第五話「警鐘」
静かな足音が、フロアに微かに反響していた。
ガラス張りの役員室。その中央で、エルは一人、デスクに指を組み、沈黙の中で思考を巡らせていた。背後では、株価のグラフと取引データの波が、途切れることなく流れている。
「……順調だ。少なくとも、今はな」
つぶやいた声は冷たく、どこか空虚だった。
ゼロ・カンパニー──表向きには若者の雇用支援や商品開発を行う清廉な企業。だが、それはただの仮面だ。
その裏側で、エルは常に何かを計算し続けている。
「……白い子供、か」
視線の先。モニターに映るのは、防犯カメラ越しの映像。ホールを通り過ぎる、銀に抱かれた白い小さな影。
エルの瞳がわずかに細まる。
──あれは、ゼロを壊すかもしれない。
エルの指がデスクを軽く叩く。無意識の癖。けれど、そのリズムには焦燥も苛立ちもない。ただ、深く静かな水底のような冷ややかさだけがあった。
「……どう思う、ジェイ」
部屋の隅。ソファに腰かけ、新聞を広げていた男が目線を寄越す。
「君まで気にするとはな。ヴィーと違って、君はもっと理性的な側だと思っていたが」
「理性的だからこそ、だよ。あれは“理屈じゃない”」
ジェイは唇を軽く噛むと、新聞を丁寧に折った。
「何かを感じたのか?」
「感じた……というより、確信した。あの無表情の中には“底”がない。無垢とも違う、拒絶でもない。ただの“欠落”。しかも、どこまでが空洞なのか誰にも分からない」
ジェイは返す言葉を持たず、静かに息を吐いた。
「ヴィーが育てているらしいが、あいつは責任感で動くタイプじゃない。あれも、どうせ何かの“遊び”だ」
エルは立ち上がる。高層階のガラス越しに見える夜景は整然として美しかったが、その秩序は脆い。一つ崩れれば、あとは連鎖する。
「──さて、そろそろ時間だな」
ジェイも立ち上がる。コートの裾を払って歩き出すその背に、エルは言葉を投げかけた。
「ジェイ。……僕は君ほど甘くも優しくもない。家族以外は、邪魔になれば切り捨てる」
低く、凍るような声。だがその奥にあるのは、言葉にしきれない憂いだった。
***
夜のオフィスは静まり返り、照明も最低限しか灯されていない。
そんな薄暗い役員室に、音もなく男が現れた。
「ご無沙汰してますよ、エル様」
スーツ姿に整った外見。だがその目は、まるで飼い慣らされた獣だ。あるいは、それ以上の何か。
「今回は特別な情報の交換を提案しに参りました」
エルは椅子を勧めることもせず、ただ冷ややかに視線を合わせる。
「──対象は?」
「“白い子供”。……ハク、でしたか。あれについて、我々はいくつか興味深い情報を持っています」
エルの瞳が細まる。
「見返りは?」
「君たちが探していた、あの研究所の残党──“リアム”の生き残りだ」
その名に、エルの眉がほんのわずか動いた。
「……まさか、それを餌にしてくるとはな」
男は口角を上げる。「あなたが断れないと、分かっていましたから」
沈黙が満ちる。部屋を包む空気が、わずかに軋んだ。
「──検討しよう。ただし、我々を甘く見ないことだ」
その声は低く、深く冷えていた。凍てつく湖底から這い出すような響き。
男が薄く笑みを浮かべたとき──部屋の照明が、一瞬だけ明滅した。
それは、なにかの“前兆”のようだった。
***
再び静寂。エルは椅子に身を沈め、目を閉じる。
「ハク……君は、一体、何者なんだ?」
そのときふと、ヴィーの笑い声が脳裏に木霊した。くすりと、嘲るように。まるですべてを見通しているかのように。
それは──崩壊の鐘が、遠くで鳴り始めたような音だった。