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第十九話「鏡の中」

 それは、気づけば始まっていた。


 いつもの朝。いつもの時間に目を覚ましたはずなのに、ヴィーの視界はどこか、微かに違って見えた。


 白い天井──けれど、どこか灰色がかって見える。匂いも、ほんのわずかに違っていた。ここは確かにゼロのアジト。ヴィーの部屋──のはず、だった。


「……あれ?」


 小さく声を漏らす。喉が乾いていた。何かを言った感覚があるのに、言葉そのものが思い出せない。


 寝癖をぐしゃぐしゃと乱しながら立ち上がると、部屋の隅の鏡がふと視界に入った。


 白髪の男──鏡に映るのは、確かにヴィーだった。けれど、その目は笑っていなかった。


「……気のせいか。最近、疲れてるな」


 冗談めかして呟いてみたが、鏡の中の自分が、一瞬だけ唇の端を吊り上げたように見えた。


──その日から、異変は加速していった。



 会っていないはずの場所で「会った」と言われることが増えた。

 ヴィーには、まったく記憶がない。エフにも、ジェイにも、何度か指摘された。


「さっき倉庫で書類まとめてたよな?」

「……え? ずっとリビングにいたけど?」

「今日、“じゃあな”って言ったの、朝の時点で二回目だぞ」

「え?……寝ぼけてたとか?」


 そう笑って誤魔化すヴィーを、二人は黙って見つめていた。その視線に、言葉にできない寒気が走った。



 さらに数日後。ハクの様子も変わった。


 それまで甘えたように懐いていたハクが、ヴィーの顔を見ると、ふいに身を引くようになった。


 まるで、どこか知らない人を見るような目で。


「……どうした、ハク?ヴィーだぞ?」

「……こわい」


 小さな声。怯えるように袖を振り払われた瞬間、ヴィーの胸に、なにか重たいものが沈んだ。


 ──否定される感覚。


 ハクの目に映る“自分”は、本当に“自分”なのだろうか。



 夜。ソファに沈むヴィーの隣で、ジェイが問いかけた。


「……最近、眠れてるか?」

「うーん、まあ、ぼちぼち?」

「ヴィー」


 その名前を呼ばれて、ヴィーは少しだけ口をつぐんだ。


「……夢を見てる。変な夢。自分が、自分じゃない夢」

「どんな夢だ?」

「白い部屋で、俺が鏡を見てる。でも鏡の中の“俺”は黒髪で……ずっと俺を睨んでる」

「……何か、言ってたか?」

「いや、何も。でも……笑うんだよ。俺を見て、お前の場所はもうないって顔で」



 その夜、ヴィーは久しぶりに一人で風呂に入った。


 曇った鏡。湿気。滴る水。


 タオルを手に取り、ふと鏡を見る。


──そこに、自分がいなかった。


 鏡に映るはずの“ヴィー”が、どこにもいない。背筋を、氷のような何かが這い上がる。


「……っ、なんだよこれ……!」


 思わず後ずさる。その瞬間──鏡の中に“ヴィー”が現れた。だが、それはいつものヴィーではなかった。


 髪は黒。瞳は虚ろ。無表情のまま、鏡越しにヴィーを見下ろしている。


「……おまえ、誰だよ……!」


 声を震わせ、問いかける。


 黒髪のヴィーは、にぃ、と笑った。そして静かに、手を伸ばしてきた。鏡という境界をすり抜けるように、冷たい指がヴィーの胸元を掴む。


「──おまえは、もういらない」


 その声は、耳元に直接囁かれるように響いた。


 息が詰まる。体が動かない。


「やめろ、やめろ……っ、俺は、俺は──!」


 意識が、闇に引きずり込まれていった。



 ──ヴィーは、目を覚ました。


「あー……眠い……」


 ベッドの上。朝の光。いつもと変わらない朝。


 あくびをして、シャツを頭から被る。キッチンに立ち、いつものように朝食を作る。


 それを見たエフは、変わらず報告を促した。


「午前七時三十二分、朝食開始。昨日の就寝時間は?」

「午前一時半。夢も見てないし、すこぶる健康」


 にこやかに返すその様子に、エフは頷き、疑いもしなかった。


 ──すべてが、“完璧”だった。あまりに、完璧すぎるほどに。


 だが、ハクの怯えは収まらなかった。むしろ、日を追うごとに強まっているようだった。


 今や、ハクはヴィーを直視しようとさえしない。



 その夜。歯を磨いた後、ふと洗面所の鏡を覗いた。


 ──鏡の中の“ヴィー”が、泣いていた。


 必死に何かを訴えるように、ガラスの内側から拳を叩いている。


 「……出せ!」


 声は聞こえない。けれど、唇の動きははっきりと読めた。


 ──だが、鏡の外にいる“ヴィー”はただ微笑む。


「……はは、なんのこと?」


 指先をそっと、鏡に当てる。


 向こう側で泣き叫ぶ本物の“ヴィー”に向かって、優しく囁いた。


「まだ静かにしていてね。君の体は、僕が優しく丁寧に使ってあげるから。二度と僕を捨てないように」


 ──そのやり取りを、誰かが見ていた。


 けれど、“それ”にも、“彼”にも、気づかれることはなかった。

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