閑話Ⅱ「ジェイという男」
朝露に濡れた小さな鉢植えに、指先が触れる。
ジェイはふっと笑った。硬いはずの表情が、そのときだけほんの少し柔らかくなる。
ゼロの本拠地の屋上。戦いとは無縁の静かな空間に、いくつもの草花が並んでいた。
誰も知らない──この花たちの世話をしているのが、ゼロ最年長の男だということを。
「もうすぐ咲くな。アイが好きそうな色だ」
ふと、風に吹かれるように立ち上がると、彼はそのまま廊下を歩きはじめた。
寄り道をする。料理をしているキューのそばに立ち、手際の良さに素直な賛辞を送り。
書類に埋もれるエフには、少しでも身体を休めろと冗談めかしながらも本気で心配し。
アイの部屋の前ではノックひとつで声をかけた。「寒くなってきた、風邪引くなよ」
──彼は、家族のようで、兄のようで、父のようで。けれど、誰よりも遠い。
時間が空けば、ジェイは孤児院を訪れる。数年前、ゼロの裏金で建て直した施設だ。
子供たちに名前を呼ばれ、頭を撫で、花を一緒に植え、笑って……。
穏やかで、静かで、あたたかい。
──それが、ジェイという男だった。
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夜の街に、ビルが一棟、ぽつりと浮かんでいた。
そこが、敵対組織のアジト。ゼロの人間に手を出した──粛清対象だ。
そして、その前に立っていたのは、ひとりの男。
ジェイ。
コートの襟を立て、目元を隠すように帽子をかぶっている。けれどその姿は、夜の闇よりもなお静かで、なお恐ろしかった。
「……行こうか」
小さくつぶやいたその直後、銃声がひとつ。
ビルの中、監視塔にいた見張りが崩れ落ちる。音は、誰にも気づかれないまま。
ジェイは淡々と歩く。無駄弾は一発もない。
動く者を正確に、致命に撃ち抜きながら、まるで慣れた作業のように進んでいく。
銃口を構える彼の瞳は、冷たく澄んでいた。
──花を愛でるように。人を殺すこともできる。それが、彼の強さだった。
だが。
階段を上がったその先、突き当たり。
部屋の扉を蹴破って踏み込んだジェイがふと動きを止める。
目の前にいたのは──銃を握った少年。
まだ声変わりもしていないほどの幼さ。恐怖に瞳を揺らしながらも、こちらを殺すために銃を構えていた。
ジェイの瞳が、ほんの僅かに揺れた。
引き金にかけた指が、止まる。
──撃てない。
心が、拒んでいた。
その一瞬の隙に、銃声が響いた。
ジェイの身体が、弾かれるように傾く。壁に寄りかかるようにして崩れ落ち、そのまま、沈黙した。