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第四話「翡翠の瞳」

 風が鳴いていた。


 どこか遠くで金属が軋む音と、誰かの絶叫が重なった。だけどそれは、地上の雑音でしかなかった。ヴィーの足元にいるハクには、それが実感の薄いものに思えた。


「ねぇ、ハク。見てて。今日は、ちょっと珍しいモノが見れるから」


 ヴィーは白銀の髪を風に遊ばせながら、屋上の柵に腰をかけ、脚をぶらぶらと揺らす。その仕草は、劇場の上等席で始まりを待つ観客のようだった。


 ──けれどその横顔には、高揚も興奮もなかった。


 飽きたようなまなざし。見慣れた退屈な演目を、ついでに観ているだけ。なのに、そこにはかすかな期待も混じっている。何か“壊れたおもちゃ”が、予想を裏切ってくれる瞬間を待っているような──そんな、退屈と好奇心の間にある気まぐれさ。


 ふとヴィーの視線が、真下のビル群ではなく、何もない空の一角に向けられる。ほんの数秒、誰もいない空間に目を留めて、すぐに視線を戻す。まるで舞台裏に迷い込んだ幻でも見つけたかのように。


「……ふふ。見ててね」


 彼がそう呟いたとき、下から何かが破裂する音が響いた。


 血の飛沫とともに、肉の塊が宙を舞った。


 その中心に、ケイがいた。


 彼はまるで花を摘むように、無造作に敵の腕を引き千切っていた。その顔には喜怒哀楽のどれも浮かんでいない。ただ、遊びに夢中になる子どものような純粋な無垢さだけがあった。

 淡い緑の髪が風に揺れるたび、左目に埋め込まれた翡翠の宝石が陽を反射し、妖しく煌めいた。


「きれいだね」


 ぽつりとケイが言った。誰かの臓器の破片が、まだ指に絡まったまま。


「うわあ、やっぱり……ケイって面白いよねぇ」


 ヴィーは笑った。だがその声には熱がなかった。まるで何十回も見た同じ劇を前に、惰性で笑う観客のように。興味がないわけではない。ただ、特別ではないのだ。今日の惨劇も、彼にとっては予定調和の娯楽の一環でしかない。


「ねぇ、君はどう思う? あの子……人間だと思う?」


 誰に問いかけたのか。ヴィーの視線は、また一瞬だけ、誰もいない空間に逸れていた。


 ハクがその視線の先を見上げたとき、そこにはただ、空があるだけだった。


 あれから地上は、すっかり静けさを取り戻していた。

 あれだけの喧騒と絶叫のあととは思えない、嘘のような静寂。血と肉の匂いが風に運ばれ、まだ温かい死体がいくつも転がっている。それでも、この場所に立つ二人──ケイとヴィーには、それが日常の風景にすら見えた。


「……うん、全部終わったね。じゃあ、そろそろ“観劇”もおしまい」


 ヴィーは立ち上がり、ハクを軽々と抱え上げる。抱かれるままのハクの表情は、やはり無機質で、まるで壊れかけた人形のようだった。

 そして、ヴィーはふわりと宙を舞った。地面に触れる直前、風が彼の足元を撫でたように動き、白銀の髪がひときわ大きく揺れる。重力を無視したような動きで、彼とハクは、ケイのいる場所へと音もなく降り立った。


「やっほー、ケイ。お掃除ご苦労さま」


 ヴィーが気楽に声をかけると、ケイは振り返り、無言のまま笑った。その目は相変わらず、何の罪もない光を宿している。けれど、周囲に転がる死体が、彼の「無邪気さ」がどれほど恐ろしいかを語っていた。


 そして──ケイの視線が、ヴィーの腕の中に収まる白い少年に向いた。


「……?」


 ケイは首を傾げると、まるで新しいおもちゃを見つけた子どものように、ハクの周りをくるくると歩き始めた。前屈みになったり、覗き込んだり、背中側に回ったり。すべての動きが、純粋な好奇心に満ちていた。


「ちいさい。しろい。うごかない」


 ケイはヴィーの腕の中にいるハクの顔をまじまじと見つめる。少しの間考え込むような沈黙のあと、彼はにこりと笑った。


「よろしくね」


 そう言って、ケイは片手を差し出した。


 ……血と肉にまみれた、その手を。


 ハクは微動だにしなかった。敵意も、警戒も、困惑すらない。ただ、感情の欠けた瞳でケイを見返している。


「あれ?」


 ケイは、まるでリモコンが効かないテレビに向かっているかのように、不思議そうに首を傾げた。


「なんで?こういうときは、こうするんでしょ?」


 そのまま、ぐい、とハクの手を掴む。抵抗のない小さな指を、自分の血塗れの手に合わせ、無理やり握手の形にした。


「ほら、できた」


 ケイはとても満足そうに笑った。その目はまるで、「うまくできたでしょ?」とでも言いたげだった。

 ヴィーはその様子を見ながら、肩をすくめる。


「仲良くなれそうで何よりだよ、うん」


 まるで、心から信じていないような声音で。けれど、その目元には微かな笑みが宿っていた。


 ケイの手に強引に自分の手を包まれた瞬間。

 ハクは、わずかにまばたきをした。


 それは反射でも、まぶしさでもなかった。ただ、ほんの少しだけ、心の奥で何かが引っかかったような──

 そんな、名もない感覚。


 べったりと血の感触が伝わる。温かく、生ぬるく、鉄の匂いを纏った液体。

 しかし、そういった物理的なものではない。

 ハクの意識が反応したのは、目の前の少年──ケイの、行動と、言葉と、その笑顔だった。


 ケイは嬉しそうに笑っていた。自分の差し出した手が、きちんと握られたことが、嬉しいらしい。

 それだけの理由で満足しきっている。その無垢さは、確かに子どもそのものだった。

 けれど、彼の周囲に転がるのは“死”ばかりだ。


 何かがおかしい。

 けれど、それが“おかしい”のか“普通”なのか──ハクにはまだわからない。

 わからない。でも、なぜかこの胸の奥が、ひどく落ち着かない。


「……」


 ハクの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。けれど、次の瞬間にはまた、いつもの無表情に戻っていた。


 ヴィーはそんなハクの変化を、興味深そうに横目で見ていた。

 しかし、何も言わず、ただ口元だけを緩める。


「……じゃあ、次はどこ見に行こうか。ケイも一緒に来る?」

「んー……ぼく、きょうはここでおしまい。つかれた」


 ケイは握ったままのハクの手をようやく離し、指をぶらぶらと振ってから、地面に座り込んだ。

 まるで、遠足帰りの子どものように。


「そ。じゃあ、またね。ハク、バイバイって言ってごらん」


 ハクは何も言わなかった。ただ、ケイの顔をじっと見つめたまま。

 そのまま、ヴィーに抱えられ、空へとふわりと浮かぶ。振り返ることもなく。


 けれど──その瞳の奥底には、まだほんの僅かに、名もない感情の種が残っていた。

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