリーがにやりと笑っていた。


「……1辛でいいかな」


「さすがに安全運転すぎますよ。せめて中辛、3辛あたりで」


「いや、“ピリ辛”って基準は人によるだろ」


「私基準です」


「その基準は信用ならん」


「じゃあ、私も3辛にしますから!」


「それじゃ“同じ地獄”に付き合わされるだけだろ」


「天国の入り口ですよ」


「なら俺は門の外で待つ」


「門番か!」


 結局押し切られ、3辛で注文することに。

 エリーは水のグラスを几帳面に並べ直し、スマホを取り出した。


「記念撮影しましょう」


「なんでだ」


「先輩が会社の外でランチなんて、レアなんですから」


「俺をポケモン扱いするな」


「じゃあ期間限定イベントキャラで」


「余計ひどいわ」


 抵抗むなしく、自撮りモードのカメラがこちらを向く。俺は顔をそむけたが、代わりにスプーンとコップがしっかり写っていた。


「こういうのは雰囲気が大事なんですよ」


「俺の存在感ゼロじゃないか」


「安心してください、ちゃんと影は映ってます」


「幽霊か」


 そんなやり取りをしていると、厨房から湯気とともにカレーが運ばれてきた。

 ルーの中には大ぶりのチキン。香りは甘くも刺激的で、胃袋の奥が鳴る。


「うわ、いい匂い!」


「確かに……見た目は天国だな」


「味も天国ですって。ほら、先にどうぞ」


「……いや、まずは君が」


「先輩、こういうときは遠慮しないでください。私、写真撮るんで」


「結局撮るのか」


――カレーの香りが満ちる店内で、俺がスプーンを口に運ぼうとしたその瞬間、ドアが勢いよく開いた。


「おーい! エリーちゃん! そして親友!」


同僚Aが満面の笑みで飛び込んできた。俺が「親友」と呼ばれるのは正直面映ゆいが、彼の明るさには抗いがたいものがあった。


「なんだよ、急に。ここで何してるんだ?」俺が問いかける。


「たまたま近くに用事があってさ。エリーちゃんに『カレー屋行くよ』って聞いてたから、顔出しに来たんだ!」彼は声を弾ませる。


「そ、そうなんだ」俺はぎこちなく笑い、静かな昼食が一気に賑やかになったことに少しだけ戸惑った。


エリーはにこやかに空気を和ませ、


「開いている席はたくさんあるので、好きな席を選んでくださいね!」と促した。


「じゃあ遠慮なく!」同僚Aは俺の隣に腰を下ろそうとした。


その瞬間、俺は慌ててツッコミを入れる。


「ちょっと待てよ! 隣じゃなくて、あっちの壁際、トイレのすぐ横の席のほうがお似合いだよ!」


同僚Aは目を丸くしてから笑い、


「おまえ、ひどくないか?! 親友の俺をそんな扱いするなよ!」


俺は苦笑いしながら、心の中で呟いた。


(いや、本音だから)


エリーは笑顔を絶やさず、


「じゃあ、そちらの席に座ってくださいね。私たちはここでゆっくり食べますから」


同僚Aはトイレ隣の席に移動し、メニューを見ながら話し出す。


「ここのカレー、辛さはどうなんだ?」


「俺は3辛で限界だけど、エリーは10辛もいけるらしいよ」


「10辛? すげぇな。俺だったら5辛くらいいけるかな…たぶん」


注文を済ませると、彼は賑やかに続けた。


「こういうところ来ると仕事のストレスも吹っ飛ぶよな。親友ももっと外に出て息抜きしろよ」


「……そうだな」俺は心の中でそう思いつつ、彼の陽気さに戸惑いながらも、どこか救われる気がした。


エリーが話題を振る。


「そういえば、休日は何してるんですか?」


「ほとんど家で本読んでる」


「えー、意外。もっとアウトドア派かと思ってた」


「いや、そんな体力ない」


「でも、私も読書好きです! 何読むんですか?」


「雑食で何でもだけど、最近はミステリーが多いな。君は?」


俺の心の壁が、少しだけ柔らかくなった。


三人でカレーを食べ始める。


辛さはそれぞれ違えど、笑顔は共通していた。


「はふはふっ…痛っ! 辛いけどうまい!」と同僚A。


「親友ももっと冒険しなよ。俺が守ってやるから」


「めっちゃダメージ受けてるやつに守られてもなぁ」


俺は苦笑いしつつも、今日が何か特別な日だと感じていた。


俺の中に、小さな変化の種が確かに芽吹いている――そんな気がした。


会社を出て、春の夜風が心地よく感じられた。

今日のカレー屋での出来事が、まだ胸の奥で静かにざわめいている。

いつもならまっすぐ帰るだけの道だが、今日は少し遠回りをしてみた。


アパートのドアを開けると、いつもの声が迎えてくれた。


「戻ったか、人間。」


クロがオーロの上でいつものようにデンと構えている。

彼の低い声には、いつもの皮肉に混じって、どこか心配が含まれている気がした。


「やけに浮ついているな。何かあったのか?」


俺はぶっきらぼうに答える。


「別に、いつも通りだ。」


だが、それは嘘だった。

今日、俺は少しだけ、外の世界と繋がった。

あのカレー屋のスパイスの香り、エリーの笑顔、同僚Aの無邪気な声。

それらが心の壁を少しだけ崩し、見えなかったものが見え始めていた。


クロはじっと俺を見つめ、ため息をつくように言った。


「ふん。まあいい。だが、お前が浮つくと私の生活にも影響が出る。もっとマシな生活をしろ。」


彼はオーロの上で微動だにせず、その姿はまるで哲学者のようだ。

俺の変化を見透かしているのかもしれない。


その時、オーロがいつもの間の抜けた片言で言った。


「ゴシュジン……タノシカッタ……カオ……」


彼の不器用な言葉が、静かな部屋に響いた。


「そうかもな。」


俺は空になったビール缶を潰す。

その軋む音は、心の壁が少しずつ壊れていく音のように感じられた。


「ゴシュジン……ヒトリ……ジャナイ……」


オーロの言葉が胸に染みる。


「……そうだな。」


俺は呟き、窓の外の夜空を見上げた。

孤独と向き合いながらも、少しずつ変わっていく自分を受け入れ始めていた。


こうして、俺とクロとオーロの、奇妙で静かな「ぼっち生活」は、今日も続いていくのだった。


9話目、カレーってなんで辛いのに美味しいんでしょうね。

ちなみに、私、1辛です。

いつも、お読みいただきありがとうございます。

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