プロローグ
あの日のことは、どうしても忘れられない。
引っ越して三日目の夜、俺はまたカップ麺に湯を注いでいた。台所の蛍光灯は少しだけチカチカしていて、まるで俺の生活リズムを真似しているみたいだ。昼夜逆転、食事は適当、部屋は人に見せられない状態。外は春の夜風がやさしいのに、窓はほとんど開けない。埃が舞い込み、隅で沈黙している観葉植物が咳き込みそうだからだ。
そんなとき、床を低くうなるような音が横切った。
自動掃除ロボットのオーロだ。
「正式名称は、自動自律型AI搭載・全天候型・多次元適応式・室内外統合清掃支援旅人ユニット「エターナル・ガーディアン・サポートマシン Type-MKII《Aurora Voyager-88》だったはず…」
買った当初は「未来的な同居人」くらいに思っていたのに、最近はやる気があるのかないのか分からない。今日も玄関の靴置き場で迷子になっていた。どうやら靴の隙間に鼻先を突っ込み、身動きが取れなくなったらしい。
助けてやりながら、俺はふと思った。
――俺もこいつみたいに、部屋の片隅で行き止まりに突っ込んで止まってるだけじゃないか?
そんな自虐をかみしめていたその瞬間だった。
「やっと気づいたか、人間」
背後から声がした。部屋には誰もいないはずなのに。振り返ると、薄暗いカーテンの陰に、小さな黒い影が立っていた。埃が集まって形になったような、口のようにも見える歪みを持つ、“何か”。
こいつが、俺の静かな日常をかき乱すことになるなんて――このときはまだ、知る由もなかった。




