第十八話「静寂な侵略」
朝。
ゼロのアジトには、いつもと変わらない朝の風景が広がっていた。
銀髪の男──ヴィーは、キッチンで目玉焼きを焼きながら、気怠げな鼻歌を口ずさんでいる。その背後では、エフが無言でメモを取り続けていた。
「午前七時三十五分、朝食準備開始。メニューは目玉焼き、トースト、ハク用のミルク……野菜は?」
「入れた入れた。昨日よりちょっと多めにしたから、許して」
「可視化して確認する。トマト三切れ、レタス一枚……微妙だな」
「細かっ……!」
「細かくない。これくらい普通だ」
「ほんと、几帳面でえらいなぁ……」
ヴィーは頬杖をついて気の抜けた声を出す。エフはノートを閉じると、目玉焼きをフォークで突いているハクを一瞥し、いつものように注意する。
「ハク、それは遊ぶものじゃない」
「……あむ」
「正直でよろしい」
小さく笑い、ヴィーはハクの頭を優しく撫でた。
ほんのささやかな日常──けれど、ヴィーはどこか落ち着かない。
昨日からずっと、胸の奥に奇妙なざわつきがある。喉の奥に引っかかる石のような違和感。痛みではない。ただ、ひたすらに気持ち悪い。
視界の端がチリチリと歪む。耳鳴りもする。誰かの声が聞こえた気がして振り返っても、誰もいない。
──誰にも言えなかった。
言えばまた、誰かが“支えよう”としてしまう。それが重荷になることを、誰より自分が知っていたから。
「……ヴィー?」
不意にエフの声。気づけば、スプーンを持ったまま手が止まっていた。
「……あぁ、ごめん。ちょっと考え事してた」
笑ってごまかし、口に運ぶ。その手が、ほんのわずかに震えていた。
エフは眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
⸻
午前中。
ヴィーとエフはゼロの各拠点を巡っていた。物資の確認、情報網の点検、管理部門とのすり合わせ──だが、エフが気にしていたのは、それとは別のことだった。
「お前、最近……ちゃんと寝てるか?」
「寝てるよー。めちゃくちゃ健康的に。夜更かしもしてないし」
「嘘だな。昨日の記録によれば、寝たのは午前二時半だったろ」
「……なんでそこまで見てるのさ」
ヴィーは照れ隠しのように笑ったが、エフの目は鋭いままだった。
「……エフ…俺、壊れてるって思う?」
「思わない。ただ、心配してる」
言葉は真っ直ぐだった。けれど、ヴィーはそっと視線を逸らした。
壊れていないという返答に、なぜかほっとする一方で、どこか──それすらも“嘘”のように感じた。
⸻
昼下がり。
近くの公園。ハクが地面のアリをじっと見つめている。ヴィーはベンチに腰掛け、風に目を細める。
「……いい風。ちょっと、眠くなるな」
目を細めた瞬間、視界が揺らめいた。
──誰かが、隣に立っている気がした。
ちらりと白いローブの裾が見えた気がする。
「……またか」
ヴィーはこめかみに指を当て、空に目をやる。
「誰だよ、からかってんのか?」
笑ってみせるが、笑いは空虚だった。
──ふと、風が止んだ。
空気が“息をひそめた”ような重苦しさが落ちる。
「っ……は」
息が詰まる。背筋を這う気配。いるはずのない“何か”が、確かに存在していた。
「……マジでやめてくれ。壊れてる暇なんて、ないんだよ」
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夜。
ゼロの屋上。ヴィーはひとり、夜風にあたっていた。
雲が空を覆い、月はぼんやりと滲んでいる。
──視界の隅、何かが動いた。
「……猫?」
黒い影が壁をよじ登る。それは猫にしては“人間に近すぎる”形をしていた。
ヴィーがよく見ようと身を乗り出した瞬間、影はふっと消えた。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「幻覚……じゃない。あれは、人だ」
誰かが、俺を見ている。
⸻
数日後。
地下射撃場に現れたジェイ。的に並んだ穴を見て、肩をすくめる。
「昔は、こんなの目ぇつぶってでも……」
苦笑しながら的に並んだ穴を数える。
ふと、後ろに気配を感じて振り返ると──そこには、見知らぬ少女が立っていた。
桃色の髪を肩で揺らし、ゼロの制服ではない服を着ている。だが、その姿にはどこか既視感があった。
「……君は?」
ジェイが声をかけると、少女はにっこりと微笑んだ。
「こんにちは、ジェイさん」
名を呼ばれ、ジェイの眉が動く。
「……会ったこと、あるか?」
「直接はないよ。でも、あなたのことは知ってる」
少女は親しげに言う。
「私はね、ワイ。ヴィーから聞いてない? 昔──あなたのこと、ずっと見てたの」
ジェイは無意識に一歩、距離を取った。
「君、どこの所属だ?」
「どこだと思う?」
問い返され、ジェイがもう一歩下がろうとした瞬間、少女の目が、わずかに揺らいだ。
「やっぱりジェイさんって、優しいよね」
「え?」
「何でも許すし、受け入れる。だからこそ、欲しいの」
「それは……どういう──」
「──あの時、ジェイさんは私を見なかった」
その声が、低くなる。
「私はね、“アイの代わりに処分された”の」
ジェイは息を飲む。
「……まさか、君は──」
「またね。次はちゃんと、私だけを“見て”くれると嬉しいな」
その言葉とともに、少女の姿がふっと掻き消える。
次の瞬間、撃ち終えた的の裏にあった紙束に、赤い×印が浮かんでいた。
──それは、警告のようだった。
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ヴィーの異変は、輪郭を持ち始めていた。
鏡に映る“自分”が、時折、黒髪の無表情な男と入れ替わる。
「……誰だよ、お前」
問いかけても、返事はない。ただ、“それ”は口元をゆっくり吊り上げる。
──まるで、お前が消えるのを待っている、とでも言うように。
⸻
リビングでエフは、ヴィーを見つめていた。
顔色が日に日に悪くなっていく。冗談も空回り気味で、笑顔に覇気がない。
「ヴィー、お前──」
「平気だよ。寝不足なだけ。……たぶん」
エフは言葉を飲み込む。嘘だと分かっていても、追及すれば壊れそうな気がした。
だから、黙って見守るしかなかった。
⸻
その夜。
「エフ、最近のヴィー、どう思う?」
ジェイの問いかけに、エフは即答する。
「何かが、おかしい。確実になにかに気づいてるのに、言えないでいる感じ」
すっとジェイが差し出したのは、一枚の写真。ゼロのリビング窓、その隅に、赤い×印。
「……リアムか?」
「多分ね、だけど、これは宣戦布告って感じじゃない気がする。ただの勘だけど」
──その瞬間、ヴィーの「“優しさ”に来る」という言葉が、エフの脳裏に蘇った。
「……ジェイ。お前、ヴィーのそばにいてやれ……嫌な予感がする」
「お前はどうする?」
「大丈夫。無茶すんのは、お前とヴィーの役目だろ?」
「……信じてるぞ」
「ああ、任せろ」
⸻
日常は、続いていた。
けれど、それは確かに、静かに、静かに蝕まれていた。
“ゼロ”という名の拠点が、その核から侵されていることに、まだ誰も、気づいていなかった。