第二十話「違う」
朝が来た。
ゼロのリビングに、いつもと変わらぬ朝の光が差し込む。いつも通りの朝食。いつも通りの会話。いつも通りのヴィー。
──けれど、ハクだけは知っていた。
その「いつも通り」が、まるごと嘘だということを。
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「……パン、こげてる」
「あー、ちょっと目を離したら焦げちゃってさ。これ、食べる?」
にこりと笑って差し出されたパンを、ハクはそっと避けた。
ヴィーに触れられるのが、怖かった。少し前までは、どれだけくっつかれても平気だったのに。
今のヴィーは真っ黒だ。言葉も、仕草も、笑い方すら瓜二つなのに、まるで泥に塗られた“偽物”。ずっと背後にいた黒い影が、いまでは彼の全身を覆っている。
「……いらない」
ぽつりと落とした声に、ヴィーの笑顔が一瞬だけ──ほんのわずかに揺らぐ。
けれど、それに気づく者はいなかった。エフも、ジェイも、みんな“いつものヴィー”を信じている。
違う。違う。違う──あれは、ヴィーじゃない。
ハクは俯いたまま、服の端をぎゅっと握る。怖い。泣きたい。けれど、言葉が出ない。
何をどう伝えれば信じてもらえるのか、それがわからない。
──けれど、もう黙っているわけにはいかなかった。
ハクはそっと椅子を降りる。偽物のヴィーがこちらを見ている。その瞳の奥に、濁った闇が揺れていた。
「ハク、どこ行くの?」
その問いには答えず、小さな声で、けれどはっきりと呟いた。
「……まってて」
ドアが閉まり、音を立てて朝の空気を断ち切る。ハクは一度も振り返らずに歩き出した。
本物のヴィーを、取り戻すために。
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「……クロ、たすけて」
小さな声。けれど、はっきりとした“願い”だった。
ハクが、初めて人に助けを求めた。不安で押し潰されそうだった。
でも、クロなら──誰より鋭く、誰より冷静で、そして優しい、あの人なら。
「ヴィーが……ヴィーじゃなくなった」
その言葉に、クロは一瞬だけ眉をひそめた。けれど何も言わず、ただハクの手を取った。
そこに言葉はない。けれど、その手の温もりが語っていた。
“わかった。だから、大丈夫だ”──と。
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クロの部屋を出たあと、二人は人気のない廊下を抜けて、ゼロの裏倉庫へ向かった。
「……なにか、見えるのか?」
ぽつりとクロが尋ねる。ハクは、こくんとうなずいた。
「ずっと前から。ヴィーのうしろに……最初はちいさな影。でも、最近は──ヴィーぜんぶが、まっくろ。中にヴィーが閉じ込められてるみたい」
「……そうか」
クロはいつになく真剣な表情をしていた。
「実は、俺も最近、妙な違和感はあった。けどそれだけじゃ“偽物”とは断言できなくて……。
でも、お前の目に映ってるっていうなら──あれは、やっぱり本物じゃない」
「……助けられる?」
「正直、わからない。
でも──助ける。助けられるかどうかじゃない。助けるんだ、俺とお前で」
クロは懐から小さな端末を取り出した。ジェイから特別に支給された、ゼロの全記録へアクセス可能な権限付きの端末だ。
「ハク、頼みがある。ヴィー……いや、“偽物”の行動を正確に記録してほしい。
会話、移動、癖、全部だ。今のうちに、細かく。あいつはまだ油断してるはずだ」
「……うん」
「……怖いと思う。でも、いつも通りに偽物に接してくれ。
“あいつ”に気づかれたら、逆に危ない」
「うん……がんばる」
ハクは真剣にうなずいた。大切な人を、取り戻すために。たとえ相手が、ヴィーの顔をした“偽物”でも。
──影に覆われたヴィーの真実に、今、二人が踏み込もうとしていた。




